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裏切りの夏  作者: 夢追人
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南紀の浜2

瀬戸内正勝が角川太一に託した伝言を受けた純樹。要は正勝に呼び出された純樹がひとりで出かけるが、この行動が純樹を殺人罪の容疑者へと導いてゆく。

一方、可愛い鈴は大会の放送設備準備で一気に人気者になる。

「テステス、ただいまマイクのテスト中。私のかわいい声が届いていますかー!。星里鈴でーす!」

 翌朝、午前10時にホテル近くの船着場からクルーザーに乗った正勝たちは、ホエールウォッチングに出掛けた。午前中は沿岸の島巡りをしてから景勝明媚な断崖絶壁の上に建つ展望台レストランで昼食を取る。

 そのレストランも榊原観光の経営するもので、陸路だとホテルから車で30分ほど掛かる。

 クルーザーはホテルが所有するVIP用クルーザーで全長15メートル。最高速度30ノット。定員18名で、フライングブリッジの付いた、見た感じ二階層のボートだ。

 内装はメインサロンに豪華なインテリアシートがあり、バウダールームにはシャワーやトイレ、ギャレーには簡易キッチンもある。バウバースにはベッドもあるので、三四人なら数日間宿泊することもできる。

 正勝と和真、涼子以外に今回の大会スポンサー数名と町内役員や旅館組合関係者数名が同乗し、彼らの接待が榊原観光の目的だ。

 商売柄、和真も涼子も接待には慣れているので、乗船早々サロンで客たちを相手に愛想良く酒を振る舞っていたが、正勝はあまり接待が得意ではない。 

 正勝は乾杯の後、折を見計らってシャンパングラスを片手に後方にあるアウトデッキに出た。そして、炎天下に跳ねる波を見つめながら、海風に心をなびかせている。

「少しは協力してくれよ」

 和真がビールの入ったグラスを持ってアウトデッキの正勝の横に並んだ。ボートは10ノット程度のゆっくりした速度で進んでいる。

「ひと通り挨拶はしたぞ」

 正勝は煙草を取り出して火を点ける。

「涼子に認められないと何かと厄介なんだ。わかるだろ?」

 和真も小さな溜息の後に煙草を取り出し、正勝が手を伸ばしてライターで火を点ける。

 榊原観光は、涼子の父である榊原高雄が一代で築き上げた企業だった。和歌山県で民宿を営んでいた親の家業を発展させて、近畿地方を中心にホテルや旅館を十数か所経営する企業に育て上げた。

 典型的なオーナー企業、同族会社で、ひとり娘の涼子が株の大半を所有している。涼子に見染められ、榊原高雄にも経営手腕を認められた瀬戸内和真が涼子と結婚し、婿養子となって役員になり、充分な実績を残して専務の座に就いた。

 正勝は和真より五歳年上の実兄で、長野でペンション経営をしていたが経営と言うよりも自分の趣味的な志向が強く、負債まみれの経営状態だった。和真の結婚と同時に正勝も榊原観光の身内となり、平ながら取締役の役職をもらってペンション事業部を担う役割を与えられ、十分な運営資金をあてがわれるようになった。

 しかし、いつまでも黒字にならない正勝のペンション経営手腕に榊原高雄も業を煮やしていたが、身内に厳しい判断を仕切れぬうちに事故で亡くなってしまった。その後社長に就任した和真のお陰で専務に昇進させてもらい、赤字続きのペンションを継続させてもらっているのが正勝の現状だ。

「お嬢様が経営権を握っているからな。お前も単なる雇われ社長と言う訳だ」

 正勝が煙を吐きながら悪態気味に言葉を吐く。

「そうだよ。だから、涼子の前だけでも頑張っている姿を見せてくれ。そうでないといつまでも赤字続きのペンション事業部を存続させられない。そもそも事業部と言っても、兄さんのペンションしか無いんだから。社員たちからも不満の声が上がっている」

「社員たちには福利厚生施設として多分に楽しませてやっているだろう。あいつらの好き放題の振る舞いも全部許してやっているんだ。文句を言われる筋合いはない」

 正勝は吐き捨てるように煙を吐いた。

「そう言う問題じゃないだろう」

 和真は、四十を過ぎても未だに経営のイロハさへわからない兄に対してとっくに絶望している。今にわかったことではないが、偏狭な視野しか持たない兄の言葉を実際に聞くと、涙しそうなほど情けない気分になってくる。

