辛辣の辣 3
森は、灰色の大樹の街とは全く別の景色をたたえていました。ふっと目に飛び込んでくる緑色が、町のものとはまるで違うのです。よく見てみると、それは生えている植物の違いだと分かりました。背の高いものも低いものも、硬く広がった葉っぱがほとんどで、あまり多くの種類があるわけでは無さそうです。同じ植物がこちらに向かって迫ってくるように、鬱蒼と生い茂っていました。
それともう一つ違和感を覚えたのは、土がどうにも木々の生い茂る土地のそれとは思えないほど乾いていることでした。土と言うより、砂場の砂と言ったほうが近いかもしれません。色も真っ白く、よくこんな場所に木が青々と生えていられるなぁ、と思いました。地面が柔らかいせいで、時々足を取られそうになってしまうほどです。
(だけど、今はそんなことを気にしている場合じゃない。私は行くんだ)
そう心に誓うと、草をかきわけて、ひたすら奥へ奥へと進んでいきました。
暫く進むと、日当たりの良い場所が飛び島のように存在していることに気付きました。どうやら、植物の密度は同じではないようです。光の射し込む方を選べば、歩きやすい場所に行けそうです。太陽の光を道しるべにすることで、より簡単に先に進むことが出来そうでした。
飛び島から島へ渡る途中、ぐにゃりとしたものを踏みつけてしまいました。驚いて、思わず足を引きました。靴の裏を確認すると、うっすら緑色の透明の何かがくっついていました。地面に擦って拭き取り、踏んだものの正体を確かめようと、草の葉をめくってみました。
「うわ」
踏んでいたのは、ヨモギモチモドキでした。顔を近づけてみると、潰れて中の餡が地面に擦り付けられた状態になっているのがよく分かりました。ふと、鼻の奥をとてもおいしそうなにおいが突き抜けました。程良い甘さと、それから旨味。二つの味が同時に頭の中に浮かんで、思わずよだれが出そうでした。
姿勢を低くしたままふと横を見ると、ぎょっとしました。どうやら、草葉の陰には、おびただしい数のヨモギモチモドキがびっしりと生えていました。大きさの違いはありますが、そのどれもがまんじゅうのように垂れた円形をしていて、同じように空の方向を向いていました。見た目はただのヨモギモチと対して変わらないのに、地面に張り付いているさまはまるでカビか何かのようでした。
私は背筋がぞわっとして、すぐさま身体を起こしました。ヨモギモチモドキは、森の日陰を利用して、隙あらば己の数を増やす植物のようです。
次の一歩を踏み出すのが、少しだけ怖くなりました。
それでも気持ちを奮い立たせ、更に歩いていくと、急に目の前が開けました。どうやら、広い道が横に広がっているようです。
誰も立ち入らないはずの森にしては広いスペースだな、と思いました。私の歩幅の十倍はあろうかという道が、左右にまっすぐ、延々と続いていました。道の終わりが見えません。そして、どこまで行っても、森は続いているようでした。思っていた以上に、この森は広大なものなのかもしれません。
ですが、足の踏み場もない藪の中を進むよりはいくらか気持ちが楽でした。私は太陽の位置を見、方角を確かめ、森の更に深いところへと続く方へ歩き出しました。
「サム、ネロ」
名前を呼んだところで、私ははっとして、足を止めました。二人の姿が、まるで別のものに変わり果てていたからです。いつものような覇気や、ぎらぎらとした目つきはこれっぽっちもありません。両手をだらりと下に垂らし、足を引きずるように歩いていました。焦点も定まっておらず、心がまるで抜け落ちたかのようでした。私のことにも、どうやら気付いていないようです。
「あぁぁー、うー」
力のない声をずっと漏らし続けて、さまようように歩く二人。私は二人の肩を揺さぶりました。
「ねぇ、どうしちゃったの、二人とも! 亡者みたいな声してさ。私のことがわからないの!?」
「うー、おー」
私の言葉に対する反応さえも見せず、彼らの足は動き続けました。森に入った人間は、亡者になってしまうよ。小さい頃からの言い伝えが、こだまします。こうなってしまっては、もはや止める術などありません。彼らは街に戻り、日陰でうめき声を上げながら、自分が何者なのかさえ分からないまま、生きていくのでしょう。
私は二人から手を離し、通り過ぎていくのをただ見つめるだけでした。きっと、彼らについて行ったところで、出来ることなど何もないのですから。
「ヨモギモチモドキ。全部あいつのせいなんだ」
ジャワジャワ兄弟を、あんな姿にしたのは。私は拳をぎゅっと握りしめると、踵を返して再び歩き出しました。
それにしても、長い道です。太陽が西へと傾き始め、空はあっと言う間に橙色に染まり、周りの木々まで燃えるような乾いた色を見せていました。もう大分歩いたはずなのに、まだ道は終わりません。そうしているうちに、少しずつ喉が渇いてきました。勢いに任せて殆ど何の準備もせずにここまで来てしまったことを少し後悔しました。どこかに水場でもあればいいのですが、下手に迷うとまたこの道に戻って来ることさえ出来ないかもしれません。疲れ果てて、じわじわと何だか惨めな気持ちに襲われました。お腹の虫も、ぐうと鳴りました。
