切立つ崖の
大会初日、殺人事件発生!そして純樹が容疑者の立場に陥り、純樹の過去が少しずつ明かされてゆく。
ついでに、刑事たちを顎で使う星里鈴の身元も明らかに。
大会初日の朝、一旦ロビーに集合した選手たちがぞろぞろとエントランスホールを出てゆく。大会関係者なのか応援に来た人たちなのか、昨日よりも人の数が多くなっていてオープンカフェも席が埋まっている。
裕美たち四人も一団に交じってホールを出た。今朝も真青に晴れた青空から容赦なく陽射しが照り付けている。そう言えば日焼け止めは塗ったのかしらと、純樹の肌を見上げてみたが良くわからない。エントランスを出た所で数人の従業員が並んで見送ってくれる。
「頑張ってください」
太田と北沼が裕美と鈴に笑顔を送っている。
「はい。ありがとう。頑張りま~す」
鈴が愛想を返す。
「頑張るのは俺たちだろう」
達彦が零して苦笑いを浮かべた。
「私たちはチームですよね?」
鈴が達彦に言い返したところへ、ゴルフ場を走るようなカートが滑り込んで来て、一団の手前で停車した。カートの運転席から太一が素早く降りた。
「おはようございます」
純樹が挨拶をすると、太一は他のことに意識を取られていたのか驚いた様子で、
「あ、おはようございます」
と慌てて挨拶を返した。だが、流石は接客のプロ。すぐに平静に戻って、
「試合頑張ってくださいね。今日はサングラス掛けないんですか?」
細かな所にまで気が付く余裕を見せた。
「サングラス?」
逆に純樹が少し怪訝そうな表情になって、
「ああ、ゴーグルですね。持ってますよ。試合の時に掛けます」
と、他愛もない挨拶の会話に笑顔を浮かべた。陽射しの強い日は、裸眼では眩しくてゲームに集中できない。多くの選手たちが既にゴーグルを掛けたり、額に乗せたり、或いは試合用とは別のサングラスを掛けたりしてる。
「おはようございます!」
突然、元気の良い挨拶があちらこちらで沸いたかと思うと、太一も一礼して社長夫妻をカートに迎え入れた。
「なるほど」
裕美がひとりごちる。太一が何に意識を取られていたのか分かった。
「ビーチまでゆくのにわざわざカート?歩いても5分ほどよ」
鈴が驚いている。
「お前もあの立場になったら同じことをするよ」
達彦が鈴に笑い掛ける。すると裕美が、
「私なら白馬で迎えに来てもらうわ」
と笑った。
「白馬?」
少女趣味な言葉が裕美から出てきたことにみんな驚いて、誰も笑えず、何も言えずに中途半端な空気が漂った。
大会の開会式で和真社長が挨拶をした後、八つあるコートでそれぞれ試合が始まった。二日間は八つのコートで予選リーグが行われ、その後、観客席まで整った二つのメインコートに順次集約されていく予定だ。
大会本部席のテントの下で試合を観戦していた社長夫妻は、1セットが終わると立上がった。暑さのために涼子が帰ると言い出したのだ。せめて1試合くらいは見ようと言う和真の言葉など聞く耳を持たず、側にいた太一はカートの準備に走った。
太一は夫妻をエントランスホールで降ろしてから、カートを車庫に収納してエントランスロビーに戻ると、社長夫妻がソファに座って見知らぬ男性二名と話し込んでいた。太一は宿泊客には見えない男性をやや警戒しながら社長夫妻へ近づいてみる。
「太一君。こちら刑事さんだ。正勝専務が今朝遺体で発見されたそうだ。夫婦松の崖から落ちたらしい」
和真の言葉に太一は呆然として立ち尽くす。その間に、涼子が太一と正勝の関係を簡単に説明し、昨日彼が正勝から伝言を頼まれたことを話した。
太一は大きく深呼吸をしてから涼子の横に腰を下ろし、刑事の二三の質問に答えた。
「できましたら、どこか部屋をお借り出来ませんか?色々プライベートなこともお聞きしなければならないので、ここではお話もし辛いと思います」
年長の刑事が和真に向かって依頼する。
「それでは事務所横にある応接室でお話ししましょう」
「まずはご夫妻からお話を伺います。その後あなたからも情報を頂きたいので、できるだけホテル内にいてください」
「わかりました」
社長たち四人は四階にある事務所へ向かった。その後ろ姿を見送った太一は大きく溜息を吐いた。
午後3時頃に2試合目を終えた純樹たちはホテルに戻った。2試合とも楽勝だった。相手チームも長身の選手だったが動きの俊敏さでは純樹たちの方が格段に上だった。
裕美は我がことのように嬉しくて、鼻高々な気持ちでホテルに戻った。試合に勝ったことだけでなく、もうひとつの発見が、宝くじを買った程度の期待感ではあるがささやかな夢のような希望を彼女の心に与えていた。
裕美たちがエントランスホールに入ると、ロビーのソファーに座った二人の男が立上がってこちらに近づいて来る。暑いのにネクタイをしている。ジャケットは手に持っていた。
「本宮純樹さんですね。和歌山県警の佐久間です」
「熊野です」
二人は身分証を見せながらじっと純樹の目を見上げた。
