序章
薄紫色の月明かりが昼間の太陽とは違った光色で静かな渓谷の風景を照らし出している。近頃降った大雨のために川の流量が増え、いつもより幾分か流れが速くなっている。
渓谷の間を縫って流れるこの川は、急流と言うほどの速さでもなく、渓谷川のイメージには似合わない穏やかな流れで美しい景色の一端を担っている。
昼間は太陽の強い光に照らされるため、エメラルドグリーンの美しい輝きを反射させている。多くの観光客が遊覧船に乗って、この深緑とエメラルドグリーンが織りなす静かな風景を愛でていた。だが、さすがに夜になると人の気配は全くない。
川幅は広く、30~40メートルほどありそうだ。川の流れが岩に砕ける音と、船外機を付けた一隻のボートが放つわずかなエンジン音だけが満天の星空に響いている。
そのボートは8人乗りの小型ボートで、屋根も付いていない釣り舟のような簡素なものだ。
そのボートの先頭には五十代の男性がひとりで座り、その後ろに若いカップル、三列目に更に若い十代のカップル、そして最後尾に中年男性が船外機の舵を握っている。
「きれいな星空ね」
二十代の女性が空を見上げながら感嘆の声を上げた。だが、その声に続く言葉はなく、誰も声を発せずに夜のクルージングを静かに楽しんでいる。
「お月様がすごく明るい」
しばらくして、十代の女子が澄んだ声を響かせた。星の輝きは、月の明かりで薄れているようにも思える。時折、厚い雲が流れて来ては月を隠して辺りを急に暗くするが、暗くなった分だけ星が輝きを増す。
そんなことを何度か繰り返した頃、川面からいくつかの岩が突き出ている流域に入ってきた。川の流れもやや速くなっている。船外機の舵を握ってボートを操船している男がスロットルを開くと、エンジン音がやや大きくなった。
それまでは、川の流れに任せながら時折エンジンを強めてボートをコントロールしていたが、今は積極的にエンジンを回してスクリューの推進力で進み、川の流れにさらわれないように力強く進んでゆく。
やがて、堰をつくるように岩が並んでいる光景が見えてきた。堰とは言っても、並んでいる岩の間は十分に広い。誰もボートの航路が乱れる心配などしていない。
ボートは川の中心辺りにある一番幅の広い岩間を目指して進んでゆく。岩が多いためか、この流域の川面は乱れていた。船首から放たれている投光器の光線が川面の乱れを映し出している。
「少し揺れますよ」
操船者の中年男がみんなに声を掛けた。と、その瞬間、突然船首がふわりと浮いたかと思うと、その事象に驚いたかのようなエンジン音が大きく唸り、まるでその場から逃げ出すかのように渾身の力を込めてボートは水を蹴った。
だが次の瞬間、ボートは月が雲隠れしている星空に向かって投光器の光を浴びせかけ、まるでバイクがウイリーをしているような姿勢で、或いは、驚いた競走馬が大きく前足を浮かしているような姿勢で、あたかも星空に向かって飛び跳ねる鯉のように川面から飛び出した。
しかし、同時に大きな力で船尾を引っ張られたために、ボートはグルリととんぼ返りを打つように宙を半回転した後、背面から川面に叩きつけられ、仰向けに転覆してしまった。