異世界旅行次第
目を覚ますと……なんて淡い希望を結局捨てきれなかったのだが、結局見知らぬ部屋で目を覚ました。
いや、昨日ここで目覚めているし自ら寝たのだからここはもう見知った場所なのかもと取り止めもないことを半覚醒の中で考えてしまう。
……まあ現実逃避なんだろうが。
隣では眠るアリスが憎らしいほど気持ち良さそうにしている。十七歳だと言っていたが丸みの抜けきらない輪郭でどうにも年齢よりも幼く見えてしまう。
そして彼女の腕の先、拳が綺麗に俺の頬に当たっている。どうやら寝返りをうった拍子に運悪く当たってしまったらしく、そのお蔭で目が覚めたようだ。小振りな拳は意外と痛いということを覚えておこう。
エンドテーブルに手を伸ばして携帯電話で確認してみると時刻は五時半を過ぎたところだった。
念のためラインを開放してみたが電波はやはりなく異世界なのだと再認識しただけだったので再びラインを閉じる。
バッテリーの充電状態は昨日寝る前に充電したお蔭もあって八十パーセント強あるのだがこれからはカメラやメディアプレイヤーとしてしか使い道はなさそうだ。
貴重な元居た世界の文明の利器だ、故障してないだけ儲けものと思うことにする。
昨日はやはり床についた後もなかなか寝付けなかったようだったので、敢えて起こす必要もないだろうとそっと起き出しカーテンを少し開いて外を窺ってみるともう随分と明るい。
特に暖房もない室内は少し寒くもあるが気になるほどでもなし、もし日本と同じ四季があるなら春も中盤かもしかしたら終盤といったところだろう。
この明るさならとバッグを漁りソーラー式の充電器を取り出しモバイルバッテリーに繋いで窓辺に立て掛けてみるとなんとか充電はできているらしかった。
もう一度バッグを漁り水筒と小さな鍋とキャンプ用のコンロ、それに小さなポーチを取り出し居間の方に移動する。
魔法で火を起こせるようなのだが使い方がわからない。水も魔法で作れるとかアリスが言っていたがこちらも春彦にはさっぱりなので、山を降りるときに汲んでおいた水をキャンプ用のコンロで沸かす。
沸いたところで火を止めティーバッグを放り込み蓋をして蒸らす。その間にカップを拝借してきてテーブルに着き直して蓋を開けると良い具合に色が出ていた。
取り出したバッグを逆さにした蓋に乗せカップに注いで啜りながら昨日話したことを思い出す。
今日はこのあともう二人の巫女がここに来る。彼女等と合流して傍の泉に船を出し、太陽の神殿とやらに行ってこの世界の主神でもあるエレナに謁見することになっている……らしい。
アリスの話だと太陽の泉は太陽の神殿に繋がっているらしいのだが俺が落ちて来るときには何も見えなかったような気がする。
その後は近くにあるエーナテーペという町にある聖堂でアリスらの今までの上司でもあり、エレナを信仰する天神教団のトップでもある教主アデルに謁見(一応これからは俺が上司になるらしい)して本日の予定は終了。
今日の空いた時間、若しくは明日エーナテーペの鍛冶師を訪ね礼装と旅装を手配し、それができしだいこの国の首都ドールゴーンで国王に会いそれ以降の旅の段取りをするとのことだ。
これから旅する予定のこの大陸には五つの国があり、エレナやアデルの御墨付きだけではそれらの国境を越えることが難しいらしい。確実に国境を越えるためにこの大陸を現在治めている護国同盟とかいうのものの御墨付きがいるとかで、その盟主の一人がこの国の王なのだ。
正直面倒臭いことこの上ないが、そもそも百年に一度というレアイベントなのだからこの辺は仕方ないだろうとは思うようにしている。
そんなことを考えていると携帯電話から電子音が鳴り響く。時間は丁度六時、日本にいたときのままアラーム
を生かしていたことをここで思い出す。
こちらに来て先ず助かったのは時間についてだ。
日本と同じ一日は二十四時間で、一時間は六十分。そして一分は六十秒と日本の時計がそのまま使える。暦も聞いている限りでは日本と同じらしい。
