南紀の浜
ビーチボール大会主催者の豪華なホテルで裕美に紹介される人々は、純樹の過去を取り巻く人々だ。複雑な人間関係が事件の香りを漂わせている。
真夏の厳しい陽射しが、濃紺色のうねり模様を形作っている南紀の海をキラキラと輝かせている。白い泡波が幾重にも重なって尖った岩場にぶつかっては消えてゆく。
波たちにも岩たちにも毛頭そんな気はないのだろうが、何百年、何千年という時間をかけて岩の形を変えてきた。そしてこれからも永遠に波は岩にぶつかり続けるだろう。
そんなことを考えながら、裕美は後部座席で海岸の風景を眺めている。裕美の白い軽四自動車に乗って四人は南紀の海岸通りを走っている。運転は達彦が行い、そしてなぜか助手席には鈴が座っていた。
裕美の隣には純樹がいるが、彼は狭い車内で窮屈そうに身を屈めて窓の外を眺めている。鈴も精一杯シートを前に移動しているので窮屈そうだが、車内で一番楽しそうにしゃべっている。
京都を今朝早くに出て高速道路を走ってきた。近畿自動車道からは余り海の風景は見えず、一般道に下りてから漸く海の香りを感じる光景が広がってきた。
先日、あるホテルを経営している榊原観光と言う企業から純樹たちのバレー部へビーチバレー大会の招待状が届いた。その企業が所有する、和歌山県にあるリゾートホテルで大学生と社会人によるビーチバレー大会を開催するようだ。
今年が初めての試みで、評判が良ければ今後も続けてゆくと言う。リゾートホテルと周囲の旅館たちが共同でイベントを行い、地域起こしの名物イベントにする目論見だろう。
榊原観光が経営する長野県にあるペンションに、純樹が高校時代に宿泊したことがある。その頃から純樹は背も高くインターハイでも活躍していたから、自然とペンションの従業員たちの記憶に残っていたようだ。
そんな縁もあって、純樹の大学にも招待状が届き、ぜひ純樹に参加して欲しいとの依頼が記載されていた。実は大学に連絡が入る前に純樹にも事前に申し出があり、彼は承諾していた。
ビーチバレーは二人制だから純樹は達彦を選んだ。参加するからには優勝を目指さないと面白くないし大学の名誉にも関わる。
その情報を耳にしたマネージャの鈴が当然のように付いてゆくと言い、招待枠が四人と言うことで裕美にも誘いの声が掛かった。
鈴にとっては、チームの先輩マネージャと参加するよりも裕美の方が気楽であるし、夏休み中の非公式な行事だから先輩たちも帰省していて互いに都合が良かった。裕美も迷うことなく了承して、帰省の予定を変更した。
「きっとあのホテルですよ」
鈴が小高い丘の間から覗いて見える白い建物を指差した。付近にはこの白い建物以外に目立つ建造物はなく、ほとんどが山林の緑と岩肌のローズグレーに覆われている。
国道から脇道に入り、ホテルの看板で道を確認しながら更に数分間走り続けると、四人を乗せた白い軽自動車はホテルの駐車場に滑り込んだ。
広大な駐車場はホテルの基底よりも一段低い所にある。玄関前に車寄せがありそこまで進入することも出来るが、少しでも早く車を降りたいのか達彦は駐車場で車を止めた。
「わあ、とっても奇麗なホテル!」
鈴が小躍りしながらホテルの高い建屋を見上げる。15階くらいはありそうな大型ホテルだ。最近リニューアルしただけあって外観も庭も十分に手入れされている。八月に入ったばかりの真夏の苛烈な陽射しにも負けずに造園の木々が健康的な輝きを放っていた。
「アー、足がだるい。エコノミー症候群だ」
車外に出た達彦が背伸びをして、足を摩りながらぼやいている。
「デカいって不便ね」
裕美が笑った。
「便利な時もありますよ、高い所にある物を取ってもらう時なんかとても」
鈴が裕美に向かって笑い掛ける。
「それは便利ね。重い物を持ってくれるのも便利だと思うわ」
裕美の言葉に男たちは女子たちのキャリーバックを肩に担いで歩き始める。
「キャリーバックなのに……。やっぱり力強いですね」
鈴が感心している。
「頭が弱いのよ」
裕美が鈴の耳元で囁いて笑った。
「聞こえてるぞ。それよか、何で俺たちより荷物が多いんだ?試合に出るのは俺たちだぞ」
達彦が呆れている。
「ビーチバレーの試合なんて海パン一枚で済むじゃないですか。女の試合は物入りなんです」
鈴と裕美が見つめ合って笑う。
「何の試合をするつもりだ?」
