辛辣の辣 6
いつの間にか眠ってしまったようで、気がつけば朝になっていました。空は青く、からからに乾いた天気でした。森はすっかり焼けてしまい、辺り一面、木が倒れるだけの荒れた土地になっていました。焼け跡が燻って、まだ周囲の熱気は森全体を覆っているようでした。
どうやら自分は池のほとりにいるようでした。池は大火事の影響を受けたのか、黒く澱んでいました。
池の向こう側に、高い壁ができていました。よく見ると、それは折れた大樹のようでした。あんなに大きな木が倒れてきたのだと思うと、ぞっとしました。それほどまでに、森の主は巨大だったのです。
池の精は俯いて水面をぼんやりと眺めていました。何か考えているのか、はたまたただ精気を失っているだけなのか。少し見ただけでは分かりません。これからのことについて考えてみようとしてみたものの、まるで頭が働かず、ただ黒い煙を目で追うだけでした。どっと空腹が襲ってきて、この森に入ってから、まだ何もまともにお腹に入れていない事を思い出しました。
お腹が空いてくると、急にサムとネロの顔が浮かびました。そう言えばあの二人はどうなったのでしょうか。とりあえず、もう少しだけ元気を出さないと。私は起き上がり、池の精に向かって歩いていきました。彼女は私が声をかけるまでもなく、私に気付いたようでした。
「よく眠れた?」
「うん。……まぁ」
彼女の声に覇気がないことが気になりましたが、あえて触れない方がいいような気がしました。代わりに、別のことを聞くことにしました。
「サムとネロは……森の主に魂を抜かれた人たちは、大丈夫かな」
「うん。たぶんだけど。あなたが眠っている間に、たくさんの魂が空を飛んで行くのを見たわ。大方は同じ方向に飛んでいったから、きっと元の身体に帰っていこうとしていたんだと思う」
「そっか。良かった」
私はほっと胸をなで下ろしました。
「キャンディ8、ありがとうね」
「えっ」
急に言われたので、思わず聞き返してしまいました。
「森を救ってくれたこと。あの森の主の呪縛を、あなたは解いてくれた。私はずっと、この池を通して土の悲鳴を聞いていたの。養分という養分を吸い尽くし、干からびていく森の大地のね。だから助けてあげたかった。この大地を。あの木の作り出した植物たちの手から」
彼女は目を瞑りました。息が切れてしまったようで、静かに呼吸を整えているようにも見えました。たまりかねて、私はとうとう聞いてしまいました。
「具合、どこか悪いの?」
「辺りの木が倒れたせいで、流れがせき止められた。木の灰も降って、水が完全に濁ってしまったから。でも、少しの辛抱よ。あの木をどうにかしさえすれば、また水はきれいになる。ちょっとくらいのダメージは、覚悟の上だから」
しかし、一秒ごとに、彼女は目に見えて弱っていきました。きっとそれは、私に心配かけまいとする彼女の強がりなのだと思いました。
彼女はゆっくりとその場に腰を下ろしました。私も合わせてしゃがみました。
「あなたがここに来てくれた。誰もいない森に何百年も一人で暮らしてた私にとっては、万に一つとないチャンスだったわ。それだけでも奇跡だったのに、あなたは森の主を倒す鍵まで持ってきてくれた」
「普通は犯罪だけどね」
「人間の法律なんて、ここで通用するとしないわよ」
「そりゃあ、そうだね」
私が肩をすくめると、二人で少し、笑いあいました。
「そろそろあなたも帰った方がいいわ。大切な人が元に戻っているかどうか、確かめにいかなくちゃ」
「そうだね。……そうするよ」
池の精に促されて、私は立ち上がりました。
「でも、本当に大丈夫なの。本当にしんどそう」
「大丈夫よ。あなたはこれからのことを考えていればいいの」
ふぅ、と彼女は大きく息を吐きました。そして、すぅ、と大きく息を吸い込みました。
「あなたは帰ったら、何がしたい?」
「私の?」
「そう。あなたの」
急な質問に戸惑い、少し考えた後に答えを出しました。
「そうだなぁ……サムとネロが無事だって分かったら、そのまま家を出ようかなって思ってる。この森で色んなことがあったけど、何とかなったから。今まで私は、二人についていくだけで、自分で何かをしようとしてこなかっただけだって気付いたんだ。だから、私は旅に出る。……一応、こんな風に思ってるんだけど、変かな」
「変じゃないわ。とっても素敵よ」
彼女はにっこりと微笑んで、頷きました。彼女の後押しがあると、何だか力が湧いてきそうです。
「最後にお礼。両手を出して」
私は言われるがままに手を出しました。彼女は池の方に手を伸ばすと、水のきれいな部分だけが宙に浮いて、水玉になりました。
「私にあげられるのはこれだけしかないけれど、帰るまでの力にしてあげてね」
水玉が手の中にたっぷりと注がれると、こぼれないうちにぐいっと飲み干しました。味は殆ど無くても、体に力が満たされていくようでした。
「私はいつでも、あなたのそばにいるよ」
「池の精霊さん、本当にありがとう。じゃあ、さよなら」
私は振り返り、街の方に向かって歩き始めました。
暫く歩くと、雲も無いのに雨が降り始めました。ぱらぱらと森を濡らすと、すぐに上がりました。私は折角飲んだ水を、涙に変えてしまいながらひたすらに歩き続けました。
ジャワジャワ兄弟の秘密基地で、サムはぼんやりと考えていました。
ここ数日の間、自分が何をしていたのか。森に入ったことだけは何となく覚えているのですが、それより後のことは何も思い出せませんでした。そして、何故あの時森に入ったのかさえも、忘れてしまいました。どれだけ思い出そうとしても、ぽっかりと開いた穴のようにそこには何も無く、雲を掴むような、もどかしい感覚だけが残りました。
弟に聞いてもそれは同じで、何のことだかさっぱり、という様子でした。
「ふぅ」
埒が明かないので煙草を取り出し、一服しようとポケットに手を伸ばしました。
あれ、ライターがない。
「なぁネロ、ライター知らないか」
「ん? 知らないよ」
ぶっきらぼうですが、嘘はつかない子なので、きっと本当なのだろうと思いました。
となると、どこかに置き忘れて来たのでしょうか。まいったな。無くなった数日間の記憶と共に、そんなことまで忘れてしまったのかと、頭をかきむしりました。
「ライター探してるの?」
ふいに別の声が聞こえました。この部屋についさっきまでいなかったはずの、よく知った声。
「つけてあげる」
ぱちっ、と音を立てて、その子はどういうわけか、慣れた手つきで自分の煙草に火をつけると、一回り大きくなったような笑顔で笑いかけてきました。