曜日の呼び方まで同じときはびっくりしたが、これは一応エレナがなにか細工を施しているらしい。
言葉が通じる時点でおかしいと思うべきだったのだろうが、違和感を持てないほどアリスの言葉が完璧な日本語だったので許して欲しい。
だが当然アリスが日本語を喋っているというわけではない。種を明かせばアリスの口は確かに此方の言葉を発しているらしいが、俺の耳には日本語として入って来ているのだ。
それも注意していなければわからないしもう慣れたのだが、気付いてしまうとやはり暫く気持ちのいいことではなかった。
昨夜のことを思い出して溜め息をついていると隣の部屋から目に涙を溜めたアリスが飛び出してくる。
「ああっ! ……ご無事でなによりです」
「……お前は朝の一言目から縁起の悪いことを……取り敢えずその涎を拭け」
半眼で睨むとアリスは言い訳をしながら真っ赤になり慌てて口の端を拭き取る。
なんでも異音(携帯電話のアラーム音)で目が覚めたら隣で寝ていたはずの春彦がいない。もしや曲者にでも襲われたのかと慌てて探したらしい。
まあアラームを切り忘れていたのはこちらのミスだし、昨夜話して感じたアリスの性格を考えれば相当慌てたのは予想に難しくないので気にしないことにしよう。
謝ると面倒なのでそれをしないくらいは学習している。取り敢えず興味を持った紅茶の残りを詫びがてら押し付けておいた。
冷めて温くなった茶を大事そうに飲むアリスに昨夜から気になっていたことを尋ねてみる。
「もしこの世界を救うことを俺が拒否した場合はどうなるんだ?」
「へ? ……あの――」
「一応言っておくが、お前が気に入らないからとかじゃない。素朴な疑問だ」
カップに口を付けたまま青ざめるアリスに一応フォローを入れておく。
「……そうですね。基本的には何も変わりません」
「何も?」
「はい。私たちは天与の巫女には変わりないのですが、この世界で今まで通り生活を続け、天与様は恐らくご帰還となります」
「つまり元の世界に戻れると?」
「はい――」
なら無理に役目を果たさなくとも良いのかと疑問を口にしようとしたがアリスの続く言葉に眉間に皺が寄る。
「――ただ、どういった形で帰還されるかは私には断言できません」
ちょっとなに言ってるんだ? こいつは。
「エレナ様は元居た世界で亡くなられる運命にある方で、異世界への転移を望まれる方を選んで召喚されています」
「……つまり帰っても死んでる可能性があるのか?」
「はい。帰還はあちらで死者が行く国へということもあります」
言われてみれば向こうでの最後の記憶では原付で転んでそのままガードレールを乗り越え空中に飛び出したんだ。そのまま戻されても結局助からないだろう。
神の力で昨日の朝まで戻してもらえないかと思ったが、考えてみればそれも虫のいい話だ。
「死にたくなければ、こちらで使命を果たして生きろということか……」
「……申し訳ありません」
「いや、お前が謝る必要はないだろう」
「はい……」
アリスを責めるつもりはないが、彼女の性格を思えば世界を代表して責められているようなものだろう。
……どうしたらいいんだろうな?
つい心の中で幼馴染みに問い掛けてしまう。二十代も半ばを過ぎてなお中学生にも間違われるほど幼い見かけによらずあれは本当に困ったときには頼りになるのだ。
尤も、今は異世界にいるのだから頼ろうにも頼りようがないのだが。
ふと溜め息をつきながら視線が移って目にしたものが一瞬理解できなかった。
ラインを閉じているはずの携帯電話の電波強度を示す表示が最大になっている。
目を丸くしていると続いて着信ランプが一瞬またたいた後、電子音とバイブによる振動音が鳴り響く。
視界の隅でアリスがびくついているのが見えるが春彦の目はディスプレイに釘付けになっている。
そこには幼馴染みの名前である「花野弥生」が表示され、音声通話の着信を知らせていたのだ。
2016年 6月 7日 キャラクター名の変更