切り立つ崖の2
佐久間刑事と熊野刑事の捜査が続く。正勝の死亡推定時刻は明確ではないが13時~15時くらい。13時からの足取りがつかめない。正勝のスマフォの通信履歴は当日4件のみ。
一方の裕美たちは、社長夫人の涼子と女子会。気が合わないと思っていた涼子が意外にフランクでコイバナやエロネタを連発。感化された裕美も妄想モードに。
大会二日目も晴天に恵まれたまま終了し、純樹たちは予選を順当に勝ち進むことができた。正直なところ、予選グループでの強敵は1チームだけだった。そのチームにさえ勝てれば決勝グループに参加できる。
炎天下での応援と大会進行の裏方的な仕事をこなして、裕美も鈴も疲れ気味でホテルに戻って来た。だが、若さの力はさすが。大浴場で汗を流すとあっという間に元気を取り戻した。
元気になるや空腹感に満たされながら勢いよく部屋を出て、ご馳走が待つレストランに向かう二人。食欲面でも野獣のような男たちは先に行って獲物を確保しているはずだ。
「ねえねえ、知ってますか?」
エレベータの中で鈴が思わせぶりに裕美の気を引く。
「何を?」
「バイトの北沼君から聞いたんですけど、和真社長の愛人がこのホテルに宿泊しているって」
「マジ?」
にわかには信じられない。正直、あり得ないだろう。
「しかもですよ、和真夫妻と同じフロアにあるスウィートルームですって」
「信じられない」
空腹のためか、裕美の頭は全く回転していない。
「ホテル内でもサングラスを掛けているし、つばの大きな帽子を被っているから顔はわかり難いそうです。食事も外食かルームサービス。でも、たまたまルームサービスを運んだ北沼君が彼女の顔を覚えていて、彼ひとりが知ってしまった。秘密情報なのでホテル従業員には話せないけど、どうしても黙っていられなくて私に話してくれました」
鈴はやや自慢気に裕美の反応を待っている。
「社長の愛人の顔を覚えている彼に感心するわ」
裕美は意味の分からない大人の行動に興味もないし、余計なことに巻き込まれたくない。
「まあ、そんなことより今は食事よ」
裕美が気分を変えるような語気で放った。
「でも、今夜は少し緊張しますね」
鈴の不安をエレベータに置いたまま二人はレストランに向かう。いつものように、夕食時のレストランは若者たちの熱気で騒然としている。二人はその熱気の渦を通り抜け、暑苦しい男たちから少し離れた区域にある窓際の席へ向かった。
「あそこのようね」
背の高い観葉植物の間に、不気味なくらいに愛想の良い涼子の笑顔があった。涼子に手招かれて、彼女が腰を落ち着かせている四人掛けテーブルに近づいた二人は、
「こんばんは」
涼子に負けないくらい愛想良く挨拶した。
「こんばんは。どうぞ座ってください。急にお誘いしてごめんなさいね、可愛い男子たちと離れ離れにして申し訳ないわ」
涼子は明るく笑ったが、言葉にしたような謝罪の感は微塵も窺えない。
今夜の食事は、女同士でテーブルを囲むと言う涼子の提案だ。なぜ自分たちが選ばれたのか不思議だが、断る理由も無いので二人は誘いに乗った。涼子は完全に女子会気分でいるようだ。既に生ビールが各自の前に並んでいる。
「いつも主人とばかりじゃ飽きちゃうから」
二人が腰を下ろすや否や、涼子が女子会の口火を切った。
「飽きるなんて勿体ない。素敵なご主人じゃないですか。お金持ちだし、そこそこ良い男ですし」
鈴の屈託のない言葉に、
「そこそこね」
と涼子は笑った。
「やっぱり、結婚すると飽きますか?」
裕美は将来への不安も手伝って、結婚の体験談を聞き出そうとする。
「そうね。毎日顔を合わせていると男と女じゃなくなってくる。だんだん兄妹みたいな感覚に近くなってくるかも」
涼子は軽い口調で答えてワインを含む。三人の前にワイングラスも並んでいるが、涼子のグラスだけワインが揺れている。
「お子様は?」
「まだできないのよ。もっとも、最近はあまりしてないけどね」
いきなりの直球に裕美も少し引いてしまう。
「あら、ごめんなさい。まだ食事中なのに品のないこと言っちゃった」
「いえいえ、私たちも品のない女ですから」
鈴がご機嫌を取る。すると気を良くした涼子が急に身を乗り出すや、ヒソヒソ声で、
「じゃあ、遠慮なく聞いちゃうけど。二人とも彼とはもうやったの?純樹君と達彦君だっけ」
と、二人の瞳を交互に覗き込んだ。
「鈴ちゃんは達彦さんを好きかも知れないけど、私は純樹さんのことは良くわかりません」
裕美が鈴の表情を気にしながらも涼子の茶目気に水を差した。涼子は一瞬興覚めな皺を目元に浮かべたが、すぐにまた鈴に詰め寄る。
「達彦君とはまだなの?」
鈴は小さく首を横に振る。
「じゃあ、このイベントがチャンスね」
「そうですね。ずっと一緒にいられますし」
鈴が頬をやや紅潮させて賛成する。鈴は涼子に調子を合わせているだけなのか、本当に達彦のことを好きなのか、裕美には判断できない。
「それに、試合には水着姿の女子がたくさん観戦に来ているでしょ?」
意味不明の涼子の言葉に裕美も鈴も困惑している。
「彼らは女子の水着姿に刺激されているはずよ。きっと寝る前にはムラムラして困っている」
涼子は意味深な笑顔を浮かべている。
「でも、男子はムラムラしたら自分で……ねえ?」
鈴は裕美に同意を求める。すると涼子がすかさず、