「しかも、あの投資案件は何だよ?」

「何だよとは?」

「今でも赤字続きなのに、ペンションに温泉を引き込みたいなんて、認められるはずがないだろう」

 和真が諭すように言った。

「客が来ないから、温泉でも引いて客を増やそうとしているんだ。経営者として当たり前の考えだ」

「仮に売上が3倍になったとしても、投資回収に何年掛かると思っているんだ?30年だぞ」

 和真はそこまで言って周囲を気に掛けた。だが、誰もこちらには興味を示していない。

「お前の女房は賛成みたいだぞ。いや、むしろ涼子が積極的に話を進めている」

 正勝の言葉に一瞬驚いたが、

「あいつこそ経営なんて頭にない。遊びたいだけだ」

 と、ぼやいてから大きく深呼吸をして気分を入れ替えようとした。正勝は弟の悩みなど全く気にならない様子で、

「俺のことより、お前こそどうなんだ?どんなに経営手腕が良くても女房を満足させてやらないと社長の座なんてひと晩で消えるぞ。赤字のペンション経営者の罪どころじゃない」

 と、更に危機感をあおった。

「ご心配なく。お勤めはきちんとしてるよ」

 和真は潮風を吸い込んでからビールを口に運ぶ。

「新地の若いホステスを大阪市内のどこかに囲っているそうじゃないか」

 正勝の言葉にビールを飲むのを止めた和真は、動揺を隠すように青空を見上げた。綿のような雲がポカリポカリと浮遊している。

「根も葉も無い噂だ」

「事実かどうかは関係ない。涼子がどう思っているかが問題だ」

 正勝はそこまで話すと、大きく深呼吸をして海から和真に向き直り、

「電話でも話したが、涼子はお前と別れようとしている。そうなったらお前は終わりだ。どうだ、あの件……決心はついたか?」

 と、静かな声で確認した。

「俺なりに涼子の本心を探っているところだ」

 和真は静かに告げてからビールを飲み干してサロンへ戻ってゆく。正勝は和真の背中に氷のような視線を突き刺してから、火の付いたままの煙草を海に放り投げた。


 汗だくになった二十数名の大男たちがホテルに戻ってきた。さすがにむさ苦しい。全員、正面のエントランスからは入らずに、従業員用出入口から入って各部屋へシャワーを浴びに帰った。

 午前中、男子たちはビーチでコートの整地やネット張り、観客席の設置、テントの設営などを行っていた。裕美たちはパンフレットや参加賞の梱包、大会に必要な事務用品の準備など、屋内の会議室で作業をしていた。

