辛辣の辣 5
森の主は怒り狂っていました。一体あの不届きな人間は何なんだ。魂を返せだと。冗談じゃない。これは全部、俺のものだ。俺が取った魂だ。誰にも渡すものか。こんなに美味いもの、たとえ一口であろうと食わせてやるものか。ましてや、人間になんてもってのほかだ。この森を人間のものになんか、してやるものか。
人間の大好きな味を再現し、それを餌に人間の魂を釣り上げる。最高のサイクルを作り上げたものだ、と森の主はいつも自分に浸るように笑いました。脂っこくて、甘くて、適度にひっかかる喉ごし。こんなもののどこがいいのかはさっぱり分かりませんでしたが、人間は驚くほどこの味につられてしまうようです。いとも簡単にあっさりと餌にかぶりつく様子を見た時には、嬉しくて嬉しくてたまらなかったのを覚えています。ついに、人間を支配したぞ! と。自分に心を許した人間から魂を抜き取るのは、長い年月をかけて培ってきた力をもってすればたやすいことでした。そうして瑞々しい人間の魂を体内に取り込んだとき、その味に震えが止まりませんでした。
森の主の身体は、乾いていました。人間の魂の味を覚えてから、そのうまさと瑞々しさに他の栄養を受け付けなくなってしまったのです。土の中を伝う水分でさえ、今の彼の身体には薄すぎました。根っこの部分から吸収しても、まるで自分の身体になりそうになかったのです。管の中を通り抜けていくだけで、どこにも分配されず、また土の中に戻してしまうのでした。やがて土から水を吸い上げることもやめてしまい、管も閉じかけているのです。それだから、ひたすらに大きい身体のうるおいを保つためには、大量の人間の魂が必要なのでした。もっとも、彼自身は好きで魂を偏食し続けているのだとばかり思っていたので、自分の身体がどんな状態になっているのかなど、これっぽちも考えていませんでした。
怒りが少しずつ収まってきて、森の主はようやくヨモギモチモドキを這わせた先に意識を集中させてみました。逃げた池の精と人間がどうなったのか、探りを入れてみようと思ったのです。目があるわけではないので、遠くのものを見ることは出来ず、ただヨモギモチモドキの周りにどんなものがあるのかが何となく伝わってくるだけですが、普段なら森の様子を探るには十分なほどでした。確か、守りの力の強い池の中に逃げ込まれて、回りを取り囲むところまで追い込んだはずです。とにかく捕まえてやろうと闇雲にヨモギモチモドキを走らせたので、記憶が少し曖昧でした。あまり強大な力を持つ彼にとって、森の些末なことは頭からすぐに抜け落ちてしまうのです。もう一度調べ直そうと、ヨモギモチモドキの先端の感覚を読みとろうとしました。
すると、どうしたことでしょうか。ヨモギモチモドキは池から少しずつ、離れていくではありませんか。完全に囲んだつもりでいたけれど、実はまだ隙間があったのか。そうだとすれば、もう一度広げてみればいいだけです。しかしそうしようとしても、ヨモギモチモドキはまるで言うことを聞きません。それどころか、少しずつ池から後退しているようです。様子が見えないことがもどかしく、立ち上がろうとしましたが、ひざに力が入りません。自分の身体がひどく重たくなったような気がして、動くことが出来なかったのです。人間の魂の食べ過ぎでここまで太ってしまったのかと、軽く舌を打ちました。
本当の理由は別にあることが分かったのは、それからしばらくしてからのことでした。ヨモギモチモドキは後退しているのではなく、どうやら消えて無くなっているようです。始まりはとても小さな一点からでしたが、気づいた時には線になり、輪になって大きく広がっていきました。
--一体何が起こっているんだ!
苛立ちのあまり、森の主は頭をかきむしりました。何かが起こっていることは間違いないけれど、確かめる方法が思いつきません。それならば、と、ありったけの力を振り絞って、ヨモギモチモドキの勢力を広げようとしました。普段であれば、森を一瞬にしてヨモギモチモドキで埋め尽くすことはとても簡単なことでした。ですが、おかしなことに力がまるで入らず、一部をぷっくりと膨れ上がらせるに留まりました。それ以上に、消えていく方が早いのです。一体、何があったのでしょうか?