男たちは不思議顔で駐車場からエントランスに向かう階段を上ってゆく。階段を上がると一面に芝が植えられていて、エントランスホールまで続く歩道はコーヒーブラウン色の落ち着いた舗装がされている。
四人が歩道に従ってエントランスホールに近づくと、係の男性が二人現れて愛想良く挨拶をして、純樹と達彦が肩から下したキャリーバックを一瞬不思議そうに見つめてから引き受けた。
四人がチェックインを終えた頃、バックオフィスからひとりの若い男性が現れて、
「やあ、純樹君。お久しぶりです。遠い所良く来てくださいました、ありがとうございます」
と深々と頭を下げた。明るいブルーの制服が爽やかだ。
「いえいえ、こちらこそ大勢で押し掛けて申し訳ありません」
「何を仰いますか、美しい女性は大歓迎です。大会が華やぐしホテルの魅力をいっぱい拡散して頂けますから」
男性は改めて姿勢を正して、
「このホテルで主任をしています角川太一と申します」
と自己紹介をした。
「こちらが、昔、長野のペンションに勤めていらっしゃった方ですか?」
裕美が純樹に尋ねる。
「はい、そうです。彼が高校生の時でした」
太一が純樹の答える前に回答した。その後、裕美たちが順次自己紹介をして、太一はいちいち丁寧に頭を下げた。
「私が部屋までご案内します。一度休憩されてからロビーに集合してください。施設と試合会場のご案内をします」
太一の後に続いて四人は移動する。裕美は、仕事とは言え紳士らしく爽やかな態度で接してくれる太一に好感を持った。エレベータは10階で止まり、四人の部屋は順に並んでいた。裕美の右隣が鈴、左が純樹。純樹の左隣に達彦の部屋がある。部屋はシングルルームだが、ベッドはセミダブルで室内も広い。コンパクトなテーブルセットがあって椅子も二脚ある。テーブルセットの向こうにはバルコニーがあり、全面窓一杯に海原が広がっている。
「奇麗」
バルコニーに出た裕美は思わず口にした。裕美の実家は高知県なので太平洋は近い存在だが、実家はやや内陸の方にあるため、いつも海を目にしている環境ではなかったから、海を見るとやはり心が解放感に満たされる。
しばらく風景を楽しんだ裕美は、荷物を片付けるとベッドに飛び乗って仰向けに転がる。裕美の心は弾んでいた。今日から約一週間、純樹と一緒に過ごすことが出来る。しかも隣の部屋だ。
今回のイベントを通じて彼のことを色々知りたいと思っている。試合も一生懸命に応援して、少しでも彼の役に立ちたいと思った。
裕美と二人でいる時の純樹は、どこか冷たくつかみどころのない態度も多いが、バレー部のメンバーといる時は、明るく笑い冗談を飛ばして人並みに話をしてくれる。車の中でもそうだった。鈴のことが好きなのかと感じてしまうほど彼女をからかったり、いじめたり、可愛がったりしていた。鈴は誰に対しても可愛い笑顔で接するし、少女っぽい雰囲気で上手に甘える技を持っている。
そんな彼女を裕美は少し羨ましく感じたりする。裕美は好き嫌いがはっきりしていて、嫌いな男に作り笑顔を送るなど、かなりの努力を強いられる。彦のことも、別れた当初は鬱陶しい存在だったが、一定の距離を置いている今は特に嫌いでもなく、むしろ良い友だちで何の気遣いもなく過ごすことができる。
そんなことを考えながら目を閉じているといつの間にか熟睡してしまっていた。30分は眠っていただろう、頭がとてもすっきりとしている。集合時間なのでベッドから起き上がると、ガタンと響いたドアの音に胸がドキリとして、裕美も自然な風に廊下に出た。
案の定純樹の後姿を見つけたが、彼は裕美のことなど気づかない風に歩いてゆく。憎らしいほど歩く速度が速い。一歩の差が大き過ぎる。裕美は小走りでチョコチョコ走りながら長い廊下で純樹に追い付こうとしたが無理だった。
「何してるんですか?」
エレベータのボタンを押した純樹が後ろを振り向いて、少々息を切らしている裕美を不思議そうに見つめる。
「早歩きよ。ダイエットに良いの」
「そうですか。でもダイエットは要らないでしょう」
純樹の言葉に、裕美は見つめられているような気がして、
「そうかしら」
羞恥を誤魔化すようにワンピースからはみ出したふくらはぎを見つめてみた。
「乗らないんですか?」
純樹がエレベータで待っている。
「乗るわよ」