「今朝ほど瀬戸内正勝さんが遺体で発見されました。夫婦松の崖から落ちたようです。昨日あなたは正勝さんとあそこで会う約束をしていたそうですね。詳しくお話を聞かせて頂きたいのですが」
純樹は勿論のこと、裕美たちも同時に強い衝撃を覚えて言葉が出て来ない。正勝が行方不明であることを聞いた時には少し心配したが、大人の男性のことなので左程気に留めることも無く忘れていたのが事実だ。
「はい。構いませんが、先に着替えてきても良いですか?」
感情の抜けた事務的な口調の純樹も達彦も汗まみれで、頭や顔に埃が付いている。若い方の熊野が一瞬迷ったように佐久間の顔を窺う。
「良いでしょう。四階にある事務所に来てください」
純樹は少し俯いたまま一歩進んで、
「あのう……本当に正勝さんですか?」
と、ようやく感情を取り戻したような語気で確認した。
「残念ですか……」
佐久間が純樹の表情を食い入るように見つめて答える。
「そうですか」
うな垂れた純樹と一緒に裕美たちも移動しようとしたが、
「あなた方はここでお話を聞かせてください。すぐに済みます」
佐久間が両手を軽く上げて制した。純樹の背中を見送った裕美たちは、佐久間に促されて近くのソファに腰を下ろす。
「正勝さんはいつ発見されたんですか?」
座るなり裕美が尋ねる。
「今朝5時頃、沿岸で漁をしていた漁師船が発見しました。海に浮かんでいる状態で、全身に打撲痕が多数あったので、崖から落ちたか落とされたものと思われます」
熊野がそこまで説明すると、
「もう、その辺で」
佐久間が話を止めた。情報を漏らしたくないのだろう。
「自殺の疑いは?」
「それを今調べているんだ」
「遺書は無かったの?」
「これ以上は言えない」
矢継ぎ早に繰り出される裕美の言葉に、佐久間はぶっきらぼうに答えながら手帳を開いた。
「あなた方は瀬戸内正勝さんと昨夜会話をしたと聞いていますが、どんな話をされましたか?」
「何を話したかしら?携帯番号を交換して、奥さんはいないと言う話とか、正勝さんのペンションの様子を少し聞いただけです」
裕美が少し上を見上げながら答える。
「とても楽しそうで自殺しそうな雰囲気は全くなかったし、そもそも自分を追い詰めるようなキャラには見えなかった」
鈴も昨夜を思い浮かべながら感想を述べた。
「その時は、みなさんご一緒でしたか?」
「はい」
「その後に連絡を取った方はいませんか?携帯番号を交換されたんですよね?」
「オッサンには興味ありませんよ」
達彦が少し茶化す。
「私も~」
鈴が熊野に微笑み掛ける。
(あなた、自分から番号を教えていたじゃない)裕美は心の中で鈴に突っ込んだ。
「もし良ければ、携帯の履歴を見せて頂けますか?強制ではありません」
熊野が丁寧に依頼する。
「良いですよ」
裕美が電話とメール類の履歴を見せる。あまり多くはない。女友だちとのつまらないメールやラインのやりとりしかない。
「たくさんあるけどわかる?」
鈴が熊野に画面を見せながら、彼の視線を笑顔で覗き込む。
「ありがとうございました」
全員の履歴を確認した熊野が礼を言って二人は立上がろうとした。
「刑事さんたちの階級は?」
突然、鈴が興味津々の瞳で質問する。
「私は警部補で熊野は巡査部長です」
佐久間がやや不快な表情で答える。
「へえ。じゃあ、熊野さんの方がお若いのに階級は上なのね?」
少し冷たい空気が流れて、
「いや、反対だろう」
達彦が慌てて訂正する。
「何で?部長って付いてるじゃない」
「そういう問題じゃない」
「警察組織では警部補の方が上ですよ」
熊野が鈴に優しく微笑み掛ける。
「そうなんだ。じゃあ警察庁刑事部の何とか言う課の課長はどのくらいの階級なの?」
「いや、階級と言うか、そもそも役割が全く違うんですよ。あちらは全国の警察をまとめる役割です」
「うちのパパがその課長なの」
鈴があっけらかんとして言ったが、佐久間は鈴の意図を探るような視線で彼女を鋭く見つめている。
「刑事部の課長!私たちより桁外れに上の立場ですよ」
熊野が素直に驚いて見せてから、ゆっくりと二人は立上がった。
「では、また何かご協力頂くことがあるかも知れませんが、その時はよろしくお願いします」
佐久間が軽く会釈して立ち去ろうとしたその時、
「遺書はあったの?それとも無かったの?」
鈴が再度挑み掛かる。一瞬困惑した二人の刑事だが、
「それらしきものはありませんでしたよ。現場にも、ホテルの部屋にも」
佐久間がつっけんどんに言い放った。
「正勝さんの携帯電話は水没していなかったんですか?」
「幸いなことに、崖の比較的上の方に転がっていました。落ちる際にポケットから零れ落ちたのでしょう」
もう良いか、と言いたげな瞳で佐久間が鈴を睨みつける。
「じゃあ、携帯を調べることは出来るんですね?ありがとう」
鈴の愛らしい笑顔が裕美には小悪魔のように見えて、彼女は男を操ることに快感を覚えているような気がした。
「純樹さんが正勝さんと会う約束していたなんて……」