「あなただって、欲しい時にはどんなに自分で慰めてみても物足りないでしょう?」
と、鈴の瞳を見つめながら、
「男子も一緒よ。どんなに自分で処理しても満たされない。やっぱり女が欲しいものよ。だから今がチャンス」
と言って、オードブルの生ハムを口に運んだ。二人は涼子の言葉を理解するのに少し時間が掛かったが、やがて納得してビールに口を付けた。裕美たちのテーブルに広がっている料理は涼子が特別に指示したメニューのようで、裕美と鈴の分も用意されている。
涼子の言うように、純樹も女子たちの水着姿に刺激されているのだろうかと、サラダを食べながら裕美は考えてみる。確かに、自分よりも遥かにスタイルの良い女性やセクシーな女性がたくさんいる。だが純樹や達彦はバカの様に試合に夢中で、水着などに気を奪われる余裕などないようにも思える。
「達彦さんたちは試合に必死で、周囲のことなんてあまり気にならないと思いますよ」
鈴が裕美と同じ考えを口にした時、またも涼子が大人の表情を浮かべて語る。
「そこよ、狙いどころは。男子たちは試合に必死でアドレナリンが出まくっている。要するにオスの本能剥き出し状態。確かに、試合中はあなたの言うとおりだけど、試合の合間や後まで集中していると思う?むしろオスの本能を持て余して、野性的な感性で水着姿を眺めているはずよ」
涼子は小グラスで泡を立てているビールを口にすると、やや欲情気味にひと息吐いてから、
「だからあなたも、もう少しセクシーなホットパンツかミニスカートを穿いて、無理やりでも彼の部屋に押し入っちゃいなさい」
と、鈴を煽ってクスクスと笑った。
一体、どこまで本気で言っているのか分からないが、涼子は悪戯ぽい笑顔を浮かべながらビールを味わっている。裕美は、何のためらいもなく純樹が部屋に入れてくれたことや、少年漫画誌に付いた可愛いアイドルの水着写真と、純樹の本能がなせる行動などを想像してみた。
「さあ、新しいワインが来たわ。あなたたちも遠慮なく飲んでね。今夜は女子会を楽しみましょうよ」
涼子の声で、三人は赤い光を放つグラスを持って軽く合わせる。小さな器に盛られた料理が次々に運ばれてきて、三人はしばし料理の話題と恋愛の話で盛り上がった。涼子が最初の印象ほど意地の悪い女ではないことが分かってきて、裕美も素直に楽しめるようになってきた。
オードブルとカルパッチョを食べ終えた頃、和真と純樹が彼女たちのテーブルに近づいて来た。裕美も鈴も、さっきの会話が急に蘇ってきて少しはにかんだ笑顔で彼らを見上げる。
「これから、私の部屋で純樹君と飲むので……。ごゆっくり」
和真が三人を見渡しながら告げる。
「もう食べ終わったの?」
いつも以上に早い純樹の食事に裕美は驚いた。
「君たちは、食べるよりも喋っている時間の方が長いように見えますが」
和真が冗談を投げ掛ける。裕美たちは和真に社交辞令の笑顔を送ってから、
「達彦さんは?」
と、鈴に気を遣った。
「ああ、彼は見たいドラマがあるらしい」
達彦がレストラン出口からこちらを見て軽く手を振っている。鈴はそれに応えたが、裕美は無視してステーキにナイフを入れ始める。
「あなたは達彦さんを好きじゃないの?」
涼子の鋭い問いに軽く肩をすくめて見せる。
「美味そうですね」
純樹が好奇心を丸出しにして裕美の肩越しにステーキを見つめている。裕美はナイフを入れた肉をフォークに刺して、少し振り返り気味に彼の口に入れた。
「うまい!」
純樹は子供のような笑顔で叫んだ。
「ルームサービスで取ってあげますよ」
和真の言葉に純樹は小躍りしながら付いてゆく。そんな後ろ姿を微笑みながら見送っている裕美に、
「可愛いわね、彼。あなたが何とも思っていないのなら私が遊んじゃうかも」
と、冗談とも本気とも取れる表情で涼子が囁いた。
裕美は部屋に戻るとシャワーを浴びてベッドに入った。夕食後、涼子に誘われて鈴と三人でスカイラウンジでお酒を飲んだ。学生アルバイト君たちと飲んだ時とは違ってVIP席に通された。VIP席は他の席と隔離されているために話が漏れにくい。三人は際どい話で盛り上がった。
和真社長が浮気しているのは間違いない。和真が買い与えているマンションの場所まで涼子が知っていたからだ。それでも許せるものなのか、平然としている涼子が裕美には不思議で仕方ない。その代り、涼子も若い男と遊んでいる。VIPルームでの会話はアルコールの力も手伝って露骨で赤裸々なものに発展した。
涼子が若い男との激しい営みの話などを交えた時、鈴が興味津々の表情で聞き入っていた。体力の余りある若い男との交わりは裕美も多く体験しているが、それでも思わず全身が疼いてしまうような体験談を、涼子はいくつも持っていた。
裕美はそんな数々の官能話を思い出していると自然に身体が火照ってきたが、同時にアルコールによる眠気も襲ってきて、眠りに落ちる意識の中で純樹の姿を思い浮かべながら深い眠りに沈んでいった。
その夜、彼女は怖い夢を見た。何者かにしつこく追い回され、逃げても逃げても得体の知れない恐怖が追ってくる。その得体の知れない者は目に見えない。とうとう崖に追い詰められて暗闇に突き落とされる。その瞬間、ベッドから落ち掛けて目が覚めた。
少し飲み過ぎたのか、喉の渇きを覚えて冷蔵庫のペットボトルを取り出す。冷房の停止タイマーが働いて部屋に熱気が充満したために怖い夢を見たのだろう。