裕美は彼を睨みつけてから口を尖らせて乗り込む。純樹は小首を傾げてドアを閉じた。裕美は、いつもペースを乱されてしまうこの男が不思議でならない。
全員が揃うと、まず1階から案内された。天井が2フロア分の高さがあり、南面の壁はガラス窓に広く占められていて明るい光が差し込んでいる。
広いロビーは白と明るいオーク色を基調にした彩で、革張りのソファーや色々な種類の木製テーブルが不規則に、しかし全体のバランスが取れた形で並んでいる。
南面の中央にエントランスがあり、中央から左側は土産売り場などの店舗エリアになっており、右側にはカフェがある。そのカフェの南面から外に出ることが出来て、オープンカフェになっている。
また、階段で上がる中2階にもカフェがある。今回の大会関係者は、この中2階のカフェで朝食と昼食を取るように説明された。
「すごくおしゃれですね、素敵です!」
鈴はどこを見ても嬉しそうに感嘆の声を上げて、太一に若い笑顔を送っている。最上階の15階にはレストランや割烹、居酒屋やバーなどが数店舗ある。一番広いレストランはホテル直営でパーティ会場にもなる。大会関係者はこのレストランで夕食を取り、大会最後の日には懇親会も計画されているようだ。
そのワンフロア下の14階は、大浴場と娯楽エリアがあり、ゲームコーナーや卓球、ビリヤード、マージャン台もある。
「ビリヤードで勝負ですね」
達彦が純樹に向かって勝負を挑む。
「浴衣には卓球の方が似合うだろう」
純樹がラケットを素振りする振りをした。
再び1階に下りた一行はエントランスから外に出ると、オープンカフェの前の道に従って緩やかな坂を下ってゆく。すると目の前に砂浜が広がってきた。
「広いビーチ!」
鈴がまた大声で喜んでいる。
「ここで大会を行います。明日の午前中は皆さんにも会場設置を手伝って頂きますのでよろしくお願いします」
太一はそう言って軽く頭を下げた。今大会に出場するのは大学生チームが10チーム、社会人が10チームの計20チームで行われる。大学生チームは1日早くホテルに入って、会場設置やその他の準備活動を手伝う代わりに宿泊費は免除される。
裕美も鈴も海岸風景の写真を撮っている。ホテル内を案内されている時にも所構わず撮影していた。
「試合の写真もたくさん撮ってくれよ」
達彦が二人に言った。
「決勝まで行ったら撮ってあげる」
裕美がにこりと笑って達彦と純樹を一緒のフレームに収めた。
一行はビーチから戻り、オープンカフェの横を通り抜けて裏庭に向かって歩を進める。広くて緑の多い庭や白を基調とした清潔感のあるホテルの色彩に、裕美も豊かな気持ちになっている。
と、先頭を歩いている太一が急に足早になってオープンカフェの一隅に歩み寄った。
「お疲れ様です。お早いお着きでしたね」
そう言って、白い木製チェアにふんぞり返って座っている中年カップルに深々と頭を下げた。
「ご苦労様」
男性が軽く返事する。
「社長、こちらが例の本宮純樹君です」
太一が後に続いている裕美たちの方を見ながら、純樹を最初に紹介した。
「懐かしいねえ」
社長と呼ばれた男が立上がって純樹に握手を求めた。
「いつかのペンションで一緒になった榊原和真さんです。今、榊原観光の社長です」
太一が和真社長の肩書や純樹との関係を裕美たちに説明している間に、純樹は和真と握手を交わした。
「相変わらず大きいわね」
座ったままの女性が純樹に微笑み掛ける。
「社長夫人の榊原涼子さんです。純樹君もご存知ですね?あの時も和真社長と一緒でしたから」
太一の紹介を聞きながら、純樹は涼子の方に心持頭を下げた。裕美は純樹の表情が急に暗くなったように感じたが、
「どちらが純樹君の彼女?」
と言う涼子の言葉に気を奪われた。すると、鈴が白々しく達彦の横に並んで見せる。
「あら、あなたが?」
涼子が意外そうな瞳で裕美をじっと見つめた。裕美は、涼子の鋭い視線によって裸まで見透かされているように感じて軽い畏怖を覚えたが、次の瞬間には胃の中から込み上げてくる怒りを感じて、涼子の目尻の皺でも数えるくらいの勢いで激しく見つめ返した。
「みんな部活の仲間です。恋人じゃありませんよ」
達彦が鈴から離れながら笑顔で説明する。
「今はね」
鈴がチラリと裕美を見つめてから意味深に微笑む。涼子は、裕美と鈴を交互に見つめてからアイスティのストローに口を付けた。