刑事たちが去った後鈴が零した。そう言えば、太一が正勝の伝言を純樹に伝えて、純樹が小里浜に行ったことについて、達彦と鈴はまだ知らなかった。裕美は、昨日ロビーで和真たちと話した内容を二人にも説明した。
「なるほど。正勝さんが純樹さんを夫婦松の崖に呼び出したけど現れなかった。そして死体で発見された。まずい展開だな」
達彦の意味深な言葉に、正勝と純樹が接するときの態度から伝わっていた違和感を確かめるように、
「純樹さんと正勝さんは普通の関係なの?」
と、達彦に尋ねてみた。
「普通って?まさか純樹さんがあんなオヤジと!」
鈴が驚いて達彦の顔を見上げる。だが達彦は答えに困っている様子だ。
「マジ!」
鈴が焦っている。
「お前が想像している関係じゃないよ」
達彦は軽く笑い飛ばすと、
「でも気になることが無い訳ではない」
少し表情を曇らせた。
「何よ、気になることって?」
裕美が急かす。
「カフェにでも入ろう」
「だめです。まずシャワーを浴びてこないとお店に迷惑ですよ。特に達彦さんは」
鈴が急にマネージャらしく振舞う。裕美は少しでも早く話を聞きたいが鈴の言うことももっともなので、20分後に集まることにした。
裕美もシャワーを浴び、日焼け止めを塗っているのに首筋がヒリヒリすることを気に病みながら、今頃純樹はどんな質問を受けているのだろうかと思いを馳せた。若い熊野はともかく、佐久間という刑事は老練で粘着質な感じだ。あんな大人にネチネチ責められたら、あることないこと認めてしまったりしないだろうか。状況的には明らかに純樹が疑われる立場にある。
三人が再度集まってオープンカフェに席を取る。裕美は出てくる時に純樹の部屋をノックしてみたがやはり返答は無かった。まだ刑事たちの調査を受けているのだろう。
「で、気になることって何?」
それぞれの飲物を運んで来た後、早速裕美が切り出す。
「純樹さんは高校三年生の夏休みに彼女と、彼女は名前を菊川静江さんと言うんだ。静江さんと二人で正勝さんのペンションへ遊びに行った」
「キャア、ひと夏の体験ってとこ?」
「そうなれば良かったけど。でも実際は、正勝さんが操縦するボートに乗って川下りをしていた時に、岩にぶつかってボートが転覆してしまった。川が増水していたために、いつもは川面に出ている岩が隠れていたらしい。正勝さんも純樹さんも無事だったけど、静江さんは流されている間に岩で身体を打ち付けたらしく、歩けない身体になってしまった」
達彦が残念そうに声をしぼめた。
「そうだったの。御気の毒に」
裕美は、純樹の瞳に潜む陰鬱な陰はその事故が原因であるような気がしてきた。そして彼なりの罪悪感のために、いつまでも手紙を書き続けているのだろうか。静江はそんな彼の心が重くて返事をしないのだろうか。それとも純樹の心を救うために別れようとしているのだろうか。
裕美は、限られた情報の中であれこれと二人の心境を推測してみるが、情報が少な過ぎてこれ以上のことは想像すらできない。
「でも、そんな過去があるのなら、あの刑事たちはますます純樹さんを疑うんじゃない?」
鈴の言葉に裕美もはっとして達彦を見つめる。
「俺もそう思う。正勝さんの操船ミスがあったのか?純樹さんは詳しいことは何も教えてくれないけど、結果的には正勝さんが操船していて事故に遭った。そして大切な静江さんが不自由な身体になってしまった。全く恨みが無いかと言えば嘘になるだろう」
裕美は、初めて正勝と会った時のことを思い浮かべた。事故の後に二人の間でどんな時間が流れたのかは知らないが、こんな事情がある中で、あの馴れ馴れしい態度で話し掛けられる純樹の気持ちを思えば、彼のあの余所余所しい態度も理解できる。
「それでも、まさか純樹さんが人殺しなんてあり得ない」
鈴が小声で囁く。
「当たり前だ。刑事が疑うだろうと言う話をしてるんだ」
達彦には珍しく声を荒げたが、
「すまん」
少し表情を和らげてアイスコーヒーのストローを強くくわえた。
と、そこへ太一が通り掛かった。彼らには気づかずカフェの前を通り過ぎようとしている。
「太一さんも何か聞かれました?刑事さんに……」
裕美が太一を呼び止める。
「ええ少しだけ。大した話じゃありませんけど」
裕美の声に少し驚いた太一が近づいて来る。
「どうぞ」
鈴が椅子を引いて勧める。
「ありがとうございます」
「純樹さんは部屋に戻ったかどうかご存じですか?」
「はい。聴取を行っている応接室から彼が出て来たところで出会いました。大浴場でゆっくりすると言っていました。大丈夫、元気そうでしたよ」
裕美は、彼の言葉に少し安心して、
「太一さんは何を聞かれたの?」
と更に尋ねてみる。
「正勝さんの伝言を純樹君に伝えたことと、私と正勝さんとの関係ですね」
太一がそう言って裕美に視線を合わせた。鈴たちが伝言のことを知っているのかどうかを確認したのだろう。裕美は小さく頷く。
「純樹さんには、何て伝えたんですか?正確に教えてください」
鈴の質問する姿勢を見て、彼女の父親が警察庁に勤めていることを思い出し、彼女にも警察官の血が流れているのではないかと、裕美はそんなことを感じた。太一は鈴を見つめてゆっくり説明する。
