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裏切りの夏  作者: 夢追人
2/12

夕立の雫

勝ち気で負けず嫌いな裕美が偶然出会ったバレー部のエース純樹。背も高く見た目も悪くないが、ちょっと変わっている。高校時代に振られた彼女に未だに手紙を書き続ける古風なストーカーなのか?裕美は何とか自分に振り向かせようとするが、まさか殺人事件に振り向かれる運命が待っていようとは……。


 ようやく梅雨が明けた京都盆地には初夏の厳しい陽射しが降り注ごうとしている。晴天の日曜日。これから気温はどんどん上がってゆく。

 そんな平和な朝、広瀬裕美(ひろせゆうみ)は阪急河原町駅から特急車両に乗り込んだ。日曜日であるためか家族連れやカップルの姿が目立つ。家族連れの姿は微笑ましく目に届いて来るが、幸福そうに戯れている恋人たちの姿を見ると、裕美は辟易して思わず大きな溜息を吐いてしまった。

 今の自分に彼氏がいないと言う事実よりも、三年以上が経過してしまった学生生活の中で起きた恋愛の思い出や、そこから派生する喜怒哀楽の記憶全てが、今目の前で行われている軽薄な行為と同様のものであったのかと思うと、何だか虚無なものに感じられてしまう。

 裕美が三度目の溜息を吐いた頃、発車の合図がホームに鳴り響いて、執拗なくらいに駆け込み乗車禁止のアナウンスが繰返される割にはドアを閉じようともせず、裕美がイラっとした瞬間にようやくドアが閉まろうとした。

 と、その時、階段から転がり落ちるようにして駆け下りて来たひとりの青年が、アナウンスで繰り返し禁止している行為を堂々と遂行して、間一髪のところで車両に飛び込んで来た。

 こんな厚かましい人がいるから事故が起きるのだと思いながら、裕美は何となくその青年の姿を目で追ってみた。

 その青年は赤いナップサックを背中に担いで、はあはあと荒い息を撒き散らしながら裕美の方へ向かってくる。席を探している様子だ。何とはなしに彼の行動を目で追っていると、ふと、彼と視線が合ってしまった。裕美は反射的に窓の外に視線を外す。

「すみません。ここ、良いですか?」

 胸がドキンとして再び彼の目を見上げると、随分涼しい瞳の青年だった。しかも随分と背が高い。

「ええ、どうぞ」

 そっけなく返答して、少し窓際に身体を寄せた裕美は、視線を再び窓の外に向けた。出発後しばらくは地下を走っているために、窓に映った青年のシルエットが自然と窓に映り、彼女は見るともなく彼の半透明なシルエットを眺めていた。

 そして、この青年は大学生なのだろうか、意外と顔は整っているな、などと勝手な観察を楽しんでみた。

 しばらくの間そんな想像をしているうちに、彼が何か話し掛けて来ないかと言った期待感と、時折触れる硬い腕の筋肉の感触で、裕美の血流リズムが不規則に狂い始めた。

 大宮駅を過ぎて電車が地下を抜出ると、ぱっと明るい風景画が車窓いっぱいに広がった。と、隣の青年が急にゴソゴソと動いたかと思うと、雑誌を広げて熱心に読み始めた。何の雑誌なのか裕美からは見えないが別段興味もない。

 しかし、5分と経たないうちに彼は眠り始める。折節、裕美の方へ頭を持たれ掛けたりするが、すぐに気づいて、

「ごめん」

 ひと言呟くや、すぐにまた心地良さそうな眠りに落ちていった。どこにも疲れた様子はなく、はつらつとした躍動感が表情にみなぎり、子供のように純朴な表情で眠っている。

 裕美はふっと笑いを零してから車窓を眺めた。今日は、同じ学生マンションに住み、彼女が通うS大学の後輩でもある星里鈴(ほしざとすず)に頼まれて、男子バレーボールチームの応援にゆくところだ。

 鈴は二回生で、S大学バレー部のマネージャをしている。リーグ戦も終盤を迎え、優勝を狙える位置にいるため、少しでも選手たちを励まそうと、鈴があちらこちらの女子に応援参加の声を掛けていた。

 バレーボールの試合なんて、高校時代に男子チームが他校と練習試合をしているところを眺めたきりだなと、懐かしい記憶を追い掛けてみたりした。なぜその試合を眺めていたのか、どんな男子がいたのか、何も覚えていないし、面白い試合でもなかったように思う。

 そんな記憶の世界に入り込んでいるうちに裕美もウトウトと眠りに落ちてしまい、目が覚めた頃には電車は梅田駅近くまで到達していた。

 車両は次第に減速してアナウンスが梅田到着を報じる。彼女がバッグから手鏡を取り出して髪の形を整えた頃、車両は停止した。

 すると、今しがたまで眠りこけていた青年がさっと立上り、裕美に軽く会釈をしてから赤いナップサックを抱えて、心持ち頭をかがめながら鉄砲弾のようにホームへと飛び出して行った。

 裕美は、涼しい風がスカートの中を吹き抜けていった時のような印象を覚えて、何とはなしに、柔らかくて優しい心持ちに浸されていた。


 裕美は駅前からタクシーに乗って市立体育館に到着した。大阪の地理は良くわからないから地下鉄を使うのは面倒だ。意外に遠くてタクシー代に少し驚いたが仕方がない。

 正面玄関から入って二階席に上がると、星里鈴が一番前列に陣取ってフロアを見下ろしていた。鈴はまだ二回生なのでベンチには入れないようだ。

「ごめんね、遅れちゃって」

「昨夜遅かったんですか?メールも入れられないくらい熱い夜?」

 鈴は意味深な瞳で裕美を覗きながら、幼さの残る愛らしい笑顔で彼女をからかった。

「ハーイ」

 軽く笑った裕美は鈴の横に腰掛けた。会場は5割ぐらい埋まっている。裕美は会場を見渡してから再び鈴の横顔を見つめた。彼女の横顔から先ほどの笑顔は消えて、真剣な表情に固まっている。