「あなたがまさかそんないいものを持っていたなんてね。まさに特効薬、最終兵器ね」
池の精霊は興奮したような様子で言いました。あたり一面真っ赤に燃え上がり、すでにヨモギモチモドキの攻め入る隙はどこにもありませんでした。
……ポケットの中に入っていたのは小さなオイルライターでした。タバコを吸おうとした時に使ったものを、何気なくポケットに入れていたのです。私自身、手に取るまですっかりその存在を忘れていたものでした。
「ヨモギモチモドキって、燃えるのかな」
私はふと、思いつきました。
「そういえば、火は試したことがないわね」
池の精霊は首を振りました。
「一瞬だけ、ちらっと見えたんだけどさ、森の主って、まるで枯れているみたいだったんだ。ヨモギモチモドキとは関係がないかもしれないけれど、もし本体と同じようなものだったら」
「このまんじゅうの壁に道が出来るってわけ、ね」
彼女はうん、と頷いて、
「いいじゃない。試してみましょう」
と言いました。
彼女は蓮の葉を岸まで寄せると、私にそのライターをつけるように促しました。
「じゃあ、いくよ」
ちゃっ、という音と共に、小さな火が灯りました。少しの風で消えてしまう、とてもおとなしいはずの炎でした。自分で言ったことでしたが、こんな熱で燃えるのかな、と心配になるほどでした。ライターを、落とさないようにそっとヨモギモチモドキに近づけて、しばらく待ってみました。
最初の数秒は何も起こったようには見えませんでした。それでも十秒続けてみると、急に炎が高く上がりました。
ライターよりは大きくも、まだ静かな火。それでも確実に炎は導火線のように伝わり、奥へ奥へと向かって伸びていきました。そして、進めば進むほど、炎のはしらはじわりじわりと高く成長し、人の背丈を上回り、森の全てを消してしまう巨大な化け物に変わってしまいました。
まるでうなるようにぱちりぱちりと音を上げ、空に煙を巻き上げて、通り過ぎた後には真っ黒になったヨモギモチモドキや木の燃えかすだけが残りました。息をするだけで肺が焼けてしまいそうなほどの熱気が、周囲にはまだ残っています。
正直なところ、放心状態で何も言えませんでした。まさか小さなライターが、これほど大きな火になってしまうなんて。とてもいけないことをしてしまったのかもしれませんが、その実感でさえまだやってきませんでした。
横で、めきめきと音を立てて木が倒れました。枝が重なって折れる音が終わると、ひどく静かになったような気がしました。少し熱も冷めてきたので、少し歩くことにしました。
「あ、見つけた。そこにいたのね」
池の精が私に走って追いつきました。彼女は彼女で周りの様子を探っていたようです。
「焼けたヨモギモチモドキはもう動かないみたいね。もう一度、森の主のところへ行って様子見てこようかと思うんだけど、来る?」
私は少し考えた後、こくり、と頷きました。
「案内したげる」
今回の案内はさすがに彼女も踊るようなステップは踏まずに、一歩一歩を確実に歩いていきました。焼けたあとの森はとても静かで、不気味でした。自分たちを襲うものはもうないはずなのに、物陰からこの世のものとは思えないようなおぞましいものが飛び出してきそうな気配が漂っています。まるで、地獄の底に来てしまったような気がしました。
しばらくすると、大樹が目の前に現れました。夜の闇を食らい、さらに幹が太くなったように見えました。今、彼はどんな表情で自分たちを見下ろしているのでしょうか。枝のてっぺんが見えないことが、たまらなく恐ろしく感じます。
「それにしても不思議ね」
ふと、彼女は呟きます。
「たかだかあんな小さな火で、どうしてここまで燃えるのかしら。普通植物って燃やそうとしてもなかなか燃えないわよ。水分を含んでいるから、くすぶるのがせいぜいじゃないの。それ、本当にただのライター?」
私は彼女に右手の中のものを手渡しました。森の静けさが怖くなって、つい握りしめていたライターです。彼女は二度、三度と着火しましたが、これといって変わったところはありませんでした。小さな火が大人しそうに揺らめくだけです。
「これが特別ってこともなさそうね」
彼女はつまらなさそうに、ライターを私に返しました。
「……うん。サムが煙草を吸うために、最近買ったばかりのやつだから」
ポケットにしまうと、またとぼとぼと歩き始めました。一人できびきびと動く彼女と、その後ろを俯きながら無言で歩く自分。何だかネロの後を追っているときのようで、自分は相変わらず誰かに守られているままだなぁと、情けないような気持ちになりました。
「……あっ」
「どうしたの」
ふと思い浮かぶことがあって、思わず声を上げました。