「正勝さんから伝言があります。今日の午後1時半頃に小里浜に来てください。話したいことがあります。詳しくは携帯に連絡を入れます。と伝えました。更に、正勝さんが大会関係者の接待で沿岸のクルージングをしてから小里浜近くの展望台レストランで昼食を取ること、その後ホエールウォッチングに出る予定であることも純樹君に伝えました」
鈴は少し頷いてから更に尋ねる。
「正勝さんがホエールウォッチングをキャンセルすることは太一さんも知らなかったのですか?」
「はい、何も聞いていませんでした。船が好きな方でしたから、豪華クルーザーに乗るのを楽しみにされていると勝手に想像していました。ですから、正勝さんは昼食後、出航までの合間に、ああ、出航は14時の予定でしたから、その間に連絡を取って会う積りだと。私は考えていました」
カフェの店員がアイスコーヒーを太一のために運んできた。店員が気を利かせたようだ。彼がひと口飲み終えるのを待っていた裕美は、
「どうして正勝さんは、純樹さんに直接話さずに太一さんに伝言を頼んだのだろうと、昨日私が疑問を口にした時に、みなさんは二人のスケジュールが合わなかったからとか、忙しかったからとか言われていましたけど……。違いますよね!」
と強い口調で迫った。太一はじっと裕美の瞳を見つめた。
「事故の話を聞かれたんですね?」
太一の視線に達彦が静かに頷く。太一はもうひと口コーヒーを流し込んでから続けた。
「私も違うと思います。これは私の想像でしかありませんが、夕食の時、みなさんの前では正勝専務は純樹さんと平気そうに話していました。しかし、やはりわだかまりはあったと思います。純樹君にも困惑があった。それを感じたから私に伝言を頼んだのだと思います」
「好きな男に告るのに、友人に頼んで呼び出すようなものね」
「え?」
鈴の例えに裕美の口が少し開いた。
「じゃあ、正勝さんは純樹さんに何を告ろうとしてたんだろう。太一さん、事故の話を詳しく聞かせてもらえませんか?」
達彦の言葉に裕美たちも深く頷いて太一を見つめる。太一はひと呼吸置いた。
「4年前の夏、純樹君と静江さんは、2泊3日で長野のペンションにやって来ました。実は、私と静江さんは同郷で、金沢の出身です。ご両親のことも存じています」
「太一さんも金沢だったんですか?もしかして僕たちと高校も同じですか?」
達彦の興奮気味な声に、
「高校は違いますよ。君たちほど頭は良くなかった」
と微笑んだ。
「え、達彦さんより頭悪いの?」
鈴が真面目顔で尋ねている。太一はニコリと誤魔化してから話を続ける。
「静江さんが彼氏と夏の旅行をしたいと私に相談してきたので、ペンションに来るよう誘いました。私がいることでご両親も安心して許可してくれたようです。八月下旬の頃でした。二人以外の宿泊客が……。榊原一家です」
榊原一家と一緒だったことは、このホテルに来た初日、和真社長を紹介された時に教えられた。
「和真さんと涼子さん。そして涼子さんの父親榊原高雄さんです。当時は、まだ高雄さんが社長を務められていて和真さんは専務でした」
「榊原高雄さんは、涼子さんの実のお父様なんですね?」
鈴が確認する。
「と言うことは、和真さんは婿養子ですね?」
裕美の言葉に太一は頷く。
「弟の和真さんが榊原観光の婿養子になったことは、正勝さんにとってラッキーなことですよね?」
「正直、ペンションの経営状態は悪かったので、正勝さんにとってはとても幸運だったと思います。おまけに和真さんの計らいで榊原観光の取締役にまでなれましたから」
「部下が気の毒だ」
達彦が零す。
「だから、長野のペンションに閉じ込められていたのよね?」
裕美の鋭い質問に太一は窮して苦笑を浮かべることしかできない。
「約2日間、純樹さんたちは榊原一家と過ごしました。高雄さんは当時60歳くらいでしたから、若い二人をとても可愛がって、メニュー外の美味しい物をご馳走したり若い人の聞く音楽を一緒に聞いたりして大そう喜んでおられました。静江さんも高雄さんが気に入ったみたいで、父親に甘える娘のようでした」
「可愛い女は得ね」
裕美がチラリと達彦の瞳を窺う。高校時代には静江に憧れていたと言う話を思い出したのだ。
「あなた方も十分得をしていると思いますけど」
太一が二人の女性にリップサービスを施す。
「あら、嬉しい。見る目ありますね、太一さん」
鈴が単純に喜んでいる。
「実は、高雄さんは船が好きで、その点では正勝さんと話が合っていました。よく二人で船の話をされていました。そもそも夜の川下りは、正勝さんが高雄さんに提案をして柳原家が長野のペンションに遊びに来られたのです。2日目の夜、夕食後に榊原家だけがボートで川下りに行く予定でしたが、高雄さんが純樹君たちを一緒に連れて行くと言われました。月が満月に近く夜空も晴れていたので、彼らに美しい星空を見せたいと仰っていました」