 男たちの仕事は予定以上に早く進んで午前中で完了した。午後からは男子の半分が女子の作業を手伝う。もう半分はホテル業務の手伝いだ。

「ほとんどアルバイトだな」

 達彦が昼食の席に座ってから愚痴る。

「こんな高級ホテルで三食付きなのよ。一日くらい働きなさいよ」 

 裕美がみんなのためにグラスに水を注ぎながら言った。そこへ鈴が弁当を運んでくる。中身も高級だが量も多い。

「これだけで持ちますかね」

 純樹の言葉に裕美は目を丸くする。

「いつもどれだけ食べてるのよ?」

「これの五割増しくらいですね」

 マネージャの鈴は当たり前のように言う。

「合宿なんかは大変でしょうね」

 暑苦しい男たちが弁当にがっついている姿を見ながら、裕美が鈴に笑い掛けた。

「もう、動物園の飼育係の気分ですよ。朝、昼、晩、ずっと餌をやり続けるんですから」

 鈴が真面目顔で愚痴っている。

「私のを半分あげるわ」

 裕美は純樹の弁当蓋に半分のご飯と脂分の多いおかずを二三個置いた。

「ありがとうございます」

 純樹がニコリとほほ笑む。裕美はその素直な笑顔にドキリと嬉しかった。

「私のもどうぞ」

 鈴が達彦に弁当を差し出す。

「サンクス」

 純樹は、裕美が目を見張るほどの早食いで食事を終えると、椅子からさっと立上って、

「ちょっと用事を頼まれているので先に行きます。午後の作業をお願いします」

 と、食事中のみんなに告げた。

「どこへ行くの?」

 裕美が不思議そうに見つめる。純樹が何か隠し事でもしているように見える。

「海岸。自転車を借りたいんですけど、どうしたら良いんですか?」 

 純樹が鈴に向かって尋ねる。

「フロントで申し込めば貸してくれますよ」

 鈴が口をモグモグさせている。

「私が一緒に行ってあげるわ」

 裕美は箸を置いて立上がる。純樹がこの手の手続きが面倒で苦手なのはわかっている。

「お願いします」

 純樹は軽く頭を下げるとさっさと歩きだす。

「誰に頼まれたの?」

「太一さんですよ」

 太一は、朝から配達業務で外出すると言っていたから、代わりに何かを頼まれたのだろう。

「何を頼まれたの?」

「大した用事じゃありませんよ」

 やはり彼は何かを隠していると感じたが、深く追求する必要も無いのでそのまま黙った。フロントで手続きを終えると、純樹はさっさと裏手にある駐輪場へ歩き始める。

「ちょっと待ってよ。何でそんなに歩くの速いの?」

「普通ですけど」

「女子と歩く時は女子にスピードを合わせるものよ」

「そうなんですか?面倒ですね」

 小走りの裕美が漸く追いつく。

「だから彼女できないのよ」

「関係あるんですかね?歩くスピードが」

 駐輪場に着いた純樹は指示された番号のクロスバイクを見つけたロックを外す。そして胸ポケットから取り出したサングラスを掛けた。初めて見るオシャレなサングラスだ。濃い色のグラスで彼の目は全く見えない。

「似合ってるわよ」

「いえ、似合っていませんよ。恥ずかしいので人前では掛けません」

「午前中も掛けていなかったの?眩しかったでしょう?」

「試合用のゴーグルを付けていました」

 純樹は少々面倒臭そうな表情になっている。裕美はつまらないことを質問している自分に気づいて急に恥ずかしくなった。

「じゃあ、行ってきます」

純樹が腕時計を確認した様子につられて彼女も時間を確認する。13時10分。

「気をつけて」

 だんだん小さくなっていく彼の背中を、裕美は不安な予感を抱きながら見送った。


「ここの展望台レストランはいつ来ても気持ち良いですな」

 クルーザーを下船してレストランに入った町長が窓際の席に腰を下ろして感嘆の声を上げた。

「恐れ入ります。いつもご利用頂いてありがとうございます」

 和真が軽く頭を下げながら礼を言う。他の招待客たちもそれぞれの席に着いた。

「今日は少し波が高そうですけど、奥様は船酔いなど大丈夫ですか?」

「私は船にもお酒にも酔いませんわ」

 涼子の言葉に老人たちはどっと笑った。

「頼もしい奥様だ。しかも美しい」

「恐れ入ります」

 涼子は運ばれてきた瓶ビールを手に取って町長のグラスに注ぐ。

「専務の奥様は来られなかったのですか?」

 旅館組合の組合長が正勝に向かって尋ねた。

「私は仕事一筋で来たもので、結婚はしておりません」

「単なる遊び人でございます。今でも若い女の子とたくさんお付き合しておりますわ」

 涼子がまた席を笑わせた。

「それはそれは。羨ましい限りですな」

「うちの主人も時々女の香りを持って帰りますの」

 涼子が笑顔を浮かべてチラリと和真を見たが、彼は知らぬ風に組合長にビールを注いでいる。

「おやおや、和真社長。それはいけませんな。こんなに奇麗な奥様が待っておられるのに外で遊んではもったいない」

 町長の言葉に一同が再び笑った。

「みなさまもお気をつけて。女の勘は鋭いですからね」

 涼子が老人たちの顔を見渡しながら笑顔を送る。

「大丈夫ですよ。私どもはみんな潔白ですから」

 町長は笑っているが少々顔が引きつっている。

「ところで、組合長。この展望台の麓にある砂浜に、願いが叶う”奇跡の砂粒”と呼ばれる物があると聞いたのですが、本当ですか?」

 和真が話題を変えた。

小里浜(こざとはま)のことですかな?若者の間ではそんな噂も流れているようです。星の形をした砂粒を拾うと願いが叶うとか。夢があって良い話ですな」

「もっと世間に広めて名物にできませんか?当社のホテルからこの展望台まで、松林の中を潜り抜けるサイクリングロードを作ったのですが、知名度が低いためかあまり利用されていません。パワースポット的な砂浜に仕立てれば利用者も増えて、途中にある町営の道の駅にも集客が期待できますよ」