「もう、始まっているの?」

 裕美が遠慮気味に尋ねる。

「まだ公式練習が終わったところです。でも、まだうちのエースが来ていないんです」

 鈴が心配そうな声で零す。

「え?」

 鈴の硬い表情の理由が分かった。何の競技でもそうだが、試合でエースがいないことなどあり得ない。

 一階のフロアでは、両チームが円陣を組んで試合前の意識を高めている。裕美は、ふと早川達彦の表情が目に留まった。額から汗を垂らしてなかなか良い表情をしている。

 早川達彦も裕美と同じ三回生で、二人が一回生の時に半年ほどの間恋人としてつき合った経験がある。今となってはもう思い出のひとつであり、彼の姿を見ても友人以外の感情は一切湧いて来ない。

 裕美は、テレビ中継などでも良く見るバレーボールの円陣の中で何を話しているのか興味を持った。一度くらい生で聞いてみたい気がする。いよいよ試合が始まるのか、会場の緊張感が急激に高まってゆき、裕美までもが自然に張り詰めて行った。

 と、その時、入口から人目を避けるような仕草でコソコソと入って来る男が裕美の視界に入った。コソコソしている割には、首をすくめたままコートの真中を走っている。達彦たちと同じユニフォームを着ているのでS大の選手のようだ。

 その選手は、片手を上げて皆に何やら言いながら頭をペコペコさせて円陣に加わった。

「あの人がエース?」

「ええ」

 鈴は安堵している。

「試合に遅れるエースってどうなのよ?」

 と、裕美が鈴に零した瞬間、その選手の純朴そうな表情が彼女の瞳に映り、神様の悪戯のような出来事に彼女はしばらく放心した。

「あの人……」

 裕美は更に言葉を漏らす。ついさっきまで電車の席で横に座っていたあの涼しい青年だ。

「あの人がエースの純樹さんです」

 鈴が明るい声で裕美に笑顔を向けた。

「純樹さん?間にあって良かったわね」

 彼の名前を口にした瞬間、不意に裕美の胸中で興味が膨らんできた。

「はい、これで大丈夫です」

「頼りになるエースなの?」

「かなり……。本宮純樹(もとみやじゅんき)さんは四回生。身長183センチ。体重78キロ。高校時代はインターハイベスト8のエースアタッカー。好きな女子のタイプは、ショートパンツとショートカットが似合う元気なタイプ。でも現在彼女なし」

 鈴が選手情報を流してくれる。

「短いのが好きなのね」

「ほんとは短いスカートが一番好きだそうです」

 ニヤリと笑った鈴はいつも短いスカートを穿いている。

「マネージャはそこまでリサーチするのね」

「選手の健康管理はマネージャの仕事です」

「スカートの長さと健康管理が関係あるわけ?」

 怪訝そうな裕美を置いて鈴は話し続ける。

「ついでに純樹さんは達彦さんと同じ高校ですよ。純樹さんが達彦さんの1年先輩。インターハイも一緒に戦ったそうです」

 裕美は、鈴が自分と達彦の過去を知っているのかと訝ったが、もうどうでも良いことだ。

「さっきね、電車で隣の席に座っていたの」

 裕美が事務的な口調で明かした。

「え!純樹さんとですか!すごい偶然ですね。何か話しました?」

「まさか。全然知らない人だし。第一ずっと寝ていたから……」

「結構カッコ良いでしょう?とてもクールだけど優しい人ですよ」

 鈴が意味深な瞳で裕美を覗きながら明るくはしゃいだ。鈴は時々理解に苦しむ行動をする。賢くはあるが、マイペースで天然的な振る舞いをすることがある。

「良くわからないけど、爽やかな人ね」

 隣の席で感じた彼の雰囲気を思い出しながら、素直な印象を口にした裕美はそっと髪を掻き上げた。

 やがて審判のホイッスルが鳴り響いてゲームが始まる。選手たちの掛け声とシューズが床で鳴る音、そして強烈なアタックでボールが床に叩きつけられる重い音。女子たちの熱い歓声。裕美は、男たちの突然の様変わりに熱い鼓動を覚えたが、鈴は涼しい顔をしてゲームの流れを目で追っている。

 そして裕美の抱いていた純樹と言う男に対する爽やかな印象も一瞬で崩れ去ってしまった。彼はエースらしく大声で指示をしながら必死で白いボールを追っている。顔色は紅潮し、目は吊り上がって狂気的な表情でコートを飛び跳ねる。しきりにトスを求め、見ていて心地良いジャンプ力と滞空時間で強烈なスパイクを床に突き刺している。

 敵のスパイクを完璧にブロックし、或いは床を汗で浸してレシーブする。純樹だけではない、ポイントを決めた時には全員が跳ねて喜び、決められた時には全員が床を叩いて悔しがった。

 応援に来ている女子たちは、次第に口を利くのも忘れ男たちのプレーに魅せられてゆく。裕美も、初めて見る男たちの真剣な戦いに、衝撃に近いほどの感動を覚えている。

 今まで、粗暴という印象だけで何となく忌避してきた体育会系男子の集団が、その荒々しい本能を剥き出しにして全力で戦う姿は、雄雄しくも素朴で、見ている方の心までが熱く沸騰し、彼らの汗まみれの姿が美しくさえあった。そしてその剥き出しの本能に震える女の感性が自分にも潜在していることに裕美は驚いた。

 完全に試合に吞み込まれてしまった裕美と鈴は、純樹や達彦がスパイクを決めると選手たちと一緒になって飛上がって喜んだ。彼らのひとつひとつのプレーに喜び、悔しがる。そして大声を出して声援を送り続けた。裕美も、他人に声援を送る歓びと言うものを生まれて初めて味わった。