「正勝さんの提案?」
裕美が小さく繰り返す。
「でも、夜に川下りなんて危険じゃないですか?」
達彦がもっともな意見を言った。
「確かに普通はそう考えると思います。ただ、川下りと言っても急流下りではありません。あの川は川幅も広く流れも穏やかで、ほとんど危険はありません。一箇所だけ岩場が多くて流れが激しくなるところがありますが、そのポイントさえ気を付けて通れば、後は湖を走っているようなものです。特に月夜の明るい夜は視界も良いので安全上の問題はありません。現に正勝さんは、よくひとりで夜に走っていました。私も何度か乗せて頂いたことがありますが、のんびりとした楽しい航行でした」
「そんな安全な川で事故が起きてしまった……」
太一が静かに頷いてから言葉を続ける。
「まず、ボートの構造についてお話しておきます。ボートと言っても、せいぜい八人ほどが乗れる大きさの物で屋根もありません。よく公園の池に二人乗りのボートがありますが、あれの八人乗りの物を想像してください。操船も、船尾についている船外機をコントロールする最も原始的なボートです。それを正勝さんが操船していました」
裕美は、海上保安庁の救命ボートが後ろにエンジンを積んで進んでいるような、映画で見た光景を思い浮かべた。
「正勝さんの証言によると、その夜は川全体の水量が多くいつもより流れは速かったようです。基本的には川の流れに運ばれて、時折エンジンの回転を上げてボートの方向を調整します。岩場ポイントでは、川の流れに従うのではなくエンジンをしっかり回転させて自律的にコースを選んで走ります。正勝さんは岩場の手前で早めにエンジン回転を上げようとしたそうです。しかしエンジンの調子が悪く細かな制御ができなかった。が、それは大きな問題ではなくボートは正勝さんの意のままにコントロールされていました。速度はやや速目だったようです。岩場ポイントと言っても、川全体が岩場に覆われている訳ではなく、大雑把に言えば両岸から岩場が伸びていて、川の真中辺りが川幅の4分の1ほどの幅分空いている。ですので、その間を通り抜けることは容易いことです。正勝さんはエンジンコントロールよりも舵取りに専念しました」
「他の人たちは危険を感じなかったんですか?」
「何とも思わなかったようです。そもそものスピードが遅いので、一般の方が危険を感じるような要素は何もなにもなかった」
「そんな状況で事故が起きるなんて不思議なくらいですね」
「ボートは岩場に近づいて行きましたが、進路は岩の間を目指していたので誰も不安を感じていなかった。でも、突然船首がフワッと浮いたような感じがすると、船尾がガクンと何かに引張られるような振動を覚えた。次の瞬間、エンジンが高回転する音と共に船首が高々と宙に上がってそのまま川面から飛び出し、トンボ返りをするような形でひっくり返ってしまった。全員がボートから放り出されて流されましたが、高雄さん、和真さん、涼子さんの三人は転覆したボートが流れてきたためにつかまることができました。正勝さんは操船桿を握っていたためにボートから離れなかった。純樹君と静江さんだけが急流に流されてしまった」
「怪我をしたのは静江さんだけだったんですか?」
「高雄さんは溺れはしませんでしたが、元々心臓が弱かったために冷たい川の水で体温が急に下がったことと、可愛がっていた若者たちが流されてしまったショックに心臓が耐えられなかった。最後まで静江さんと純樹君の名前を叫んでおられたようです」
裕美は何も言葉が出なかった。月明かりがあったとは言え、夜の暗い川の流れに飲み込まれながら流され、川面下に潜んでいる岩場に身体をぶつけながら流されてゆく恐怖はどんなだったろうか。純樹の暗い影は、怪我をしてしまった静江に対する罪悪感だけではないような気もしてきた。そして、自分たち大人の遊びに付合わせたばかりに、若い命を二つも見失ってしまった時の高雄さんの責任感と絶望感など想像することすら耐えがたい。
「それから数時間後、二人は下流にある民家に自力で辿り着いて保護されました。純樹君が静江さんを背負って数キロの道のりを歩いたようです。勿論、我々も警察や消防に連絡して応援を求めていましたが、ペンションの方も高雄さんが亡くなったことで大混乱の状態でした」
太一はアイスコーヒーで喉を潤した。
「結局、事故の原因は何だったんですか?」
裕美には川やボートのことは良くわからない。
「警察の最終的な見解は、普段より水かさが高かったために、普段は川面から姿を現している岩が水に隠れていて、運悪くボートがその岩に乗り上げて船首が上がり、慌てた正勝さんがエンジンのスロットルを開いて出力を大きくしてしまったと言うものです。勿論、正勝さんは否定していました。エンジンの調子が悪く突然高回転になったと主張していました。しかし、ボートも大破しエンジンも長時間水に浸ってしまったので、真相は追及できませんでした」
太一は小さく吐息を吐いてから裕美をじっと見つめた。
「太一さんはどう考えているの?」