「この展望台レストランにもな」

 町長が意味あり気にニヤリと笑う。

「しかし、話題づくりはできるとしても星型の砂粒なんてそうそう見つかりませんよ」

 組合長が思案顔を作る。

「そんなもの、他の海岸でも良く売っているじゃありませんか。貝殻を削って作ることもできる……」

 正勝が意味深な言葉を吐く。

「それはどう言う意味ですかな?」

 町長がとぼけている。

「いくらうちの専務が酔っていても、星型の砂粒を他所から持って来てばら撒けなんてことを言うはずがございませんわ。ホホホ」

 涼子が白々しく笑い声を立てて一同を笑いに誘った。

「砂粒の話はともかく、正直言ってあのサイクリングロードは路面が悪い。崖の上を走る県道の方が見晴らしも良いし路面も整備されているから、少々大回りでもみんな県道を走るんですよ。まず路面を整備してからパワースポットの話を詰めましょう」

 町長が真面目顔に戻って和真に投資を迫った。

「まあまあ、お仕事の話はこれくらいにして食事にしましょう。ちょうどお料理も運ばれてきました。お口に合うと嬉しいですわ」

 涼子の言葉で一同は再び観光客の姿に戻った。


 島影の向こうに紅い夕陽が沈む頃、裕美はオープンカフェでレモンティを飲んでいる。夕食前だけに他に客の姿も無く、鈴も午後の作業疲れで部屋にいる。

 午後の作業では、大会会場に放送設備の設置を行った。ホテルの担当者の指示に従って男子たちがスピーカー配置や配線を行った後、本部席においてあるマイクで鈴がテスト放送を行った。

「テステス、ただいまマイクのテスト中。私のかわいい声が届いていますかー!。星里鈴でーす!」

 ビーチにいる男子たちがどっと沸いて鈴はたちまち人気者となった。

「少しボリュームが大きいですね。今の声、ホテルまで届いていますよ」

 ホテル担当者が苦笑いを浮かべてボリュームを下げた。

「あら、ホテルのお客さんにもファンができちゃった」

 鈴はケラケラと愛らしく笑っていた。

 そんなことを思い浮かべながら、裕美は涼やかな浜風を全身に受けて静かな時間を楽しんでいる。鈴の羨ましくなるほどの素直な愛らしさにほのぼのとしたのも束の間、ふと煙草の煙が混ざったような不快感が心の片隅に広がるや、先日故郷の母から届いた手紙を思い出してしまった。

 取り立てて用事はなく、こちらの近況報告も欲しいと言ったことが書いてあった。いちいち手紙に書かなくても母とは電話で良く会話をしている。

 彼女は座ったままで大きく伸びをしてレモンティを口に運ぶ。太陽が更に沈んだような気がする。自然の優しい光景に心を癒された裕美の脳裏には二人の男の容姿が浮かんできた。

 純樹は優しくもあるが彼の持つ冷たさも感じる。彼が自分に冷たく接すると言う意味ではなく、彼自身に潜んでいる氷の棘のようなものを時折感じる。純樹に片思いの女がいて、その女のために自分に興味を示さないことにはプライドが傷つくし悔しくも悲しくもあるが、それ以上に彼の心に刺さっている冷たい棘が何なのか、それが気になってしまう。

 ふと、老婆の姿が目に入った。杖を突きながらカフェの横を通り過ぎてゆく。宿泊客には見えず、近所の住人が散歩しているようだ。老女が腰を曲げてのっそりと歩く姿を見つめながら、

(女の人生て何なんだろう)と、漠然とした不安に包まれた。

 どんなに激しい恋をしたところで、出産して子を育て、夫と家庭を築き上げていった末に皺だらけで腰の曲がった老婆となってしまう人生が本当に幸福なのだろうか。純樹と愛し合いたいと言う気持ちの高揚を実感しながらも、そんな熱病のような恋など限られた時間と共に過ぎ去ってしまうエクスタシーに過ぎないようにも思える。

 仮に純樹の若々しい精力に包まれたとしても、今の裕美にとって純樹は青春の思い出作りの一役者に過ぎず、欲情を慰める時の一材料に過ぎないようにも感じる。

 更に、もうひとりの男の姿が浮かぶ。自分の力ではどうにもならない問題。橘昭(たちばなあきら)という男の顔が微かな記憶の中で目を細めた。 

 有名国立大学卒の、細身で小柄、銀縁眼鏡を掛けた神経質そうな秀才。真面目だけが取り柄の物静かな男だ。彼は裕美の故郷である高知で裕美の実家稼業と同じく運送業を営む『橘運送』の長男だ。