 接戦の末、S大学が何とか勝利することが出来た。リーグ戦も終盤となり、S大学は優勝を狙える位置にいる。今日は二試合を戦う予定で、後一試合に勝利すると優勝の可能性がグンと高まる。後は同勝率で並んでいるD大学の結果次第だ。

 選手たちが二階席に上がって来た。各チームがロッカールーム代わりに観客席を使っている。

 達彦はすぐに裕美を見つけて、なぜ彼女がここにいるのかわからず不思議そうな表情を浮かべた。だが、裕美の視線は純樹に送られている。純樹もふと裕美に気づいて驚いた表情に変化した。

「あれ?あなたはさっきの……」

 純樹がそこまで言うと、

「ええ」

 小さく答えてから、ニコリと最高の笑顔を浮べて見せた。と、そこへ、

「久しぶり。どうしてここにいるの?体育会系男子は嫌いじゃなかった?」

 と、達彦が不機嫌そうな口調で割り込んだ。

「何だ、お前の知り合いか?さっき電車で隣に座ったんだ」

 純樹はもう一度裕美に視線を落としてから、見覚えのある赤いナップサックの中を引っ掻き回し始める。

「10分後に外で集合だ」

 純樹は全員に指示をしてから取り出したTシャツに着替え始める。他の選手たちも同様に、長身の身体の汗を拭い始めた。 

 鈴は飲料水などを選手に手渡しながら、男たちの汗臭い中を行き来しているが、裕美はその場を離れながら純樹の筋肉質な裸をチラリと盗み見て、右肩の後ろに見えた傷跡のようなものに奇跡的な偶然の期待感を抱いてみた。

 だが、そんな奇跡などあり得ないと冷静に考え直して、今朝からの思い掛けない偶然や試合の興奮に少々舞上がっている自分を密かに笑った。


 裕美は、大教室に入ってどの席に座ろうかと、周囲を見渡しながらゆっくりと歩んでいった。この講義を受けている友人はいないから、どこにでも気ままに座れる。前期試験が近いためか、大学にいる学生の頭数が増えてきたように感じる。

 後ろの入口から前方へと進んでいく裕美の視界の片隅に、何か違和感のある光景が飛び込んできた。何となく気になって、もう一度ゆっくりと見渡してみたが何の異常も見当たらないいつもの風景だ。

 気のせいかと思い直して再び歩み始めた彼女の脳裏に、なぜか純樹の記憶が閃いたが、周囲をもう一度見渡しても彼がいるはずはない。ふっと小さな溜息を吐いて、こんな所で彼を思い起こす自分を不思議に感じた時、実際に純樹の姿を発見した。

 気づかないはずだ。ヘアスタイルが角刈りになっている。身体の大きさは目立つがイメージが全く変わっていた。

 あの試合の日から数日が経っている。あの日、午後の試合も勝利した。後は今週末に行われるD大学の試合の結果を待つのみだと鈴が言っていた。

 鈴は選手たちと共に行動するので裕美はひとりで京都に戻った。裕美が体育館を去る際に、純樹が裕美に話し掛けてくることはなかった。彼女も特に用件が無かったのでそのまま立去った。

「こんにちは」

 心持ち緊張気味な自分に違和感を覚える。

「ああ、あなたはこの前の……。こんにちは。この前は応援に来てくれてありがとうございました。経営学部でしたか」

「何学部に見えます?」

「そうですねえ、やっぱり外国語学部かな。英語なんかペラペラ話しそうな気がします」

「ペラペラおしゃべりはしますけどね、日本語で」

 笑顔で答えた裕美は純樹の隣に腰を下した。

「どうしてそんなに短く切ったの?」

「暑いでしょ。僕は無精者ですから髪の手入れが面倒で」

 言われてみると、純樹はショートパンツに黄色いTシャツを着てサンダル履きと言った、いかにも無精者の風体をしている。だが不潔ではない。

「講義のノート、真面目に取っていますか?」

 純樹が意味ありげな笑みを浮べて裕美の横顔を覗く。

「当然でしょ」

 裕美は、純樹の意図を察した。

「助かります。何せ無精者だから。小まめにノートを取るなんて、とてもとても……」

「講義に出るのも面倒なんでしょうね?」

「話しのわかる人ですね」

 純樹の笑顔に裕美はほのかな幸せを感じた。他愛もない会話を続けていると、間もなくして講義が始まった。学生の人数も多いため、ざわざわとした落ち着かない空気だ。裕美は熱心に講義に耳を傾けていたが、隣の純樹がイライラしているのが机を通じて伝わってくる。

(なんて気の短い人なのかしら)