辛い過去を語ってくれた太一に鈴が遠慮気味に尋ねる。
「ボートが航行するコース、つまり川の中央帯には岩なんてありません。正勝さんがよほど川の端を走っていて、そこから岩の間を抜けるために急角度で舵を切らなければ、警察の言うような事態にはなりません。でも、誰もそんな証言はしていません。僕は正勝さんの言葉を信じます」
「つまりエンジンが暴走した」
鈴の確認の後、しばらく沈黙があった。
「事故の後、正勝さんは純樹さんと会ったのですか?」
裕美の声色に太一へのいたわりが含まれている。
「いえ、純樹君たち二人は県内の病院に入院しましたが、私以外の誰もお見舞いには訪れていません。その後の補償の話なども、全て保険業者や榊原観光の社員が代行して行いました。私は地元に戻って純樹君と静江さんのご両親にお詫びしましたが、当時、私は学生のアルバイトに過ぎません。両家のご両親は逆に私を労わってくださいました。しかし、当事者である正勝さんから直接事情説明をして欲しいと言われていました」
「当然ですよ」
達彦が憤怒の気持ちを素直に表す。
「申し訳ない」
太一が頭を下げる。
「太一さんは何も悪くありません」
裕美は、単純な達彦を睨みつけながら太一の誠実な姿勢に心を動かされた。
「俺が純樹さんの立場なら、絶対正勝さんを許せないな。勿論、殺したりはしないけど」
達彦は自分の軽率な発言を誤魔化すように白々しい笑顔を振りまいた。
「もしかすると、正勝さんは事故の謝罪をするために純樹さんを呼び出したのでしょうか?まさか、真相みたいなものを話す積りだったとか」
最初の疑問である、正勝が純樹を呼び出した理由について鈴が遠慮気味に意見する。
「あり得ない話ではないけど、何でわざわざ外に呼び出す必要があるんだ?ホテルの部屋とか、カフェとか、ラウンジとか、内密に話せる場所はいくらでもあるのに」
達彦の疑問に誰も答えられない。更に言えば、クルージングからホテルに戻ってからでも十分に時間はあったはずだ。当然、誰にも答えはわからない。このままでは埒が明かないので、裕美は雰囲気を変えるような口調で、
「太一さん、お忙しいのに辛いお話をさせてしまってすみませんでした。お陰様で、純樹さんが警察に疑われている理由もわかりました」
と、丁寧に頭を下げた。慌てて鈴と達彦もならう。
「いえ、私の知っていることなら何でもお話しますので、いつでもお尋ねください」
太一はそう言って立上がった。
【川のイメージ図】
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇
〇〇〇岩場〇
〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇
急流 ← ボートの航行コース
〇〇〇〇
〇〇岩場〇〇
〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
オープンカフェを出た裕美たち三人は各自の部屋に戻った。戻る前に純樹の部屋を全員でノックしてみたが留守だった。太一の言ったように大浴場に浸かっているのだろう。三人はそう結論して各々の部屋に戻った。
裕美は椅子に座りこんで再放送のドラマをぼんやり見つめながら、さっき聞いた事故を頭の中で繰り返し想像している。現場を見ていないのでどんな規模の川なのかもわからない。具体的に地名や河川名を聞いてみようかとも考えたが、それを知ったところで何になるのだろう。そんな逡巡を繰り返していると隣の部屋のドア音が微かに響いたので、裕美はさっと立上がって純樹の部屋をノックした。すぐにドアが開く。彼は上半身が裸でショートパンツを穿いていた。
「今、大丈夫?」
「どうぞ。風呂あがりなので暑くて」
純樹は何のためらいもなく裕美を招き入れる。床に荷物が広がって、テーブルには飲み物や食べ物が中途半端な状態で放置されている。全く落ち着かない空間だ。
「警察の聞き取り調査はどうだった?」
勝手に丸テーブルの上のゴミを片付けながら尋ねる。
「それは……」
ひと握り残ったピーナッツの袋を捨てる裕美を止めようとしたが、彼女は何の躊躇もなく全てを捨てた。グラスも洗い、窓側にある丸テーブルのスペースだけは綺麗に片づけた後、椅子に腰かけて落ち着いた居場所を確保した。
「色々しつこく聞かれましたよ。聞かれて不味いことは何も無いんですけど、事件の日に僕は正勝さんに会っていないと、何度言っても疑いの目で見られたのは辛かったですね」
「川の事故のことも聞かれたの?」
一瞬、彼の表情が曇る。
「正勝さんとの関わりはそこしかありませんから。刑事さんも興味津々でした。お蔭で、益々僕が疑われたような気がします」
純樹は不器用に笑って冷蔵庫から缶ビールを取り出し、心地良い音と共にプルドックを開けた。軽く裕美の方に差し出したが、
「私は結構」
彼女が答えるなり、ゴクゴクと美味そうな音を鳴らして喉に流し込んだ。