裕美は窓を少し開けてみる。心地よい海風が舞い込んで遠くに船の灯りを見つけた。海岸で波打つ音が届いて来るほど周囲は静かだ。自分の咳払いが夜空に木霊するのではないかと錯覚してしまう。
少し涼んだ裕美がベッドに戻った時、隣のドアが閉まる音が微かに届いた。時計を確認すると午前2時を少し過ぎている。(今まで飲んでいたの?明日も試合なのに大丈夫かしら)
裕美は急に現実に戻ったが、暗闇の中ですぐにまた夢想の世界に入ってゆく。室温は高めだがわずかに開けた窓から入る海風が心地よい。裕美は眠る時には部屋を真暗にする。レースのカーテン越しに庭の街灯の明かりが微かに入いって丁度良い照度だ。
裕美は涼子の言葉を思い出した。セクシーな服を着て彼の部屋に押し入れと言うアドバイスだ。裕美はいつもTシャツとパンティだけの姿で眠る。このままの姿で純樹の部屋に入ったら彼はどんな反応を示すだろう。昨日純樹の部屋に入った記憶の中に、本能に目覚めた純樹の行動を想像してみる。涼子から聞いた刺激的な話までが自然と蘇ってきて、官能的な欲望が熱くうごめき始めている。
裕美の想像力が益々冴えてゆくと神経が昂って眠れなくなってしまった。眠れないままに何度も寝返りを打ち、眠ろうと努めるが鼓動が大きくなるばかりで一向に眠くならない。そうして、いつの間にか純樹に抱かれている場面を想像していた。無意識のうちに薄手の羽毛布団を太腿で挟んでいる。自分勝手な想像を続けながら布団の柔らかな感触に控えめな呻き声が漏れる。そして次第にその柔らかな刺激だけでは物足りなくなり、いつもの自慰行為に移っていった。
中学時代から、月に何度となく行なっている行為だ。自分を快感に導く手順や刺激するポイントは良くわかっている。彼女はいつもの手順で自らを昂らせてゆく。
だが、今夜の裕美はいつもと違う。酒に酔っているだけでなく、今、純樹が隣の部屋で息をしていると言う実感、そして長年心密かに思い描いてきた王子様が純樹であったことが欲情を異様に高めている。ベッドの上の裕美は欲情の高揚と共に振舞いが大胆になってゆく。男に抱かれて激しく乱れたことは何度もあるが、自慰行為で乱れたことは稀にしかない。
しかし、今夜は男に抱かれているような錯覚に陥っている。涼子から聞いた、二人の男と同時に交わる場面を想像してみる。達彦との交わりで、ベッドに四つん這いにされた記憶は山ほどある。その記憶の体感を手繰り寄せ、達彦が後ろで激しく動く度に身体を貫く快感の中に純樹の姿を思い描きながらベッドの上で静かに悶えた。
周囲に声が響かないよう枕に顔を埋めているが、思いがけず大きな声が出てしまうことがある。少し開いた窓から外に声が流れて、それが純樹にまで届いていることを想像すると益々昂ってしまう。純樹と達彦に前後から同時に愛される行為を想像しながら全身を愛撫し、何度達しても欲望が尽きない今夜の自分を異様に感じる。
『自分をどんなに慰めても物足りないでしょう?』涼子の言葉が聞こえてきて、欲しいままに性欲をかき乱す今夜の自分を正当化してくれる。いつのまにか全身の動きが激しくなり、ベッドのきしむ音がリズミカルに響いている。裕美は夢の中で崖から落ちたように、雲の上から地の果てまで急降下するような官能を得るまで悶え続けた。
大会最終日の朝、裕美たちがエントランスホールに集まった。最終日と言うことで、試合に出る準備をしているのは8チームしかない。初日に比べるとエントランスホールは閑散としている。社会人たちは試合に負けると早々に帰って行くが、学生選手たちは残って試合の観戦をしている。
「強いですねえ、まだ残っている」
裕美たちに声を掛けてきたのは熊野刑事だ。
「あら、おはようございます。どうしてここへ?」
鈴が愛想よく笑う。
「監視ですか?僕は、逃げも隠れもしませんよ」
純樹が皮肉っぽく言った。前回の取り調べが不愉快だったのだろう。彼には珍しい物言いだ。
「司法解剖の結果が出ましてね。一応お伝えしておこうと思いまして。何せ星里課長のお嬢様もいらっしゃるので」
熊野が言うと、あまり嫌味を感じない。
「それは、わざわざありがとうございます」
鈴の笑顔を見た後、熊野が話し始める。
「瀬戸内正勝さんはあまり昼食を食べられなかったようで、胃の内容物からは死亡推定時刻はわかり難いのですが、8月5日金曜日の午後、それも割に早い時間だと思われます。まさに純樹さんが呼び出されたすぐ後くらいです」
「だから何度も言ったように」
と純樹が言うのを熊野は手で制して、
「致命傷は、頭部を棒状の物で殴打されたため。それも角度的に見てかなり高い位置から殴打されたようです」
と言って、熊野は純樹を見上げた。
「そんなの相手が座っていたのかも知れないじゃない」
裕美がさらりと言った。
「確かに、その蓋然性も高いと思います」
「いずれにしろ、自殺ではなく殺人事件として調査される訳ですね?」
鈴がまた警察モードに入っている。
「はい。捜査本部も立上がりました。ですから、今後も何かと御協力頂くと思いますのでよろしくお願いします」
「まだ、純樹さんを疑っているの?」
「あくまでも容疑者のひとりです。正勝さんは女性にもだらしなかったみたいで、たくさんの女性に恨みを買っていそうです。仕事面でも仕入先業者には厳しい条件を押し付けて強引な姿勢だったようですね」