社長たちと挨拶を終えた一行は、建物の裏庭に続く歩道を進んだ。表側と同じような風景が続き、裏庭にも一面芝が敷いてあり、建物寄りには屋外プールがカラフルなパラソルに取り囲まれていた。数組の家族連れが楽しそうにはじゃいで水しぶきを上げている。
「私、プールの方が良い。海は塩辛いし波が怖いもの」
鈴がプールを見つめながら言った。
「泳ぐ気なんですか?」
「え?泳がないんですか?」
鈴は純樹を不思議そうに見上げる。
「君たちの仕事は応援だけじゃないですよ。大会運営のお手伝いもしないといけない。泳いでいる暇はないでしょ」
純樹は真面目顔だ。
「時間がある時はいつでも泳いでください」
太一が気を遣ってくれた。
「あの建物は何ですか?」
純樹が指差す方向を見ると、裏庭の中央がなだらかに盛り上がっていて、そこに箱型の白い建物が建っている。
「屋根の十字架を見ればわかるでしょう?」
裕美が驚いている。
「そう、チャペルですよ」
「ステキ~」
鈴が叫ぶと、裕美と二人で足早にチャペルに近づいて写真を撮り始めた。
「どうして、女は結婚と言うと目の色が変わるんでしょう?」
純樹がひとりごちた。
「一生理解できないと思いますよ」
太一も苦笑いを浮かべている。男たちはチャペルには近づかず、建物沿いに進んでパターゴルフ場に向かっていると裕美たちも戻ってきた。
「明日なら教会の見学会があるので開いていますよ。もし良かったら中に入って見てください」
太一が女子たちに言った。
「勝手に入っても良いんですか?」
「フロントに申し出てくだされば結構です」
パターゴルフ場の端に自転車の駐輪場があって、スポーツ自転車が数十台並んでいる。どれもカラフルで、ロードバイクやクロスバイク、マウンテンバイクなど様々なタイプのバイクが並んでいる。
「無料でレンタルしていますので、必要な時にはフロントにお申し出ください。海岸沿いに走るのも気持ち良いですよ」
「たくさんありますね、何台くらいあるんですか?」
「全部で20台ありますから、全てが貸し出されてしまうことはまずありません」
「先輩、後ろに乗せてください」
鈴が達彦にせがんでいる。
「自分で乗れ」
達彦の冷たい答えに鈴は口を尖らせて、周囲の風景をバシバシと写真に収めていった。
「ご案内は以上です。夕食は午後六時ですから、それまでご自由にお過ごしください。大浴場も開いています」
太一はそう言ってホテルに戻っていった。
「明日、チャペルを見ましょうね」
鈴が裕美を誘った。裕美は、内心どうでも良いと思いながらも軽く頷いてチャペルの方に視線を向けた。と、若いカップルが2台のクロスバイクに乗って裏庭にある小路をゆっくりと進んでくる。
「良いなあ」
鈴が羨ましそうに見つめている。
「こんにちは」
カップルが裕美たちに挨拶をして前を通り過ぎ、駐輪場にバイクを戻していった。
裕美と鈴の二人が風呂上がりの浴衣姿で15階のレストランに入った頃には、大勢の大学生や大会関係者で大そう賑わっていた。夕食はバイキング方式で、ワゴン側の席はほとんど埋まっている。
牛ステーキや新鮮な魚介類の乗ったワゴンには長い行列が出来ている。バレー選手が多いために、女子にとっては視界が悪い。女子も四割ぐらいはいそうだが、みんな大木の間に隠れているようだ。
裕美がそんな光景に思わず笑いを零していると、中央辺りのテーブルで手が上がり既に純樹と達彦がビールジョッキを掲げている。裕美は無意識のうちに純樹が自分の浴衣姿に少なからず驚いてくれるかと期待してしまったが、
「牛ステーキとサザエの壺焼きは確保しておきましたから」
やはり期待したのがバカだった。
「ありがとうございます。でも、アルコール類は個人精算ですからね」
鈴がマネージャらしい口調で注意する。
「お前の部屋番号で付けてあるから心配するな」
達彦が意地悪顔で鈴をからかう。
「そう言う小賢しさは誰にも負けないわね」
と、今度は裕美が達彦をからかう。
「浴衣、とても似合っていますね。お風呂はいかがでしたか?」
突然の声に振りむくと、太一が生ビールを二つ運んできた。
「ありがとうございます。やはり大人の男性は優しいですね。若僧たちは食い気ばっかりで」
「でも、君たちのために頼まれたのですよ。姿を現したらビールを運んでくれって」
太一が暴露する。
「でも、私の部屋番号に付けているんですよ」
鈴が達彦を可愛く睨みつける。