「フウー。風呂上がりの一杯は最高ですね」
そんな純樹の様子を見て裕美は安心した。彼の多少の作り笑顔を差し引いても、いつもとあまり変わりはなさそうだ。純樹が床に落ちている雑誌を拾おうと前かがみになると、彼の肩の筋肉塊が裕美の目の前で収縮した。
「その傷どうしたの?」
裕美は左手を差し出して彼が拾った雑誌を手渡すように要求しながら、彼の右肩後ろにある、随分古そうな傷跡のことを尋ねる。
「ああ、これですか。ガキの頃の傷ですよ」
手渡された雑誌にはアイドルの水着写真が数枚載っていたが、ただの少年漫画誌だ。
「ガキの頃に近所の野良犬をいじめていたら、犬が真剣に怒って噛み付かれたんです」
裕美はその言葉に軽い目眩を覚えた。そうして、宝くじの組番号が一致して、上数桁が一致した程の期待感に、全身の血液が逆流しそうなほど動悸が激しくなっている。
純樹はベッドに腰を下ろし、裕美の興奮を不可思議に感じながらもいつものようにクールな表情で彼女を見つめている。
「どうかしましたか?顔色悪いですよ。犬が嫌いですか?それとも漫画が嫌いですか?」
裕美は大きく呼吸をして心を整えながら雑誌をペラペラと捲り、
「もっとエッチな漫画かと思ったのに」
軽く笑って雑誌をテーブルに置いた。
「少年漫画ですからね」
純樹は最後までビールを飲み干した。裕美はこのまま部屋を出るかどうか迷った。どうしても、今言わなければ気が済まないことがある。宝くじの確認なら楽しみ置いておけるが、この件を中途半端に放置したまま過ごすことは耐えられない。
「あなた、嘘を吐いているでしょ」
裕美は、ビールを飲み干して満足顔の純樹に優しく言った。
「嘘?少年漫画がですか?エッチ本を隠したりしていませんよ」
純樹も驚いたのか、意味不明のことを呟いている。
「あなたは犬をいじめていたんじゃない。あなたは野良犬に襲われた幼女を救おうとして噛まれた。でしょう?」
突然、驚愕の波に襲われた純樹は、蝉の抜け殻のように空っぽな瞳をして裕美を見つめている。
「誰にも話していないですよ、誰にも……。どうしてあなたが……」
彼は独り言を繰りながら、裕美の言う嘘の意味を探り得た。
「そうよ。あなたに助けてもらった幼女が私なの。確か私が六歳の頃、親戚の家に遊びに行っていた。そして近くの公園でひとり遊んでいた。そこへ大きな犬が近寄って来て、必死で逃げたけどすぐに追いつかれて。転んだところへあなたが助けに来てくれた。小さなあなたがその犬に飛び掛かって、何度も何度も犬に振り落とされて、それでも、私が遠くへ逃げるまで犬と戦ってくれた……」
裕美は話しながら胸が熱くなって自然に涙が溢れてきた。純樹は天井を仰いだまま何も言わない。
「犬はあなたの肩に噛み付いてシャツが血で真赤になったけど、それでも、あなたは叫び声ひとつ上げずに犬に抱き着いていた。やっと、通りすがりのおじさんが犬を追払ってくれたけど、あなたは血と泥にまみれていた。それでも、近寄った私に『大丈夫?』て笑い掛けてくれた。あなたはそのまま病院へ連れて行かれて、私は私で親にも言わなかったものだから、予定どおり次の日に高知へ戻ってしまった」
遥か遠くの日本海で漁船の汽笛が青空に吸い込まれていったような感覚が、二人の過去の空間で溶けていった。
「私もあのことは誰にも話さなかったの。とても大切な思い出だから。そして、心密かに決めていたの。もしもあの男の子にもう一度会えたら、その人のお嫁さんになろうって」
裕美はどうにも説明のつかない熱い涙を滝のように流している。ベッドにどっかりと腰を沈めたままの純樹は、成長した幼女の姿を目の当たりにして呆然としているが、それでも整然と落着いた心持ちで事態を冷静に捉えようとしている。
それとは逆に裕美は、悲しくて、寂しくて、心細くて、純樹の胸に飛び込みそうな衝動にただじっと堪えている。長いしじまが過ぎ去ったものの、その長さを瞬くほどの長さにしか感じ取れない二人。
裕美の動揺が少し鎮静した頃、彼女は静かに立上がり、夢遊病者のように歩を進めティッシュで涙を拭きながらバルコニーに通じる扉を少し開いた。暑い海風が入って来る。
「あなたをね、初めて見た時にね」
先程の激情から一転して、裕美は落ち着いた声で話し始めた。その声を耳にした純樹は、なぜだか顔を緊張させている。その哀れなまでの緊張感が裕美にまで伝わってくる。裕美は扉を閉めてから純樹を振り返り、扉に背をもたれ掛けた。
「直感的に感じたの。私の王子様になってもらえそうな人だって」
その言葉を聞いた純樹の頬が微かに震えている。
「どうしたの?寒い?」
「恐いんです」
「何が?」
裕美には、純樹の唐突な変化が理解できない。普段のクールな彼はどこへ行ってしまったのか。
「女性が腹を決めた時の恐ろしさです。自分の半径1メートルにしか興味を持たない。自分の半径1メートルさえ幸福であれば外の不幸せなど無関心。外の世界から不幸せが迫っていてもそれを見ようともしない。自分の周囲には幸福以外の穢れた言葉は一切持ち込ませない。そんな人たちの決心が自分に降り掛かってきたら恐ろしいのは当然でしょう」