熊野はそこまで話すと、自分を制するようにして口を閉ざした。
「身内にも容疑者はいるのでは?私も色々情報を集めています」
鈴が意味ありげな視線で熊野を見上げる。
「どんな情報ですか?」
熊野が瞳を輝かせる。
「あっ、先輩たちは先に行ってください。試合が始まってしまいますから」
鈴は純樹と達彦を去らせてから話を続ける。
「容疑者の前では話さない方が良いでしょ?」
鈴は愛らしく熊野にウインクを送ってから、
「例えば、正勝さんの提案している新規投資案件に和真社長は反対しているとか……」
と、端緒を見せてみた。
「詳しく教えてください」
「なーんだ、やっぱり知らなかったのね。じゃあ、教えて上げます。でも、これからも時々遊びに来て捜査状況を教えてくださいますか?勿論、話せる範囲で結構ですよ」
「話せる範囲でなら」
「約束ですよ」
鈴は裕美の方を見つめて、保証人になれとばかりに目配せをした。裕美は熊野の困惑気味の表情に視線を射てから大きく頷く。
「正勝さんが長野のペンションに温泉を引くと言う投資計画を提案しましたが、投資額が多過ぎるみたいで和真社長は反対しています。でも涼子夫人は賛成。実は、榊原観光は創業者家系である涼子夫人が一番の大株主で、決定権を持っています。普段は経営のことには口を出さないようですが、彼女が本気になったらどんな案件でも決定します。きっと正勝さんに乗せられたのでしょう」
熊野は必死でメモを取っている。
「ここからは私の想像ですけど、正勝さんは和真さんの浮気情報を調査して、涼子さんにリークしていたと思います。例えば愛人のマンションの住所とか。あのお嬢様気性の涼子さんが自分で調べる訳はないですし、外部業者に委託すると漏洩の不安もありますから」
裕美は鈴の話を聞きながら、スカイラウンジでバイト君たちと飲みながら、確かにそんな話を聞いた覚えがあるなと思い出した。裕美は彼女の情報活用力に感服しながら、
「投資の件は私も聞きました。涼子さんが浮気相手の情報を細かく知っているのも確かです」
と、鈴を援護した。熊野から情報を得られる状況を作っておくのは、純樹の嫌疑を晴らす上でも必要だと考えたからだ。
「なるほど。ご協力ありがとうございました」
「約束忘れないでくださいよ」
裕美が釘を刺す。
「勿論。でも佐久間刑事には内緒ですよ、お願いします」
裕美と鈴はニコリと笑って熊野刑事を見送った。
佐久間と熊野は正勝の足取りを追って聞き込み調査を続けている。8月5日の13時過ぎに展望レストランを出たところまでは目撃者がいる。だが、そこから先の目撃者はいない。
二人はタクシー会社を当たってみた。展望台レストランの前で客待ちをしているタクシーは無かった。客待ちをするのはJRの駅でしかない。タクシーの調査に関しては地方の方が楽だ。タクシーの絶対数が少ないので情報収集に手間は掛からない。調査の結果、該当時間に正勝らしき人を乗せたタクシーはなかった。
市外のタクシーがたまたまこの辺りまで送迎し、帰りに正勝を乗せたことも可能性としてはゼロではないが蓋然性はかなり低い。
「バスはどうでしょう?」
熊野が提案する。
「展望台停留所に午後周回してくるバスは、15時と19時の2本だけだ。展望台レストランの目前にある停留所に15時までいたら誰かの目に留まるだろう」
そう言いながらも、念のためにその2本のバスの運転手に確認したが答えは明確だった。何せ乗ってくる人数が知れている。19時にはレストラン従業員も乗ってくるが15時はほとんど無人だった。
「と言うことは、やはり自家用車ですね。展望台付近にレンタカーはありませんし」
二人とも最終結論として想定していることだ。それ以外の可能性を消してゆくために、タクシーやバスの運転手に聞き込み調査を行ったのだ。
「誰かが、おそらくは犯人が車で拾ったと言うことは、顔見知りと言うことですかね」
熊野が佐久間に言った。調査から戻った二人は展望台レストランの駐車場脇にある喫煙エリアのベンチに座っている。
「そう考えるのが普通だろう。正勝は、13時55分に本宮純樹の携帯に連絡を入れて彼を呼び出している。電話を入れた時に車を降りていたかどうかはわからないが、すぐに会う約束をしたのだから展望台近くにいたことは間違いない」
佐久間がそう言って煙草に火をつける。正勝の携帯の発信履歴は残らない設定になっていたため、通信会社から履歴を取り寄せて確認している。また、着信履歴はまだ削除されずに残っていた。純樹が番号を教えた時の履歴もあった。
「もし、車に乗っていたとしたら、正勝の電話が終わってから犯人が犯行を始めたことになりますね。犯人は複数でしょうか?単独犯の場合、もし正勝が暴れ出したら、運転しながら制するのはリスクが高すぎます」
「別にひとりでも可能だ。正勝を脅かすに十分なネタを持っていれば、正勝にしたって、ガキとの約束なんてどうでも良くなる。黙って言うとおりにするさ」
「正勝が車を降りて電話していたとしたら?」
「犯人は正勝を操作出来るほどのネタを持っていなかったと言うことになる。何も持っていなかったか、持っていたネタでも正勝が動じなかった。正勝を後ろから付けて襲ったか、人目のない所で降ろした直後に襲って、しばらく車で保管しておくことも考えられる。何せ、人気のない所だからな」