「若い人たちは楽しそうで良いですねえ」
太一の後から中年の男性が現れた。
「紹介させてください」
太一が全員に目配せをしてから、
「榊原観光の専務取締役をしています瀬戸内正勝です。ペンション事業を担当しており、昨夜長野のペンションから参りました」
と、紹介した。純樹と達彦も立上って挨拶したが純樹はどこか余所余所しい。
「どうぞお掛けください」
太一が椅子を持ってきて正勝に勧める。
「ありがとう」
正勝は四十半ばから五十歳くらいのチョイ悪オヤジ風の紳士で、若い頃から培った遊び人の風を漂わせている。裕美には警戒の対象となるタイプの男だ。
「純樹君、お久しぶりですね、相変わらずバレーで活躍されているようで何よりです。ところで、いきなりですが番号を教えてもらえませんか?大会のことで直接話すことも多くなると思うので。ああ、お嬢さんたちとも交換できたら嬉しいですね」
正勝が裕美の方を見て微笑んむ。
「本当は、そっちが目的じゃないですか?」
太一が正勝をからかう。正勝は苦笑を浮かべて軽く頭を掻きながら、
「君は鋭いな」
と大きく笑ってから自分の番号を純樹に告げると、純樹が正勝の携帯に着信させた。
「これ、どうやって見るんだっけ?」
正勝が裕美に助けを求めようとした時、
「貸してください」
鈴が正勝のスマフォを受け取る。
「パスワードは?」
「全部1ですよ」
「え?そんなわかりやすいパスワード、意味がないですよ。奥さんに盗み見されますよ」」
「奥さんはいないよ」
「あら、そうなんですか。オジサン、もてそうなのに意外……。連絡先に登録しておきますね」
「いや、登録は結構。番号を読んでください」
正勝はそう言ってジャケットから取り出した手帳を開いた。
「は?登録しなくていいんですか?」
「私は携帯に何も残さないように心掛けています。古い人間なので携帯ではメールもしません。通話だけです」
「でも、通話の発着信の履歴が残るでしょう」
「発信履歴は残らないように設定しています。着信も定期的に削除します」
「いちいち番号を調べるの、面倒でしょう?」
「いえ。全部覚えていますから」
鈴は珍しい生き物でも見るような目つきで純樹の番号を告げてから、
「奥さんがいないなら私の番号も覚えておいてください。気が向いたら飲みに誘ってくださいね」
と、愛想よく笑った。裕美はそんな鈴の態度に面食らう。
(誰でも良いの?)
確かに正勝はスマートなオジサマだが父親くらいの歳に見える。
と、そこへホテルの女性スタッフが太一に近づいて来て何やら小声で報告した。
「では、私は失礼します」
太一の言葉に全員が軽く会釈して彼を見送る。彼の背中が若者たちの渦に消えた頃、裕美が正勝に問いかける。
「正勝さんがお仕事をされているペンションはどんな所ですか?」
「長野県の山奥です。渓谷があって、夏は釣りや川下り、カヌーなんかも楽しめます。登山やハイキングに来られる方も多いですよ」
「へえ、冬はスキー場もあるんですか?」
今度は達彦が会話に加わる。純樹は刺身をつまみながら静かにビールを飲んでいる。純樹はこの正勝のことをあまり好きではないのだろう。
「はい。冬はスキー場まで送迎します。スノボーとかスキーとかお好きでしたら是非遊びに来てください」
「お安くしてくれますか?」
裕美が愛想良く笑う。
「さすがに女性はしっかりしている。できるだけお安くさせて頂きますよ」
「正勝さん、何かお料理をお持ちしましょうか?」
鈴が尋ねる。
「気が利きますね、ありがとう。でも残念ながら他にも挨拶回りをしないとならないので」
にこりと笑った正勝は立上がり、
「ごゆっくり。食事を楽しんでください」
と、軽く会釈して他のテーブルへ移動していった。
「大人は大変ですね」
言葉の割には全く同情した様子も無く、
「乾杯しましょうよ」
と、鈴は能天気な笑顔でジョッキを掲げた。他の三人もそれに従う。四人は、明日の予定やら大会に参加している大学チームの実力やらを話しながら食事を楽しんだ。
若者たちのアルコールが回ってきたのか、レストラン内は更に活気に満ちて今にも破裂しそうなほどのエネルギーを宿している。裕美は、正勝が来て暗くなった純樹が明るさを取り戻したことに安堵しながら、久しぶりに幸福な食事を楽しむことができた。
なかなか事件が起こりませんね。すみません。