 そう思った裕美は純樹の横顔を盗み見た。すると、彼は机の上に顎を乗せてぐったりとだらけている。そうして、裕美を斜めに見上げていた。

 裕美は彼の視線に一瞬虚を突かれたが、動揺を見抜かれぬように視線を講義に戻した。しかし、意識せずにいようとすると余計に身体が硬くなり、耳たぶまでが紅潮してゆく。

「真面目ですね?」

 純樹の問いに初めて振り返って、

「臆病なだけよ」

 と囁いた。

「臆病だと真面目に講義を聞くんですか?面白い人ですね」

「決められたレールから外れるのが恐いのよ」

「へえ。僕はレールに乗っているのが恐いですよ。このままで良いのかって疑問に感じてしまう」

「みんな不安なのね」

 だが裕美の言葉は流されて、

「と、言うことでそろそろ帰ります」

 と、純樹は机の上のペンやらノートを片付けて、教室を出て行くタイミングを計っている。

「携帯の番号書いておきましょうか?」

 裕美がノートの端を千切ろうとした。

「いえ、星里に聞きますから」

 鈴が裕美との関係を純樹に話したのだろう。

「じゃあ、純樹さんの番号は?」

 本当はこちらの方を聞きたかったのではないかと、咄嗟に出てしまった言葉に少々羞恥した。

「星里に聞いてください」

 純樹は軽く笑って腰を浮かした。裕美は、冷たくあしらわれたことに気分を悪くして、

「私も出て行くわ」

 教科書をパタンと閉じた。意外に大きな音がして前列の女子学生が振り向く。

「あなたまで出て行ったらテストの情報を得られないでしょう」

「あら、知らなかったの?先週、テスト情報は公表済みよ」

 彼女はにんまりと笑って、自分のノートを指先で軽く叩いて見せる。

「御一緒にどうぞ。ヒールなんて履いていないでしょうね」

 純樹は苦笑いを浮かべながら彼女の足元を確認するとパンプスの踵が高く尖っている。

「裸足になるわ」

 裕美はそう言ってパンプスを脱ぎ、教授が黒板に文字を書いている隙に二人して教室を脱出した。


「お茶でもいかが?」

 実際のところ、純樹の方から誘ってくれるのを待っていたのだが、彼はひと言も話さずにさっさと歩いて行くので、とうとう裕美の方から声を掛けた。

「折角ですけど、今日は失礼します。帰ってテスト勉強しないといけないので」

「へえ、講義にも出ていない人が勉強をねえ。ところでどうやってテスト勉強をするつもり?」

 裕美の言葉に純樹は肩をすくめて、

「参りました。じゃあ二十分だけ」

 と、少々呆れ顔で返答した。

 二人は校内にあるカフェに入って窓際の席に座った。大学が山の手にあるので、校内の至る所から賀茂川の流れる風景を見下ろすことが出来る。

 純樹はブレンドコーヒーを、裕美はオレンジフレッシュジュースをオーダーした。オーダーの後、純樹はなぜか寂しそうな瞳を浮かべて窓の外を見つめている。

 裕美はその意外な陰に驚いて、少し強引過ぎたかと少々反省したが、やはり純樹とゆっくり話してみたかった。色々と彼のことを知りたいと言う欲望は抑えられない。

「怒っている?」

 さっきから黙り込んでいる純樹に優しく尋ねた。

「怒る理由はないですよ」

 彼の瞳から陰が消えた。

「どうして何も話してくれないの?」

「共通の話題がありませんから」

 彼の言葉に裕美は軽い幻滅を感じながらも、

「もう、泳ぎに行った?」

 と、明るく話題を提供してみた。

「まだですよ。泳ぎたいとは思いますけどね、こう暑いと」

「連れていってくれる?」

 裕美は最も自信のある甘い笑顔を浮べて、純樹の瞳を斜めに覗き込んでみる。大抵の男は、この仕草をすると何らかの妥協をしてくれるのが常だった。

「あなたを?僕が?」

 純樹は人差し指で自分の鼻を指差しながら、ぽかんと裕美の目を見つめている。

「だめ?」

 裕美は、更に甘えた声色を使って寂しそうな表情を浮かべてみた。

「まだ出会ったばかりだし……」

「街でナンパなんて出来ないタイプなのね?」

「経験ないですね」

「まあ、ナンパなんかしなくてもバレー選手はもてるでしょうからね」

 裕美はからかい気味に純樹の瞳を覗いた。

「それは誰の学説ですか?」

「私の経験値」

 純樹はコーヒーをひと口すすってから、

「それに、僕は車を持っていませんから」

 と言ってカップを置いた。

「変なことに気を遣うのね?」

 彼女も笑みを浮かべながらストローを口にする。

「だって、女の子は赤い車が好きなんでしょ?」

 存外真面目顔で言っている彼の言葉に、裕美は噴出しそうになった。

「私は赤い車は嫌いなの。白の軽四に乗っているわ」

「学生の身分で車を持ってることがすごいですよ。お金持ちのお嬢さんですか?」

「実家は田舎だからひとりに一台は常識よ」

 的外れの答えにも拘わらず、純樹は納得したように大きく頷いて窓の外に視線を向けた。本当は彼女がいるのではないかと、純樹の煮え切れない態度の理由を探るように、裕美は彼の視線を追ってみる。青葉に夏陽が照りつけて、白いコンクリートの肌に黒い影がくっきりと浮いていた。

「でも、折角ですけど……」

 青葉を見つめたままの純樹の言葉に裕美のストローを回す手が止まる。

「やっぱり僕は遠慮します。他の誰かを誘ってください。あなたみたいな綺麗な女性と二人きりで泳ぎにいくなんて、考えただけで緊張します」

 純樹の冷たい言葉に胸を突かれたまま、裕美はグラスの氷から視線を外せないでいる。今まで出会った男たちのような反応を示さない彼が腹立たしくさえ感じる。彼はゆっくりと立上ると、

「じゃあ、また。今日は時間が無いので失礼しますね」

 優しい語気を漂わせたまま、しかし、氷から視線を外せないでいる裕美を置き去りにして、夏の微風みたいに出て行った。

「ノート…」

 はっとして裕美が立上ったが、背を向けたままの純樹が片手を振って拒否する姿に、彼の心にいる女の影のようなものを感じ取った。やはり彼女がいるのか、それとも急に距離を詰め過ぎたのか……。初めて男に冷たく拒絶された裕美は、悲しさと屈辱めいたものを同時に感じていた。


 純樹に冷たい態度を示された翌日、裕美は携帯の画面を見ながら閑静な住宅街を歩いていた。今日の講義が全て終わり、大学からの帰りに徒歩でやってきた。

 夏の斜陽を浴びながら上賀茂神社から御園橋を渡り、そのまま直進して大宮通を少し越えた辺りを上がる。鈴に教えられた住所を携帯アプリの地図に表示して、その地図を辿ってゆくと、住宅の並びが途切れた辺りに二階建ての細長いアパートが建っていた。

 周囲には小さな畑もあって長閑な環境だ。建物は簡素だが結構新しい感じがする。階段も通路も建物の外に設けられていて、月極の駐車場も隣接している。鈴の情報では純樹の部屋は二階の奥らしい。