佐久間はそう言って大きく煙草の煙を飲み込んだ。そして今度は美味そうに煙を吐き出しながら、
「もしも、食事後13時過ぎに、正勝が車にも乗らず徒歩で夫婦松の崖に移動していたとしたら?」
と、佐久間が熊野の意見を聞いた。
「私は、正勝が純樹君を殺そうとしていた可能性もあると思います。動機は不明ですが、彼を呼び出す前に夫婦松の崖で何らかの準備をしていた。そこへ第三者の犯人が現れて正勝を殺害したか、純樹君が反撃した末に殺してしまったのかも知れません」
「しかし、純樹君が襲われて反撃したなら、そう話すだろう。正当防衛だからな。嘘を吐いて自分が疑われるような真似をする必要は無い」
「そうですね。特殊な事情が無ければ、純樹も嘘をつく必要はないでしょうね」
佐久間の表情がピクリと反応する。
「何か知っているのか?」
「いえ、何も。ただ、正勝と純樹との接点は4年前の事故だけではなく、その後も接点があったのではないかと疑っています。そうでなければ、4年ぶりに会って、いきなり人気のない所で二人きりで会うでしょうか?これは全くの勘ですけど、4年前の長野での事故の背景にはまだ何かがあるような気がします」
「事故じゃなかったとでも言うのか?」
佐久間が煙そうに眼を細める。
「いえ、私もまだ4年前の事故報告書を読んだだけなので何とも言えませんが、何やら違和感を覚えます」
「わかった。刑事の勘は大事にしろ。だが、まずは正勝の通話記録の調査と、自宅を捜索して、手紙やメールで純樹君と連絡を取っていなかったか、二人の関係を洗ってからだな」
佐久間の言葉に熊野も頷いたが、
「本当に4年ぶりの再会だったのかなあ」
と、再度呟いた。
「今はっきりしていることは、正勝はレストランを出た時点で、純樹がすぐ近くの小里浜で待っていることを知りながらも連絡しなかった。そしてバスやタクシーを利用せずに、誰かの車か、徒歩でどこかへ出掛けていたと言うことだ。勿論、お前が言うように夫婦松の崖へ向かったのかも知れない。そのことを明らかにするために、片道30分程度で歩ける範囲を調べてみよう。ここを中心とした半径2キロの範囲に何があるのか全て調べてみるか」
「そうですね。ご覧のとおりの風景ですから、左程時間は掛からないと思いますよ」
熊野はそう言って、煙草の香りから逃げるように席を立った。彼は喫煙をしない。
大会最終日の試合も全て終わり純樹たちが優勝した。決勝戦はなかなかの好ゲームで、観客たちも一球一球に注目し歓声を挙げて盛り上がった。
今大会は比較的余裕を持って勝ち進んできたので、決勝では裕美も鈴もハラハラしながらベンチワークと応援をこなしていた。勝利が決まった瞬間には、純樹や達彦と四人で抱き合って歓喜した。
夕食時には表彰式と打上げパーティが行われ、今夜に限っては飲物もホテルのサービスだ。大会終了の挨拶と表彰式が終わると、和真は太一に諸事の指示をしてから、涼子に耳元で軽く囁いて会場を後にした。裕美は和真が出てゆく雰囲気を悟ったので、鈴を連れてさりげなく和真に近づいてみた。
「もう、お帰りですか?」
「ええ。どうしても今夜中に大阪に戻らないとならなくて。最後まで君たちと楽しみたいのだけど、とても残念です」
和真は本当に残念そうな表情を浮かべる。
「そうですか、寂しいですね。でも良い大会でしたね、とても楽しかったです。これも社長さんのお陰です。ありがとうございました」
裕美がお世辞を含めてお礼を言うと、
「ぜひ来年も開催してくださいね」
鈴も負けずに愛嬌を送った。
「いや、こちらこそありがとう。そして優勝おめでとう。ぜひ来年も続けられるように関係者と調整しますよ」
和真は笑顔を残して出て行く。裕美は何となく時計を確認した。19時を少し過ぎている。
裕美と鈴の二人は純樹たちのテーブルに戻ろうとしたが、優勝者と話をしたい選手や女子たちが集まって裕美たちの席を占拠している。
「どうします?」
「今夜くらいヒーロー気分を味合わせてあげましょうよ」
裕美はそう言って空いているテーブルに移った。
「何か飲物をもらってきますね」
鈴が飲物カウンターの方へ向かおうとした時、バイトの北沼君がワインボトルと小皿料理をシルバートレーに乗せて、裕美たちのテーブルに運んできた。
「あら、こんばんは。どうしたの?」
「仕事ですよ。涼子夫人がお二人とご一緒したいそうです。夫人の飲物を運んできました」
北沼君は同情の視線を裕美に送りながら小皿料理をテーブルに並べる。
「あら、みんなお友達なの?若い人は良いわね、すぐに仲良くなれて」
涼子が近づいてきて、裕美たちのテーブル席に腰を下ろす。
「お二人は何をお飲みになりますか?取ってきますよ」
北沼が愛想よく言う。
「じゃあ、生ビールをお願いします」
鈴の声に裕美も頷く。北沼君が軽く会釈をして飲み物を取りに行く。
「優勝おめでとう」
いきなり祝いの言葉を投げると、涼子はひとりでワインを口に運ぶ。
「ありがとうございます。まあ、頑張ったのは彼らですけどね」
裕美の言葉に涼子は薄く笑って、
「疲れることは男に任せておけば良いのよ。女は果実だけを頂くのが正解」
と、裕美には自虐的に見える溜息を吐いた。
「それにしても、社長はお忙しいですね?」