 橘運送は裕美の実家へ仕事を流しており、会社の規模も比にならないほど大きい。たまたま、裕美が高校生の時に橘一家が訪れ、昭が彼女にひと目惚れした。昭は裕美より六歳年上で既に稼業を継いでいた。

 裕美は子供ながら、稼業がギリギリの状態で操業していることも、橘運送から安定的に仕事が回ってくれば両親が楽になることもわかっていた。裕美にとって昭は空気のような存在だ。決して嫌いではなく、かと言って好きになる要素は何も無い。しかし、昭と結婚すれば両親が喜ぶことは十分想像し得た。

 勿論、両親は強制などしないし、裕美の選んだ男と結婚すれば良いと言ってくれる。だが彼女は両親のために自分の人生の一部を歪めることも決して厭わない。だが、それが正しいことなのかどうか、まだ高校生の裕美には判断できなかった。

 それゆえ、考える時間を求めて故郷から離れた大学への進学を選んだ。故郷を離れ、色々な体験をしてから決めようと考えている。更に、数年間なら就職して働くことも許してくれそうだ。

 その間に、両親を楽にすること以上に価値のある王子様が現れるのか、昭に他の良縁が訪れて裕美のことを忘れるのか、何の変化も起きずに昭と結婚することになるのか。今の裕美にはできるだけ多くの人と出会い、様々な体験を求めることしかできない。

 母親の無邪気な手紙の行間を猜疑の目で読んでしまう自分が悲しくもある。そして同時に、王子様などこの世に存在しないものだという実感も湧いてきて涙しそうになった。一回生の時に付き合った達彦などは、性欲を満たすためだけに自分に媚びているような男だった。

 片や純樹は、彼女にとって王子様たる魅力もあるのだが、本人は、いつまでも過去の女の呪縛から解放されずに未練たらしく手紙を書き続けている。

 久しぶりに達彦と一緒の時間を過ごした裕美は、否が応でも付き合っていた頃のことを思い起してしまう。特に眠る前などは、激しく愛し合った頃の隠微な思い出なども自然と思い浮かんで来る。

 裕美はレモンティの香りが鼻から抜けてゆく心地良さに想像を切り替えようとしたが、再び達彦の分厚い胸板の感覚を思い出すと同時に、純樹のクールな表情が思い浮かんできた。

 純樹は、若い男性として当然持っている達彦のような野生的性欲をどのように処理しているのだろうかと、今まで思ってもみなかった想像を巡らしてしまった。彼女は一度だけ、達彦のそう言う場面を見てしまったことがある。ある夜、達彦に執拗に迫られたがその気になれず拒否し続けた。ようやく彼が諦めてくれて彼女は深い眠りに陥ったのだが、ふと目覚めた折、自分の横で彼が彼自身を愛撫している姿を見てしまった。

 そんな記憶の残像が純樹に重なってしまい、あの時の達彦のように純樹が悶々とした表情で自分を慰めている姿に彼女も熱いうずきを覚えてしまった。しかし、純樹の思い浮かべている妖しい肢体が裕美のものではなく手紙を書き続けている静江のものだと想像した瞬間、氷の湖にでも放り込まれたような冷たさと、どうにも治まらない嫉妬の熱い炎が心の中で錯綜した。

 裕美は小さく首を振って怒りの感情から抜け出した。またいつもの悪い癖が出てしまった。親が自分を大切に育ててくれたためか、甘やかされて育てられたのか、自分でも我がままに育ってきたことは自覚している。そのためか昔から本当の友ができない。相手が誰であろうと後一歩の譲歩ができない。相手を許せない。自分の思いどおりにならないとどうにも我慢ならないのだ。

 いつも反省はするものの、我がままな自分の感情が動き出すとどうにも制御できなくなってしまうのが常だ。そうやって、今まで多くの女友だちを失い、彼氏と別れてきた。

 裕美は、小さく溜息を吐いてから残っているレモンティを飲み干した。そして右手の拳で軽く自分の頭を小突いてから、ゆっくりと立上がって大きく伸びをする。すると、先ほどの老婆が再び裕美の視界に入った。どこまで歩いたのか分からないが引き返して来ている。いつもの散歩コースなのかも知れない。

 裕美が何気なく老婆を見つめていると老婆もまた裕美の方に視線を向けた。夕陽に照らされた皺だらけの小顔が柔和に笑った瞬間、裕美は先ほどまで思い悩んでいた自分を消し去りたいほどの衝撃を受けた。何て暖かくで優しい笑顔なのだろうか。数えきれないほどの苦難を乗り越えてきた証が深い皺となって幾重にも重なっている。だが、その皺が作り上げる笑顔は果てしなく大らかで、何事も優しく包み込んでくれそうだ。裕美は思わず涙しそうになるのを抑えながら、にこりと微笑み返してその場を去った。