 純樹はまだ部活の練習中だ。だから、部屋の郵便受けにでもノートのコピーを入れてさっさと帰るつもりで来たのだが、ここまで来てなぜか躊躇している。周囲に人影は見えないので、二階にある彼の部屋まで行っても誰にも会わずにすむのだが、階段を上って部屋まで近づく勇気が湧かない。一階には集合の郵便受けも無さそうだ。

 本当は直接に手渡したいのだろうかと、そんな疑いを自身に問いながら腕時計を見た。練習時間から考えても、後、30分もすれば帰ってくるはずだ。

(とにかく彼が帰ってくるのを待って手渡そう)

 そう決心して道端の電柱にもたれ掛かったまま待つことにした。

 折から吹き寄せる怪しげな風にふと空を見上げる。さっきまでの憎らしいまでに暑い晴天が慌ただしく厚い雲に覆われて黒ずんできた。夕立が来そうな空気だが、雨の降り出す前には純樹が帰って来そうな予感がする。

 だが、それは予感ではなくて単なる期待だった。30分が過ぎても純樹は帰ってこない。そんな裕美をあざ笑うかのように西の空が一瞬きらめいたかと思うと、腕組みをしている彼女の左腕にポツリと冷たいものが当たった。

 と、その途端に大粒の雨を感じて瞬く間に強い雨粒が降りつけると、アスファルトの路が見る見る小川に変化する。しかし、裕美は小さな流れの中に足を浸したままじっとしている。

 今しがた、純樹が裕美を見て驚く表情と、コピーを見て目を丸くしている様子を想像していたところなのだ。今更帰る訳にはいかない。さりとて雨宿りするような場所もない。アパートの軒下は他の住人に声を掛けられそうで嫌だ。

 あっという間に髪がべっとりと重くなり、顔の上を雨の滴が流れ落ち始める。メイクの濃い時なら大変なことになっていたなと今日のスッピンに近いメイクに安堵しながらも、白いワンピースが次第に肌に密着してくる不快感を感じた。

 雨は更に強くなり、背中や胸、腹部から下肢に至るまで雨の滴が侵入しては流れ落ちてゆく。ノートのコピーだけはしっかりとバッグに入れて胸に抱き締めている。

(純樹さんは何をしているのかしら。早く帰って来てよ)

 身体が濡れてゆく不快感から逃れたいと感じたのも束の間、下着まで濡れてしまうと、子供の頃に夕立の中で遊んだ開放感を思い出して、この感触に快感を覚えたりもした。

 すぐに止むのが夕立だと思っていたのに、寒気を感じるまでに冷たい雷雨が降り続く。雨だけならまだしも、時折地響きのような音を立てて閃光を放つ雷鳴には不安を覚える。だがここまでくると、裕美も意地になってきた。特段明るい稲光にどきりと身震いした彼女は、

「絶対に動かないんだから……」

 と呟いてバッグを強く抱き締めた。稲光の後から数秒遅れて訪れる雷鳴を予期して思わず肩を竦めた時、案の上、足の裏から頭まで上り詰めるような轟音が届いて来る。そしてその轟音の後のわずかなしじまを、唸るようなエンジン音が響き、裕美の視界に青いスクーターが水飛沫を上げて近づいて来る光景が走り込んできた。

 はっとして思わず路に飛び出す裕美。驚いてスクーターを停車させる純樹。ずぶ濡れの二人が見つめ合う。

「ノートの……」

 純樹に問われる前に答えようとした裕美は、彼の視線を感じた刹那、雷鳴に恐怖して涙しそうな心細さと雨に濡れた惨めな姿を彼に見つめられる悲しさが込み上げてくる。バッグをギュッと胸に抱き締め、今にも壊れてしまいそうな意地の壁に支えられて、裕美は何とか立ち尽くした。

「とにかく中へ入りましょう」

 そう言った純樹はスクーターを駐輪場に置くと彼女を手招きした。裕美は俯いたままで彼の招きに応じたものの、アパートの軒下まで来ると何だか後ろめたい気持ちに覆われて、ここへ来たことを後悔した。

「二階です。付いて来てください」

 純樹が階段を上ってゆく。通路を一番奥まで進むと、純樹がロックを外してドアを開けた。

「どうぞ、かなり散らかっていますけど」

 純樹が恥ずかしそうな声で裕美を誘う。だが、彼女はドアの前に立ち尽くしたまま、

「いえ、良いの。これを渡しにきただけだから……」

 と、声にならないようなか細い声で囁くと、微かに震える手でバッグからノートのコピーを取り出した。

「わざわざ持って来てくれたんですか?雨の中を。どうもありがとう」

 純樹が、彼女の期待どおり驚いた表情で裕美を見つめる。

「いいえ、雨は後から降ってきたの」

「そうですか」

 つまらない会話しか出来ない自分を歯がゆく感じつつ、白いワンピースがびっしょり濡れて白い下着の影が透けていることに気づいて、にわかに羞恥を覚える。

「それじゃ、帰ります」

 裕美がちょこんとお辞儀をして背を向けた瞬間、純樹の余りある力を左肩に感じた。

「何言ってるんですか、雷が鳴っているんですよ。おへそを取られたらどうするんですか」

 純樹の不思議な言葉に戸惑っていると、彼女の身体はよろめくように部屋に引きずり込まれドアが閉まる。狭い土間に二人が突っ立った。接近した二人が身動き出来ないほどの狭さだ。

 裕美は、目の前にそそり立つ純樹の厚い胸に寄り掛かってしまいそうな心細い緊張感に涙しそうになる。

「すごい雨ですね」

 純樹は明るい声を放ちながら靴を脱ぎ、靴下も手際よく脱いでから、そのくせシャツからは滴を垂らしながら畳の上を歩き回り、衣装ケースからジーンズとTシャツ、そして包装された下着を取り出して部屋の真中に放り投げた。