鈴が不気味な会話の進行を防ぐ。
「ええ。激務の間のわずかな時間を惜しんで女の所へ行くのよ、忙しくて当然よ」
裕美は、涼子は和真の愛人が来ていることを知らないのだと思った。もしかしたら、和真と愛人は、今大阪に向かっているのかも知れない。そんな考えが裕美に浮かんできた。
「お待たせしました」
北沼が生ビールと料理を運んできてくれた。
「ありがとう」
裕美の愛らしい笑顔に癒された北沼は満足気に仕事へ戻ってゆく。そんな単純な男の背中を憐れむことすら馬鹿らしいと言った女たちの空気が空調の風に流される。
「あっそうだ。これを先にお渡ししておきます」
鈴が小さな紙袋を涼子に手渡した。
「昨晩お話しした音楽CDです」
「ああ、お覚えていてくれたのね、ありがとう。今夜使い道ができたからちょうど良いわ」
涼子が意味深な瞳で鈴を見つめる。昨夜スカイラウンジで飲んでいた時に音楽の話題になり、涼子がムードジャズを好きだと言うので、鈴が持ってきているJPOPをジャズアレンジしている曲のCDを涼子に貸す約束をしていた。
「使い道って?」
鈴が瞳を輝かせている。
「主人が帰ったしね、スウィートルームはひとりには広過ぎるわ」
涼子はクスッと笑って若い選手たちの方に目を走らせると急に、
「そう言えば、昨夜部屋に戻ったら純樹君がソファで眠っていたの。酔い潰れていたみたい」
と、さり気なく裕美の動揺を窺った。
「純樹さんは余りお酒に強くないですからね。すぐに眠くなるタイプです」
「それがね、主人はもうベッドルームに移って眠っていたんだけど、テレビ画面は点いてままブルー画面になっていたの」
涼子は勿体ぶった笑顔を浮かべているが、何を言おうとしているのかわからない。
「DVDデッキが再生の終わった状態で放置されていたの。きっと純樹君がDVD見ながら眠ってしまったのね。主人が強引に見せて自分は眠くなるとすぐにベッドルームに戻ったのよ。主人がやりそうなことだわ」
裕美は嫌な予感がした。
「もしかしてエッチな動画ですか?」
鈴が楽しそうに身を乗り出す。
「隠し撮りってやつかな」
「へえ」
裕美はネットでそんな言葉を聞いたことがあるし見たこともあるが、あまり良い趣味だとは思えない。純樹もああ言うのを見て興奮するのかと思った時、
「私がひとりでしているところを主人が隠し撮りした動画よ」
と、何のためらいもなく言った涼子を二人とも固まったままポカンと見つめている。
「え?」
ようやく声を絞り出すことができた。
「まだ新婚の頃にね、私がこっそりしているところを主人が仕掛けていたカメラで……」
「ご主人はともかく、そんな物を純樹さんに見られて恥ずかしくないですか?」
裕美は涼子の神経を疑うような瞳で見つめる。
「大丈夫よ。部屋が暗くて顔は映っていないの。身体も若い頃だからピチピチしているし、声もねえ、普通の声じゃないし……。私とはわからないと思うわ」
涼子は軽く笑う。
「でも、ご主人が純樹さんに見せる前に奥さんのだって……」
裕美はそこまで言って言葉を止めた。もしかしたら、涼子もそんなことは百も承知なのかも知れない。
「それを純樹さんが見ていたんですか?」
鈴も心配そうだ。
「さあ、わからない。でもくずかごにはティッシュがたくさん捨ててあったわ」
涼子はクスリと笑う。いくら顔が映っていないとは言え、裕美は昨夜の自分のあの痴態を誰かに見られたりしたら……。その誰かが例え恋人だったとしても、恥ずかしくて二度と顔を合わせられないと思った。
だが涼子は平然として、むしろ見られたかも知れないことに喜びさえ感じているようにも見える。歳を取るとこうなるのか、それとも単に性癖の違いなのか。裕美は不可思議な生き物を見るような目で涼子を眺めていた。
「純樹さんはそのまま泊まったのですか?」
鈴が更に不安を抱く。もしかしたら、そのまま涼子に食べられてしまったのではないかと疑っているようだ。
「大丈夫よ、私は主人と寝たから……。彼、朝にはいなかったわよ」
涼子は鈴を優しく見つめる。
「2時くらいに戻ったみたいよ。ドアの閉まる音がしたから」
裕美が昨夜の記憶を思い起こす。
「あら、そんな時間まで何をしてたの?」
裕美は涼子の自然な質問にやや顔を赤らめて、
「喉が渇いて起きた時にちょうど……」
と弁解気味に言った。それは嘘ではない。
「私もワインを頂いて良いですか?」
裕美は不自然な自分の表情を誤魔化すように涼子のワインをねだる。
「勿論」
「じゃあ、私も」
三人はワインを口に運びながら、若い男たちがアルコールのためにどんどん陽気になってゆく姿を遠目に眺めてみる。純樹も達彦も、仲良くなった他チームの選手たちといつものようにバカ騒ぎを始めていた。
佐久間と熊野は居酒屋で遅めの食事を取りながら報告書に目を通している。今日は他の事件に時間を取られ、正勝の事件に割く時間が無かったからだ。
正勝の自宅でもある長野のペンションの捜索を地元警察に依頼していた。長野に足を運ぶ必要もあるが今はこの地を離れられない。とりあえず、手紙や通信記録の類の物を捜索して送ってもらうよう依頼した。正勝と純樹の接点を探るためだ。