 冷静さを取り戻した裕美がカフェからエントランスロビーへ進んでゆくと、ひとりでソファに腰掛けている純樹の姿が目に入った。つい先刻まで純樹の色んな姿を想像していただけに一瞬後ろめたい羞恥心に囚われたが、すぐに平常心に戻って、

「いつ帰ったの?」

 と気さくに声を掛けた。

「だいぶ前に。バイクの鍵はフロントに返しておきました」

「用事は無事に済んだの?」

「ええ、まあ」

 彼の煮え切れない様子が気になるが、それよりも真赤に日焼けした彼の顔が少し可笑しくて、

「ローション塗らないと痛いでしょう?それに日焼け止めを塗らないとお肌に悪いわよ。日焼けなんて、過ぎると火傷なんだから」

 彼の頬を軽く撫でながら横に腰を下ろした。

「どちらも持ってないです」

「私のを貸してあげるわ」

「後で売店を覗いてみます。もし売ってなかったら貸してください」

 いつまでも他人行儀な純樹の態度にまたもや不満の虫が疼き掛けたが慌てて消し去った。と、そこへクルージングから戻った和真たち一行がエントランスロビーに入ってきた。接待客たちはみんな赤い顔をしてご機嫌良く酔払っている。

 純樹がさっと立上がって一行の顔を順に見渡している。フロントに群れた酔払いたちはもつれる舌で部屋番号を告げて鍵を受け取っている。

「正勝さんはまだ戻られないのですか?」

 純樹が和真に近づいて問い掛ける。裕美も何となく彼の後に続いた。

「あら、こんな所でデート?正勝さんはランチの後どこかへ出掛けたわよ。ホエールウォッチングには参加していないの」

 涼子が軽い舌で裕美をからかう。

「どこへ行かれたんですか?」

 純樹は涼子よりも和真に向かって問い掛ける。

「さあ。人に会うとか言っていたけど、接待を俺たちに任せておいていい気なもんだ」

 いつまでも自分勝手な正勝に不満の色を見せた和真がエレベータホールに向かおうとすると、

「社長、正勝専務から昼間に連絡がありまして、明日の開会式には出ないことをお伝えくださいとのことでした」

 フロントの奥から現れた太一が報告した。

「身勝手な人だ」

 和真が不満そうに呟く。

「直接電話してくればいいのに」

 涼子も不機嫌な表情を浮かべた。

「太一さん」

 突然、純樹が声を掛ける。

「太一さんにお伝えいただいた正勝さんの伝言どおりに僕は砂浜で待っていました。すると正勝さんから電話があって別の場所に呼び出されましたけど、結局は会えませんでした」

 純樹がそう言った瞬間、和真と涼子の表情が突然緊張した。やはり過去の事件のわだかまりを夫妻も気にしているのだろう。

「正勝さんがあなたを呼び出した?」

 涼子が恐る恐る純樹に尋ねる。

「はい。今朝、太一さんから正勝さんの伝言を頂いて……。でも結局は会えませんでした」

 純樹は、三人に視線を向けて報告した。

「兄さんから電話があったのは何時だ?」

 太一が携帯の履歴を確認する。

「14時30分です」

「正勝さんは純樹君とのことは何も言わなかったの?」

 涼子が太一に確認する。

「ええ、何も」

「人を待ちぼうけさせておいて……。呆れた人。そもそも、正勝さんは何の話をするために純樹君を呼び出したの?」

「さあ、詳しいことは何も……。純樹さんに場所と時間をお伝えしただけです」

 太一が涼子の問いに焦りながら弁明している様子に裕美は違和感を覚えながら、純樹と正勝が会うことに涼子たちが異様に驚いていることにも疑問を抱いた。確かに事故を起こした責任者と被害者が二人きりで会うのは不自然だが、もう数年の時間が経っている。冷静に向き合おうとすることもまた不自然ではない。

「正樹さん、純樹さんに直接言えば良いのに」

 裕美がふと疑問を口にする。

「今朝は、正勝専務も純樹君もバタバタしていて会う時間が無かったからだと思います」

 太一が自信なさげに答えた。

「携帯の番号を昨夜交換したのに?」

「だから電話する時間もなかったんでしょう?」

 涼子が裕美を小ばかにする。

(わざわざ朝の忙しい時に言わなくても昨夜のうちに伝えればいいじゃない。食事時に会っているのよ)