「女をそんな風に思っているの?」
裕美は、偏屈で子供じみた純樹の観察がショックでもあり面白くもあった。確かに、純樹の指摘するような面もある。だが、全ての女がそうではないし、ある女の全てがそうでもない。
だが純樹は、嘔吐しそうなほどの嫌悪感を表情に表している。純樹の心底には、彼をこんな女性観にしてしまった大きな傷でもあるのだろうか。そう思うと同情すら抱いてしまう。
「僕には王子様になる資格なんてありませんよ、お陽様が西から昇ってもね」
純樹の言葉は裕美に冷たい風を吹き付けたが、彼女は冷静に二人の立ち位置を感じ取っていた。悲しみの感情は無い。純樹の胸の中に静江がいることは百も承知している。
そんなことよりも、男女関係に対する二人の価値観が余りに違い過ぎて、隔たりが余りに大き過ぎて、一緒に時を過ごしていることが不思議でさえある。
嫌われたとか振られたとかの感覚ではなく、まるで明治時代の人と話しているような、同世代の人間として何もかもが理解できない不思議な感覚だ。
「まだ信じられない気分ですね」
雰囲気を変えるように、純樹がやや明るい口調になった。端から返事を期待していないような口調だ。裕美は、幼女の頃からお嫁さんになろうと決めていた思い人が純樹であると言う、天命に近いこの偶然に、どんな隔たりがあろうとも必ず結ばれる。と言った、運命の力を感じ始めている。
「どうして王子様にはなれないの?」
大き過ぎるこの隔たりをどこから埋めていけば良いのか、裕美は純樹の心の闇を引き出してみたいと思った。
「あなたが期待しているほど僕は強くもないし、優しくもないです。いつも我がままな欲望を抑えるのに苦労している、どこにでもいるようなつまらない男だからです」
純樹は他人に期待されることが嫌なのだろうか。
「普通の男で十分よ、少々我がままでも」
「普通の男にもなれません。もう人を愛することができないんです。そんな男といてもあなたは不幸になるだけです」
「でも、静江さんを愛しているんでしょう?」
「静江は特別な存在です」
「世間では、それを愛するって言うのよ」
裕美は小学生に恋愛を語っているような気分だ。そして静江との関係にも益々興味が沸き上がってきた。さっきの言葉が純樹の本心であるなら、どうやって静江と付き合ってきたのか不思議でならない。
「静江さんのお話を聞かせて欲しいの。あなたが未練がましく手紙を書き続けている特別な存在の彼女のお話を」
裕美は甘い声を出して、涙の跡が残る瞳で彼を一心に見つめながら、純樹が最も話したがらない領域に踏み込んでゆく。裕美は彼を傷つける積りはないが、一歩踏み込まなければ本当の心を表してくれない気がした。
「知り合ったのは高校一年の時です。クラスは別でしたが、僕がバレー部で彼女はテニス部でした。部室が隣同士で顔を合わす機会も多く、僕の方から声を掛けました。最初は挨拶をする程度でしたが、夏休みにデートに誘って告白しました。彼女も快く受けてくれて、それからつき合いが始まりました。つき合うと言っても、電話で話しをしたり学校で話しをするのがほとんどで、遊びに行くことは滅多にありませんでした」
純樹は両手を膝に乗せ、やや背を丸めて話している。
「どうして?」
「うちの部は全国レベルでしたから土日もほとんど練習や試合です。休みなんて月に一度あるかないかでした」
「じゃあ、その頃は一度もエッチはできなかったのね?」
裕美は悪戯半分で彼の反応を窺ってみる。
「全く。そんな段階まではほど遠かったですね」
「キスくらいはしたの?」
裕美は可愛い笑顔を浮かべて純樹を悪戯な瞳で見上げた。彼は少し遠い目をして過去を振り返っているようだ。しかしその表情は何となく暗い。
「一度だけ」
そう言った純樹は恥ずかしそうに頬を赤くした。
「あら、かわいい」
羞恥の表情を保っている純樹は、裕美の軽口にも反応せずに俯いている。裕美はこの辺りが潮時だと感じた。今日の純樹は、殺人の疑いやら忘れていた幼女の出現やらで刺激を受け過ぎている。これ以上、とやかく質問するのは可哀そうになってきた。何気なく後ろを振り返って波の動きを確認した裕美は、あの波はどこから来たのだろうかと不思議を感じながら、ゆっくり純樹に近寄った。
「続きは、またいつか聞かせてね」
そう言って、純樹の言葉を待たずにドアに向かって歩く。
「じゃあ、また後で。とにかく元気そうなので安心したわ」
裕美は王子様の話など無かったかのような口調で言葉を残しながらドアを開いた。
「心配してもらってありがとうございます」
純樹も同様な態度で軽く頭を下げた。と、裕美が廊下に出た瞬間、鈴の部屋が開いて彼女と視線が出会った。
「ちょうど良かった。私たちも大浴場に行きませんか?」
鈴は裕美の立ち位置に何の疑問も抱かない笑顔で裕美を誘った。
事故の起きた川、夫婦松の崖、小里浜、すべて架空のもので実在しません。