その結果、二人の接点はやはり4年前の事故だけで、それ以降の接触は全くないようだ。通信事業者から取り寄せた通話記録についての報告もあった。ペンションの固定電話との通話記録には純樹の携帯番号、金沢にある彼の自宅番号との通信記録はなかった。勿論、公衆電話や他の拠点から電話していることは考えられる。正勝の携帯電話の通話記録にも、過去において純樹との記録は残っていなかった。事件当日、正勝が純樹に電話する直前に和歌山県白浜町の男性に電話を掛けていることが発覚した。通話時間は30秒足らずだ。
さっき熊野がその番号に電話して身元を確かめてみた。名前は大月竜太、25歳。地元食品関係の会社員だ。だが、着信時に大月は仕事中で着信には気づかず留守電が残っていた。留守電には伝言はなくノイズしか残っていなかったそうだ。まだ留守電はおいてあるということだったので、保存をお願いした。念のため瀬戸内正勝の名前をだしてみたが全く知らなかった。着信履歴の時間も発信番号も間違いなく正勝のものであることは確認できている。
「正勝さんが純樹君に電話しようとして、大月さんに間違い電話を掛けたのでしょうか?」
熊野が書類を置いて訝し気に言った。
「考えにくいな。番号登録はしていなくても純樹からの着信履歴がある。それを使って発信すればいいだけだ。前日に教えてもらったばかりの番号を記憶していたとしても着信履歴に折り返すのが普通じゃないか?」
「そうですよね、普通、着信履歴を使いますよね。では、記憶している誰かの番号に掛けようとして大月さんに掛かけてしまったってことですか」
生ビールが二人の前に運ばれたので会話は一旦停止する。」
佐久間はビールをひと口飲んでからお通しのオクラを口に入れた。
「あのう……」
熊野が遠慮気味に何か言い掛ける。佐久間は、笑いを零して視線で促す。
「大月さんは正勝の協力者だったと考えられませんか?今から純樹を呼び出すと言う連絡をして、殺害を手伝ってもらったとか」
「大月さんが嘘を吐いていると言う訳か?25歳の和歌山の若者と長野のオジサンにどんな接点があるんだ?」
「あくまでも仮定の話です」
「君は、正勝が純樹の殺害を企てたと言う仮説を推したいようだが、純樹と正勝は事件以降連絡を取っていない。純樹に動機があるのは理解できるが、正勝にどんな動機があると言うんだ?」
佐久間は箸でオクラをつかみ損ねた。
「わかりません」
「動機と言う点では、俺は和真の方が怪しいと思っている。和真にとって正勝はお荷物だ。正勝は涼子を利用して会社をコントロールしようとしていた節がある。勿論、正勝の死亡推定時刻に和真がクルージング中だったことはわかっている。だが、金はある。必ずしも自分で手を下す必要も無い」
熊野は、正勝が涼子を味方にして、長野のペンションに温泉を引く投資案を推し進めようとしていたと言う情報を佐久間にも話している。だが、鈴から聞いたと言う事実は隠していた。
「裏社会と接点があるようには思えませんがね、下手に他人を使うと今度は脅しを掛けられる危険性もあります」
熊野は刺身を口に入れてから更に続ける。
「仮に正勝に純樹を殺す動機があるとして、協力者だった大月さんが裏切って正勝を殺害したと言う線も考えられます」
「君がそこまで言うなら、念のため大月さんの身元を洗ってみよう。どの道留守電もコピーさせてもらいに行くからな」
佐久間はビールを飲み干した。
裕美たち三人が同じテーブルで話し始めてから約1時間が経過した頃、涼子が風呂に入りたいと言い出した。この会場がだんだんと体育会系の男臭い空気に染まりつつあって、下品な会話なども大声で聞こえてくるし、上半身裸になっている者たちもいる。そんな空気を涼子は好まないようだ。
(若い男の身体は好きなくせに)裕美は心密かに呟いてみる。
今夜、22時から1時間の二次会が企画されている。それはスタッフたちの慰労会なのだが、自分たち優勝組の他、スタッフ以外の若い女性たちも大勢呼ばれているようだ。二次会までに入浴して気分を変えるのも悪くないと思って裕美も鈴も涼子に同行した。裕美はのんびりと湯に浸かっていたが涼子は意外に早風呂で、30分ほどで浴室を出て行った。少し遅れて裕美と鈴も脱衣場に出ると、涼子は下着姿で鏡に向かって髪を乾かせていた。
「涼子さん、過激な下着ですね」
涼子が身に着けているレース生地の黒い下着を見て鈴が冷やかす。Tバックに裕美は少し驚いている。
「若い男の子と遊ぶんだから、これくらいの仕込みはしておかないとね」
食事中の話は冗談だと思っていたが本当に男を連れ込む気だと悟り、裕美の不安な感情が背中を流れた。まさか純樹を誘っているのでは。だが、鏡の中の涼子と視線が合った瞬間に考え過ぎだと感じた。いくら何でもそんな露骨なことはしないだろう。本当に純樹を誘っているのなら、わざわざ自分たちに近づいてくるはずがない。
だが、涼子なら4年前の事故での接点もあるし、地位もある。何とでも純樹を呼び出すことは可能だろう。再びそんな不安に襲われたが、突然純樹のクールな表情を思い起こし、静江と言う事故で重傷を負った彼女以外に男としての興味を示さない彼が、三十路の女性に取り込まれることはないと妙な自信が湧いてきた。
「じゃあ、お先に」
涼子は先に脱衣場を出た。
「本当に若い男を呼んでいるみたいですね」
鈴がタオルで髪を拭きながら囁く。
「オジサンかも知れないわよ。大会関係者には大人の男もたくさんいるしね」