 部屋は土間を上がるとすぐに八畳くらいの和室になっており、その奥に二畳くらいのキッチンとユニットバスがある。彼はガスコンロに火を点けてケトルを置くと、バスタオルを裕美の頭に放り投げた。

「奥にシャワーがあるので使ってください。間仕切りカーテンはありますけど、念のため僕が買い物に行っている間に着替えてください」

(念のためって?意味不明)

「あのジーンズとTシャツはレディース用です。袋に新しい下着が入っていますから使ってください。小さいけどよく伸びるんでしょ?」

 裕美は少し笑って、

「女性の下着まで置いてあるのね、驚いたわ」

 純樹が誰かと暮らしていたのかと言った疑念を表情に浮べてみる。だが、女の表情など読み取る気さえなさそうな純樹は、

「失礼」

 と、土間に突っ立っている裕美のワンピースの裾を手に取るや、ぎりぎりまで捲り上げて両手で滴を絞り落とした。驚いた裕美は、それ以上脚が見えないように両手でしっかりと腿の上を押さえながら彼の行動を見守る。

「どうぞ上がってください」

 純樹はワンピースの白い布地を放して彼女を招く。土間は水浸し状態になっている。

「畳の部屋ですからね、あまり濡らすのは良くない。濡れた物はあの袋にでも入れてください」

(あなたはさっきから滴をばら撒きながら歩き回っているわよ)

 純樹は再び狭い土間で裕美に接近しながら靴を履いて、

「鍵を掛けてくださいね」

 と言い残して外へ出て行った。裕美は言われたとおりにドアの鍵を掛けようとしたが、何となくドアを開けて純樹の姿を確認してみた。と、驚いたことに彼は傘も差さずに大きな背中を丸めて雨の中を小走りに駆けてゆく。

「面白い人」

 裕美は少し首を傾けてからドアを閉めた。そして畳には上がらず、その場でさっとワンピースを床に落とした。手早く下着も外してビニル袋に仕舞い込む。男の部屋でひとり下着を外すスリルめいた感覚に、少し官能的なうごめきが太腿の間を掠めていった。

 バスルームに入って温かい湯を浴びながらも、レディース用のジーンズや下着が置いてあることが気になってしかたなかった。バスタオルで手早く全身を拭いて下着を着ける。そうして彼女が着替えを終えた頃、通路を歩く足音が近づいて来た。

「もう良いですか?」

 純樹が仕掛けていったケトルが音を立てて沸き始める。

「ええ、どうぞ」

 ドアが開くや大きな身体を屈めた彼が玄関を潜る。裕美はガスコンロの火を止めた。

「ちょうど良いサイズじゃないですか」

 手に提げたレジ袋をキッチンの流し台に放り投げると、純樹が裕美の全身に視線を走らせた。

「少しゆったりしてるけど楽でいいわ。今度は私が出ていくから早く着替えて。風邪引くわよ」

「別に中にいても良いですよ」

「そう、でも私が迷惑だから」

「でしょうね」

 通路に出た裕美は夕立の激しい雨景色を眺めて、自分はいったい何をしに来たのだろうかと素朴な疑問を自分に投げ掛けた。だが答えを探すつもりはない。何かを期待する自分がいて、それを否定する自分もいる。こんな時に頭で考えることは無駄だ。

「ラーメン食べませんか?」

 ドアが開くや否や、無邪気な純樹がにこりと笑う。

「食べますよね」

 1秒たりと待てない人なのか、勝手に決めつけると鍋に水を張ってガスコンロの火を点けた。

(ケトルの湯はどうなったのかしら?)

 部屋に入った裕美は、ガスコンロから外されたケトルが湯気を吐いている様子を見て不思議に思う。

「優しいのね?思ったより……」

 裕美は部屋の様子を見ながら畳に腰を下ろす。純樹も狭いキッチンから戻って壁に立て掛けてある炬燵を倒して部屋の真中に置いた。

「僕は優しくなんてないですよ」

 会話の間が空き過ぎている。

「マージャンばかりしているんでしょう」

「炬燵の台が裏返っていたからですか?偶然ですよ」

 にこりと微笑んだ裕美を見もせずに、純樹は座布団を敷いて彼女に勧める。

「やっぱり優しい人だわ」

「座布団ひとつで優しい人になれるんですね。でも僕は、優しいとか言われるのは余り好きじゃないです」

 純樹はそう言い残して再びキッチンへゆく。

「本当の優しさを求められるのが重荷だから?」

 裕美は、一生懸命にラーメンを作っている大きな背中に向かって問い掛けてみた。ふと、一回生の頃に付合っていた達彦の背中が思い浮かんできた。体格が似ているためだろうか。

「案外そうかも知れないですね、今まで気づかなかったけど。あなたは賢い女性ですね」

 背中で話し掛けてくる純樹に達彦の思い出は掻き消される。

「映画かドラマのセリフよ、きっと……」

 聞き流されたかと思っていた言葉を、純樹はじっと考えていたのかと思うと、彼のことが少し可愛く思えてきた。

「はい、具沢山ラーメンの出来上がり」

 純樹が湯気立つ二つのラーメン鉢を両手に持って炬燵に置いた。気のせいか、純樹の瞳に寂しげで孤独な陰が浮かんでいるように見える。

「すごい……量……」

 裕美はその陰をかき消すような明るい口調で驚いて見せる。きっと二玉づつ入っているのだろう、麺が山盛りになっている。

「頂きます」

「どうぞ」

 裕美はほんの少しの麺を箸でつまんで口に運びかけたが、向かいに座っている純樹がフウフウと湯気を吹くものだから、彼女の顔に湯気が襲って来るし麺が落ちる時にスープの跳ねまで飛んでくる。