「ライターのせいじゃないよ、この火は。ヨモギモチモドキ……この森の主は、きっととっても乾いているんだ」
私は靴で砂だらけの地面を擦って見せました。この森に立ち入ったとき、こんな土でどうやって植物が育っていたのか不思議に思っていたことを思い出しました。
(ひょっとしたら、彼らはもう……)
砂になった地面を見つめていると、またぼんやりと悲しい気持ちに囚われてしまいました。彼女に諌められるまで、顔を上げることができませんでした。
さらに進むと、空に大量の火の粉が舞い始めました。木が今、まさに燃えている最中のようです。一歩近づくたびにひどい熱気が襲い、思わず顔を覆いました。皮膚が焼けてしまいそうです。
「ねぇ、早く来て!」
彼女が慌てて言いました。彼女は池の精だからか、この熱気は平気なようです。燃えている先をじっと見つめて、手を振って私を呼びました。何とか彼女の横までたどり着くと、眼前に広がる光景に思わず我を忘れそうになりました。大樹の根本数メートルが、火花の輪を作っているのです。
「何これ!?」
「見たら分かるでしょ。大樹が燃えてるのよ」
中心には熱気だけでなく、強い風も起こっていました。ごうごうと激しい音がして、二人の会話もすぐにかき消されてしまいました。
炎は徐々に上の方まで広がり、森の中に大きな火柱が現れたかのようでした。そして枝の先端まで炎は広がり、巨大な炎の花が咲き乱れました。燃える様は恐ろしくもあり、また美しくもありました。私たちはただただ空を見上げて、美しく燃える森に見とれていました。
「オノレ」
ふいに、地の底からわき上がるような低い声が聞こえました。
警戒して、声のする方を振り返りました。その声が森の主に似ていたからです。そしてその先には、彼と思しき黒く巨大な固まりが燃えていました。
「ワタシノモリヲモヤシタナ」
こちらに向けてまっすぐ指を指し、長い髪を揺らしていました。本体が燃えあがったので、仮の身体も燃えてしまったのだと池の精はこぼしました。
「これ以上続けていても、あなたが辛いだけじゃないか!」
私は叫びました。
「あなたの身体は病に冒されているんです。人間で言うがんのようなものです。あなたの身体を作る細胞は、おかしな形で永遠に増え続けていく。だからあなたの身体はそれほどまでに大きく、今もなお成長を続けている」
ごうっ、と炎が大きく揺れました。皮膚が焼けてしまいそうだと悲鳴を上げていましたが、手のひらでそっと拭って、言葉を続けました。
「だけど、あなたは植物。この場所を動くことができない。この周囲でどんな生き物も死なないということは、土に栄養が蓄えられることがないということ。あなたを生かす養分はすでに枯渇している。だから人間の魂を吸い取っているんだ。砂漠のような土の代わりに!」
「ソレノナニガワルイ!」
自分よりも遙かに大きな咆こうが響くと、上の方からばきばきばき、と木の折れる音がしました。かなり大きな枝のようです。
「この森はとっくに壊れている!」
「危ない」
上から迫り来る太い枝に構うことなく叫び続けていると、池の精に腕を引っ張られ、身体が宙に浮きました。あまりに強い力で引っ張られたので、遠心力で腕がちぎれてしまうかと思いました。さっきまで自分の立っていた場所に重たい棒が落ちて、土埃が舞い上がりました。それがきっかけとなったのか、空から小さな枝やら葉っぱやらが、しきりに落ちてきました。
「コワシタノハニンゲンダ。ヤラレタカラニハ、ヤリカエス」
「やり返す? だからあのまんじゅうを作り出したというのね。あなたはヨモギモチモドキを食べようとした人間と一緒よ!」
「ナニヲ」
火だるまになった森の主の巨体が、襲いかかってきます。ですが、その身体はぼろぼろと崩れ始め、細かい屑へと変わってゆきます。
「サムとネロを返せ!」
その叫びが彼の耳に果たして届いていたのかどうかは分かりません。ただ、叫ばないと心がはち切れそうで、精一杯の怒りを声に乗せてぶつけるしかありませんでした。全身に力を込めて、手を出すわけでもなく、ひたすらに叫び続けていました。
自分の声にかき消されて、私は大樹の幹の折れゆく音がまったく聞こえていませんでした。
「危ないっ」
「えっ」
彼女に手を掴まれ目を開けた瞬間、ようやく何が起こっているのか理解しました。上を見ると、巨大な黒い柱がゆっくりとこちらに傾いていました。まるで空が迫り来るような、圧倒的な力が備わっているようでした。彼女が掴んでくれなければ、私は諦めてしまったことでしょう。彼女は精霊の力を振り絞り、急いで柱の当たらない場所まで飛んでくれました。
倒れた衝撃で再び目を閉じる瞬間、こちらに手を伸ばした森の主の影が、巨大な柱に押し潰される姿が見えたような気がしました。