裕美はもうその話題には触れたくない。それよりも、何かと刺激的だったこの大会が終わったことを寂しく感じ始めている。京都に帰るとまた普段の生活に戻ってしまうのだ。
結局、純樹との距離を思いどおりに縮めることはできなかった。彼が長年心に秘めて来た王子様であったことは、神様に感謝してもしきれないほど幸福を感じているが距離感は変わっていない。その代り、彼の悲惨な過去を知り、不可解だった彼の人格に潜む闇の部分を分析する材料を得ることができた。裕美はそんな思いを馳せながら髪をドライヤーで乾かしていた。
スカイラウンジで行われた二次会に出席すべき涼子は最後まで現れなかった。純樹は時間どおりに現れたので、裕美は密かに安堵した。今頃、彼女は快楽のひと時を過ごしているのだろう。
だが、そんなことを想像したのも束の間、すぐに現実に戻って、スタッフのオジサンたちや太一をはじめとしたホテル従業員の大会運営者たちと、愛想良く社交をしなければならない。
「失礼ですけど、本当のところ、裕美さんは純樹さんと付き合われているのですか?」
太一の横に並んだ時に、突然彼が率直な質問をしてきた。二次会は立食形式で少しは椅子があるもののオジサンたちが占拠している。
窓際には椅子を取払ったバーカウンターが伸びており、裕美はそのカウンターに肘を着いたまま、
「いいえ、彼のことは今ひとつわかりません。興味はありますけど」
と正直に答えた。涼子の前でこんなことを言っても言葉通りには受け取ってくれないだろうが、太一は素直に頷いた。
「そうですか。カフェでみなさんとお話しした時に、正勝さんから純樹君への伝言をお知らせしました。でも、他にも私から純樹君へ話したことがあるんです」
なぜ太一がそんな話をしようとしているのか不思議だが、裕美は彼の横顔を見つめたまま話を待った。
「正勝さんからの伝言以外に私が純樹君に話したのは、この地方のパワースポット的な情報です」
「パワースポット?」
そんな場所がこの近くにあるとは知らなかった。
「純樹君が小里浜で待つことになると思ったので、あの砂浜にあると言われている星型の砂粒を見つけたら願いが叶うと言う話を教えました」
事件の根幹に関わるような情報かと思って身構えた自分が可笑しくて、乙女チックな情報を純樹に与えた太一が可愛く思えたりした。
「それで、純樹さんは待っている間に星の砂粒を探していた訳ですか?」
「5粒ほど見つけたと言って喜んでいました」
太一の笑顔につられて、裕美も純樹の無邪気さに笑いを零したが、次の瞬間、冷水を浴びせられるような戦慄を覚えた。太一の表情からも笑顔が消えて、
「彼は必死でしたよ」
と言った。
「もしかして、静江さんの身体が元どおりに戻って欲しいと言う願いを叶えるため?」
自分の考えに確信を持ちながらも太一に否定して欲しい気持ちもある。だが、太一ははっきりとは答えずに、
「純樹君に何の罪も落ち度も無いことはわかっています。しかし静江さんの親御さんには、正勝さんや純樹さんを心から許せる日は来ないと思います」
と、意外な視点からの考えを伝えた。事故の後、静江の両親と関わっていた太一ならではの視点だ。純樹に罪は無いと言いながら、両親の気持ちを汲むと純樹の悲痛なまでの贖罪意識も当然だと、太一は思っているのだろうか。
「誤解しないでくださいね。私は誰かを非難する積りも、あなたの恋に水を差す積りもありません。第一、純樹君や静江さんと深い付き合いがある訳でもありませんから。ただ……」
太一はそこまで言って水割りを口に運ぶ。言葉を選んでいるようだ。
「ただ?」
「四年前の純樹君と今の純樹君とは全く別人格のように感じるんです。今の純樹君の笑顔にはどこか無理があるように感じます。私の偏見かも知れませんけど」
「少しわかるような気がします」
裕美は静かに同意する。
「純樹君に、静江さんに対する恋心があるかどうかはわかりませんが、贖罪意識があるのはわかります。それも仕方ないことだと思います……残酷な言い方かも知れませんが。私があなたに伝えたかったのは、彼の心境がそう言う複雑な状況にあると言うことです」
裕美は自分が感じていたことを改めて第三者から言われて確信を持った。だが、自分と純樹との出会いは運命に導かれたものだと言う、もうひとつの確信めいた感情も残っている。純樹を贖罪地獄から救い出すのが、自分が神様に課せられた使命かも知れない。幼女の頃の恩人にこうして出会った偶然を、裕美はそんな風に解釈していた。
「ご助言、ありがとうございます」
裕美は軽く頭を下げて明るい笑顔を送る。これでこの話は終わりにしましょう、と言う合図でもあった。
「出過ぎたことを言ってしまいました。今夜が最後ですので十分に楽しんでくださいね」
彼も大人びた笑顔を残して、他のグループへ移動していった。
鈴は、大会役員の初老の男たちに囲まれて愛敬を振りまいている。小遣い稼ぎでもする積りなのかと、鈴の小悪魔的な笑顔を頼もしく感じた。
榊原観光創業者 元長野ペンションオーナー 学生時代長野ペンションでバイト
榊原高雄 瀬戸内正勝(45歳)取締役 角川太一 主任
| |兄弟 金沢出身 静江と同郷で知合い
榊原涼子(30歳)―榊原和真(40歳)専務取締役 純樹 静江 達彦は同高校
夫婦(婿入)
女の本音。すべて想像の産物です。