 呆れた裕美は純樹を盗み見たが、無邪気な表情でいかにも美味しそうに食べている様子に文句も言えず、少し左にずれて攻撃をかわした。

「美味しいわね。でも、こんなにたくさん食べられないかも」

 純樹の斜め前から話し掛けた裕美は、これで彼女の退避行動に気づいてくれるかと期待したが、

「じゃあ、少し貰いますね」

 横にずれているラーメン鉢から麺を大づかみして自分の鉢に移した。全く気付いていないようだ。

「返しませんよ」

 純樹は子供みたいに笑って麺の太い束を口に吸い込んだ。


「お疲れさま!」

 純樹の発声で全員がグラスを掲げた。結局、リーグ戦での優勝はならず二位に終わった。純樹が入部してからは一度だけ優勝経験がある。最後の年は優勝で飾りたかったのだろうなと、やり遂げた満足感で満ち溢れた純樹の横顔を見ながら、裕美は彼の心情を汲み取った。

 今夜はリーグ戦の非公式打上げで、女子も多く参加している。公式な打ち上げは部の関係者全員で行うが、今夜は学生だけの会で参加も任意だ。だが、自分たちだけの自由な会であるからほとんどの部員が参加している。

 河原町にある、バレー部常連のイタリアンバーに五十人ほどが集まり、若い熱気を発して賑やかなパーティーを行なっている。

 裕美は、鈴に誘われて参加することにした。純樹のアパートへ行ってから一週間以上経つが彼からの連絡は一切ない。携帯番号もメルアドも交換したが裕美から連絡することもなかった。

 時折、メールぐらい送ってみようかと言う衝動に駆られることもあるが、今までの経験上、あの日の距離感を体得した男は必ず自分になびいて来ると信じたい思いもある。

 今夜の裕美は、肩まで届くくらいの髪を後ろで束ねて首元をすっきりとさせている。彼女の身体の線はやや細めで、胸の大きさも男の視線が自然に集まるほどの自信はあった。だから、今夜は胸元がルーズなノースリーブのカットソーを着て胸の膨らみを自然にアピールしている。更に、均整のとれた脚を見せるためにかなり大胆なミニスカートを穿いてみた。

 リーグ戦の勝ち点はD大学と同じのため得失点差で惜敗したこともあり、部員の誰もが無念をぶつけるかのように馬鹿騒ぎをしている。店内は一瞬にして大宴会場となり、あちらこちらで笑いの渦が巻き起こった。

 裕美は鈴と並んで座っているが、選手たちが次々にやってきては大人びた裕美の美貌を讃え、セクシーな胸元を眺めてから、可愛い系キャラの鈴を子供扱いしながら酒を注いで去ってゆく。

 裕美の意識は純樹の横で虚しく口を開けている空席に固執している。店内には八人掛けテーブルが一列に並んでいる。純樹の席は裕美のいるテーブルの隣のテーブルにある。

 できるなら純樹の隣に座って酒を飲み、彼の後輩たちの羨望を集めながら会話を楽しみたい。そんなことを考えながら裕美がぼんやりと純樹の様子を眺めていると、鈴がさっと立上がって純樹のそばに近寄る。

「先輩、今夜の私、どうですか?」

 鈴がフリルの付いたミニスカートの裾を持ってヒラヒラさせながら純樹に笑い掛けている。裕美のミニスカートよりも更に短かく、同性の裕美がハラハラする瞬間があるが、鈴からはまだ色気は感じられず、幼さの残る可愛いさは女子高生のようだ。

「先輩、ミニスカートが好きなんでしょう?」

 更に純樹をからかう鈴の無邪気さよりも驚いたのは、純樹が頬を紅くしながら、

「可愛いですね」

 と、真面目に答えていることだ。

「裕美さん、こっちに来てくださいよ!」

 突然、鈴が裕美に向かって叫んだ。自然に純樹や周囲の男子たちが彼女に視線を注ぐと、

「お願いしまーす」

 後輩らしき男子たちが大声で歓迎してくれる。裕美はニコリと笑ってからグラスを持って淑やかに移動した。

「ここへどうぞ」

 鈴が意味深な視線を裕美に送りながら純樹の隣に座らせると、

「裕美さんはご存知でしたよね?」

 白々しく純樹に確認してから、

「お子さまは退散しますね」

 と言って他のテーブルの歓喜に埋もれて行った。

「こんばんは」

 裕美は、純樹や他の選手たちに軽く挨拶をしながら腰を下ろす。

「お久しぶりです」

 純樹も小声で挨拶をしてからビールを彼女のグラスに注いだ。すると後輩たちの掛け声に乗って純樹も裕美もビールを数杯流し込んだ。すると驚いたことに大柄な彼の顔が一気に赤くなり、声が大きくなって来た。普段はクールで無口そうな純樹が、酒が回って実に陽気な馬鹿騒ぎを始めた。

(もう酔ったの?)

 裕美は純樹がさほど酒に強くないことを知った。彼はバレーをやっている時のように、無邪気で純粋な瞳を浮かべて騒いでいる。純樹が時折見せる、どこか寂しげで孤独な瞳は姿を消している。 