 裕美は心の中で反論しつつも、気の強そうな涼子に逆らうのは面倒なので言葉には出さなかった。 

「どこで何時に待ち合わせていたんですか?」

 今度は和真が純樹に質問する。

「13時30分に小里浜と言う小さな砂浜で待っていました。砂粒探しをしながら半時間ほど時間を潰していると正勝さんから携帯に電話が入って、展望台に通じる道を上って夫婦松の崖に来るように言われました。電話を受けたのは13時55分です。

「夫婦松の崖?」

 和真が太一に説明を求める。

「展望台レストランからやや下った所にある崖っぷちです。断崖絶壁の岩肌から大きな松が二本仲良く伸びているので、夫婦松の崖と呼ばれています。地元の者は良く知っています」

 太一が和真夫妻の表情を窺いながらゆっくりと説明した。さらに純樹が続ける。

「小里浜からサイクリングロードをバイクで上ると、5分ほどで小さな木の表示板があったのですぐにわかりました。岩場に腰掛けたまま夫婦松を眺めて待っていましたけど、正勝さんは現れませんでした」

「どのくらい待っていたの?」

 裕美も口を挟む。

「だいたい30分くらいですね。14時10分に正勝さんの携帯に電話してみましたが、応答はしてくれたものの風の音ばかりで声は聞こえませんでした」

 純樹がやや困惑した表情で昼間の状況を話すと、すぐさま裕美が正勝に電話を掛けてみる。

「電源が切れているみたい」

 裕美が首を小さく横に振る。

「心配ないわよ。展望台で若い女の子でも引掛けたんじゃないの?兄弟揃って女好きだから」

 涼子が涼しい顔で皮肉を残してから、さっさとエレベータホールに向けて歩き始める。

「もし正勝専務が戻ったら、私に連絡するように言ってくれ」

 和真はそう言い残して涼子の後を追う。裕美は、純樹が正勝に会うことを隠していたことや和真たちの不可解な緊張感に違和感を覚えたが、あまりプライベートに立入るのも憚れる。

「私たちも部屋に戻りましょう」

 明るい笑顔を浮かべて純樹を促した。


 夕食時には、純樹も裕美も正勝の話題には触れなかった。ロビーでの和真たちとの会話自体を忘れたかのように振る舞った。

 明日からは大会が始まるので、食事を終えると純樹も達彦も早めに寝るためにさっさと部屋に戻った。裕美もゆっくり風呂にでも入ろうかと考えた時、

「裕美さん、小一時間付き合ってください」

 鈴が裕美を強引に誘った。

「何か話でもあるの?」

「イケメンをゲットしました」

 鈴は嬉しそうに裕美の手を引いてゆく。そしてレストランと同フロアにあるスカイラウンジに足を踏み入れる。ムードライトに照らされた薄暗い室内には静かなBGMが流れ、穏やかな談笑と上品な笑い声が溶け込んでいる大人の雰囲気だ。

 裕美たちが窓際の席に近づくと、細身の若い男子が二人、テーブル席に着いてビールを飲んでいた。裕美たちに気づくと二人はさっと立上がる。

「初めまして。太田です」

「北沼です」

 四人は簡単に自己紹介をしてから腰を下ろす。彼らが大会の参加者でないことはすぐにわかった。身体が細すぎるし背も高くない。平均男性並みではあるが達彦や純樹に目が慣れてしまった彼女には小男に見える。

「このホテルでバイトしている地元の大学生よ」

 もう、男をナンパしている鈴の行動力に舌を巻いた。

「どんな仕事をしているの?」

「掃除とか食器洗いとか、ほとんど裏方の仕事だよ。忙しい時にはホールを手伝ったりもするけど」

 裕美は彼らに何の興味も持てない。確かにイケメンだし話も楽しいが、夢のひとつも持たない軽い男にしか見えない。達彦も軽薄さでは引けを取らないがバレーだけは必死で頑張っている。 