「残念でしたね、みんなとても頑張ったのに。私、大学生のバレーボールの試合を見るの初めてだったの。とても面白かった」

 こんな話はこの前会った時にしておくべきだったと思いながら、酔っている純樹にビールを注いでみる。

「お疲れ様でした」

 裕美はもう一度グラスを差し出した。さっきから純樹のことしか見ていない彼女の様子を察して、周囲の後輩たちは二人の空間に入らないように気を遣っている。

「応援ありがとうございました」

 純樹もビールグラスを持って軽く合わせる。薄暗い照明の光線が、汗をかいているビールグラスの複雑な屈折を通って琥珀色の優雅な輝きに変化している。

「バレーをやっている時の純樹さんは別人みたいね。とても素敵だ」

 裕美はこの雰囲気に少し酔っているのか、自分でも驚くほど、心音が素直な言葉になる。

「じゃあ、バレーをやっていない時の僕は素敵じゃない?」

 純樹はにこりと笑って裕美の瞳を見つめる。

「ラーメンを食べている純樹さんも素敵よ」

 彼女も目元に微笑みを浮かべて純樹の瞳をじっと見つめる。

「好きですからね、バレーが……。他には何も能がありません。あっ、ラーメンも好きですよ」

 純樹はそう言って少し寂しい陰を漂わせたが、すぐに元気を取り戻して後輩たちにビールを注いだ。

「ひとつでも得意なものがあるだけ素晴らしいわよ。私なんて能力ゼロよ」

 自嘲気味に裕美は本音を零してみる。

「女子としての魅力があるじゃないですか」

 純樹の言葉に裕美はドキリとしたが、彼は裕美に視線を送ることはなくビールをグイと飲み干すと、

「じゃあ、失礼します」

 再び笑顔を浮かべて席を立ってしまった。そして鈴のいるテーブルに移動した純樹は、戯れに一回生の膝の上に飛び乗って子供っぽく男たちとじゃれ始める。

  裕美は全身を走り抜けた冷水のような衝撃にしばらく呆然としていたが、きっと彼は照れているのだと自分に言い聞かせて、静かにビールを流し込んだ。と、そこへ達彦がやって来て、さっきまで純樹がいた席にどっかりと腰を下した。

「振られたの?本宮さんに……」

 冗談ぽく微笑みながら達彦が囁く。達彦と別れて1年半ほど経つが、この肌感覚的空間には親しみがある。

「どうして純樹さんには彼女ができないのかしら?良い人だと思うけどな……」

 純樹に彼女がいるだろうと言う予測を確かめるために達彦に問い掛けてみる。

「純情なんだよ、あの人は。不器用と言う方が正しいかも」

 スモークサーモンを口に運んだ達彦が小声で答えた。

「あなたは器用なのにね、彼女できたの?」

 達彦をからかいながら裕美もフライドポテトをつまむと、彼がふっと笑いを零して、

「ここだけの話だぞ」

 と前置きをした。裕美も頬を少し引締めて軽く頷いた。

「純樹さんは未だに片思いなんだよ。ずっと思い続けている彼女がいるんだ、高校時代の同級生なんだけど。今もずっと手紙を書き続けている」

 達彦の言葉が裕美の心を冷たい静寂で満たした。片思いの女がいると言う衝撃と片思いだと言う安堵感。未だに手紙を書いていると言う想いの深さに対する憤怒と自分が一番でないと言う嫉妬。電話でもメールでもなく古風な手紙を書くと言う時代錯誤的な違和感。

「純樹さんと静江さんは……。あっ、彼女は静江さんて言うんだ。二人は昔付き合っていた。高校一年生の時から付き合っていたらしい。俺は1年後に入学したけど、その時にはもう校内でも有名なカップルだったよ」

 達彦は水割りを口に運びながら記憶を呼び戻している。

「静江さんか……」

 裕美は達彦の水割りグラスを奪い取ってゆっくりと氷を鳴らした。

「当時の本宮さんは既に全国レベルのプレーヤーだったし、同学年の静江さんもテニスの上手い人でとても奇麗な女性だったから、みんな二人のことを最強のカップルだと憧れていた」

「あなたも憧れていたの?」

「もちろん。とても素敵なカップルだと思っていた」

 裕美は達彦の水割りグラスを口にしてから、

「違うわよ、あなたも静江さん憧れていたの?」

 と、静江と言う女を計ろうとした。

「俺が静江さんを初めて見た時にドキッとしたことを覚えている。とても奇麗な人だし、俺たち後輩にも優しくしてくれて、もう女神の域だったかな」

 達彦は昔を思い出して懐かしそうな瞳で答えている。

「じゃあ、静江さんをオカズにしてたんだ」

 裕美は冗談ぽくからかってから水割りグラスを持って達彦に飲ませようとした。彼は慣れた動作で両肘を着いたまま彼女の手ずから注がれる水割りをひと口流し込んだ。そして、静江に対する清い想い出を嘲笑うかのような裕美の言葉が少し悲しくなった。相変わらずの裕美の負けず嫌いの性癖が身に沁みる。

「当然だよ、高校生だぞ」

 彼は心の中で落胆しながら裕美の挑発に応えてみた。思い返せば、裕美のこう言った性格、いつも自分が上位でなければ気の済まない性格に耐えられなくて別れたことを思い起こした。

「で、その素敵なカップルはどうなったの?」

 裕美は達彦の落胆など全く気付かずに、後輩たちと戯れている純樹を遠目に見ながら問うた。

「高校三年の夏に色々あって……。それが原因で別れたようだけど、それでも先輩は彼女に手紙を書き続けている。未だに一度も返事を貰ったことはないそうだけど」

 達彦は小さな吐息を吐いてから、裕美がテーブルに戻した彼のグラスを手にした。

「三年の夏に何があったの?」

「これ以上は俺の口からは言えない。本人から聞いてくれ」

 達彦は溜息混じりにそう言ってからグラスに唇を付けた。

「無理やりセックスでもしようとしたんじゃない?」

 小声で囁いて達彦に鎌をかけてみたが、彼は裕美の言葉を全く無視している。

「今夜静江さんを思い出してやろうとしてるの?」

 裕美が再度達彦をからかった。

「君は純樹さんを何度オカズにしたの?」

 乾いた笑顔の達彦がさっと立上がって別のテーブルへ去っていった。裕美は彼の抵抗にふっと笑いを零したが、それは自分の嫌な性格を表してしまったことに対する自己嫌悪の嘲笑だった。

「キャア!」

 突然、鈴の叫びが店内に響いたかと思うと、彼女がミニスカートを押さえて選手の誰かを叱っている。きっと男子がふざけてスカート捲りでもしたのだろう。

 裕美は小学生の頃から一度もスカート捲りをされたことがないことに初めて気づいて、鈴が可愛い膨れっ面で犯人の頭を小突いている姿を冷めた目で見つめていた。

星里鈴はこの作品の後、スピンアウトします。

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