 しばらくの間、どこにでも転がっているような学生生活の下らない話をしていると、自然にこのホテルの話題になってきた。

「太一さんは厳しいの?」

 鈴が興味本位で尋ねる。

「僕たちバイトには優しいよ。仕事だから社員に厳しく当たる時もあるけど」

「と言うより、太一さんが嫉妬の目で見られている感じがしないか?」

 太田が北沼に言った。

「そうそう。あの歳で主任だからな。同年代や先輩社員たちはまだ平社員なのに」

「へえ、優秀なんだ」

 鈴がカシスオレンジのカクテルを口に含む。

「縁故だよ。和真社長と正勝専務の」

「へえ、親戚か何か?」

「いや、太一さんは大学生時代に正勝専務の経営するペンションで住み込みのアルバイトをしていたんだ」

「その話は聞いたわ」

「その頃に和真社長夫妻も良く遊びに行っていて、太一さんは社長に気に入られて榊原観光に就職したらしい」

「就職してからは、正勝専務が太一さんの出世を後押ししているっていう噂だ」

「へえ、だったら妬まれるわね。大人は色々大変なのね」

 裕美は、自分も数年後にはそんなサラリーマン社会の中に身を置くのか、それとも橘運輸の社長夫人になって、母のように昼も夜もなく身を粉にして働くのだろうかと、自分の将来の選択肢を想像してみた。

「社長夫妻は仲が良さそうね」

 鈴の憧れがこもった言葉に男たちが目を合わせて笑いを零す。

「実は仮面夫婦だったりして」

 裕美が思いつくままを口にする。

「両者とも各々御盛んだよ。あくまでも噂だけど」

 北沼が少し勿体ぶった言い方をする。

「どんな、どんな?」

 鈴が身を乗り出す。

「社長は新地のホステスをどこかに囲っているらしい。大胆にも、彼女がこのホテルに遊びに来たことがあるんだ。勿論、その時は女友だちと数人連れだったけど、社長も無理やり仕事を作って泊りに来たって感じだった。ああ、うちの本社は大阪にあるので社長夫妻も大阪住まい。社長はここへ月に1~2度顔を出すんだ」

「新地の彼女は若い女性だったな、しかもすごく可愛かった」

 太田が女の容姿を思い浮かべている。

「やっぱり、男は若い女が好きなのね」

 鈴が知ったかぶりの口を効く。

「和真社長はお幾つ?」

「確か40歳。奥さんはまだ30だよ」

「三十路か。思ったより歳食ってるわね」

 裕美が彼女への嫌悪感を顔に浮かべた。

「奥さんも綺麗な人だからな」

「あら、あんなオバサンが良いの?」

 裕美の威圧に男たちは頭を横に振って、

「さすがに三十路はねえ」

小さく首を振りながら、

「でも、奥さんは若い男が好きらしいよ。特に筋肉質な男が」

 北沼がニヤリと笑った。

「奥さんも浮気しているの?」

「ホストみたいなイケメン二人を連れて、このホテルにも遊びに来たよ。どうやら榊原観光の他のホテルでも目撃されているらしい」

「そんなことしたらバレバレじゃない」

 鈴が不思議そうな表情を浮かべる。

「ホテル代の節約じゃないのか?ホスト遊びも金が掛かるだろうしな」

「バカね、和真さんに対する当てつけに決まってるでしょう」

 涼子は夫の浮気を知っていて、その仕返しに若い男を連れ込んでいるように思えるし、裕美にもそんな感情は理解出来る。

「女は怖いね」

 男たちが顔を見合わせて身震いして見せた。

「男がバカなのよ、浮気がばれないと思っている」

 裕美の醒めた口調に場の空気がやや重くなる。

「もう、大人の世界の話は止めにして、もっと健全なお話ししましょうよ」

 鈴が雰囲気を変えた。だが、その後の彼らの話も結局は恋愛話に陥って、大人も子供も関係ない男と女の小汚い世界の話に終始した。

 裕美は、真暗な海を窓越しに眺めながら彼らの下らない会話に相槌を打っていた。


〇人間関係


榊原観光創業者  元長野ペンションオーナー    学生時代長野ペンションでバイト

榊原高雄      瀬戸内正勝(45歳)取締役   角川太一 主任

 |         |兄弟            正勝の紹介で榊原観光に入社

榊原涼子(30歳)― 榊原和真(40歳)専務取締役 

       夫婦(婿入)


時系列整理

・13時10分 純樹が自転車でホテルを出発

・13時30分 純樹が小里浜到着

・13時55分 純樹に正勝から電話あり。夫婦松の崖に来てくれ

・14時00分頃 純樹が夫婦松の崖に到着

・14時10分 正勝が現れないので純樹が正勝に電話するが応答なし 

・14時30分 正勝から太一に電話連絡。明日の開会式には出ない

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