ふと、ヨモギモチモドキのことが頭を過ぎりました。あれを食べれば、今の空腹を和らげることができるかもしれない、と。まさかそんな考えが浮かんだことに自分でも驚きました。亡者になってしまったジャワジャワ兄弟の姿を見て、絶対に食べないと誓ったばかりなのに。ヨモギモチモドキには、人の意思など簡単にねじ曲げてしまうような、得体の知れない力があるのかもしれません。私はとても恐ろしくなって、逃げるように駆けだしました。
こうしている間に、太陽はますます燃えるような色をつけていきました。どれだけ距離を稼いだのかは分かりません。私はとうとう立ち止まってしまいました。その場で膝に手をつき、少し休みました。肩の力を抜くと、心なしか温かい晩ご飯のような、優しいにおいがしていました。口の中が、つばでいっぱいになりました。そろそろ、どこかで休憩したいな。あったかい食べ物と、冷たい飲み物を飲みながら。満腹になって、一休み出来たら最高だな。
美味しそうなにおいは、鬱蒼と生い茂る木々の間から漂ってきていました。身体が自然に、そのにおいの先ーーヨモギモチモドキを、求め始めていました。
「だめだよ」
誰かが私の腕をがしっと掴みました。私ははっと我に返り、振り返りました。
私は驚きました。誰もいないはずの森の中で助けてくれたのは、私と同じくらいの背丈の、白いワンピースを着た女の子だったのです。
「もうちょっと歩いて。その変な草の力が届かない所があるから」
彼女が腕を引いて、私を道の真ん中に戻すと、手を後ろに回して微笑みを浮かべました。
「それ、本当なの?」
彼女はにんまりと笑いました。
「案内してあげる」
そう言って、彼女は前を歩きました。彼女はやけに元気で、小さく走ってはこちらを振り返り、また小さく走っては私の方に手を振りました。私も力の入らない腕で、それに応えました。それにしても、彼女は一体何者なのでしょう。白い大樹の街では立ち入り禁止の森ですが、もしかしたら別の街ではそういう掟のないところもあるのでしょうか。街の外に出たことがないので、はっきりとした事は分かりません。
よく見ると、彼女は靴を履いていませんでした。汚れ一つない真っ白なワンピースを着ているのに、それがどろんこになることを全く気にしていないようでした。
「こっちこっち」
彼女の元気につられてしまうと、一気に疲れがのしかかってきそうだったので、私は私のペースをじっくり守りながら歩きました。彼女はそんな私を無理に急かしたりはしませんでした。私が追いついたら次へ進み、目印になる、そんな感じでした。
「こっち」
彼女は左を指さしました。どうやら、ここから先は草をかき分けて進むようです。彼女は軽い身のこなしで草むらを飛び越えると、また私を待ちました。少しうんざりしましたが、目指すところが分かるだけ、幾分気が楽でした。ヨモギモチモドキを踏まないように、両手両足にしっかり意識を集中させて、前へ前へと進みます。
そして、急に視界が開けたかと思うと、ようやく大きな池にたどり着きました。
「ついたよ! お疲れさまでした」
彼女はぺこりと頭を下げて、私を池の近くに寄らせました。
「ここの水は、飲んでも平気なのかな」
「うん。どうぞ、お好きなだけ」
私はもう喉がカラカラでした。両手で勢いよくすくって、ガバガバと、それこそお腹が膨れるまで、飲み続けました。程良い冷たさが、身体に染み渡っていきます。私は靴を脱いで、足を浸しました。とても心地よい感触でした。
ひとしきり池の水を味わった後、私は彼女に聞いてみました。
「こんなところを知っているなんて、君はこの森に随分詳しいんだね」
「うん。だって私、この森で暮らしているから」
「そうなんだ」
私は驚き、それと同時にどこか腑に落ちるものがありました。
「でも良かった。ずっと待ってたの、森の深いところまで来れる人。もう駄目かと思った。ヨモギモチモドキに全部場所を取られちゃうところだったから」
彼女は手を合わせて喜んでいました。事態が飲み込めず、私は困惑していました。彼女は私の隣に座ると、顔を興味深そうに見つめてきました。
「ねぇ、キミはどうしてこの森に入ったの」
そう彼女は聞きました。今までずっと禁じられてきたことを破った後ろめたさもあり、少し言葉にするのに時間がかかりました。
「……友達を助けたくて」
私は言いました。そして、今までのいきさつを少しずつ、口に出していきました。悪いことばかりをするジャワジャワ兄弟のこと。私は悪いことはしないけれど、彼らとずっと一緒にいたこと。そして、彼らがヨモギモチモドキを食べ、次の日にいなくなってしまったこと。そして道中、亡者と成り果てた二人に出会ったこと。
彼女は真剣な表情で、責めるでもなく、慰めるでもなく、ただひたすらに私の言葉に耳を傾けました。おかげで、言葉がだんだん、次から次へと出てくるようになりました。
「なるほどね」
そう言って、彼女は頷きました。
「サム君とネロ君がいなくなったのは、ヨモギモチモドキ……ってキミが呼んでいるものせいよ。あれはおいしそうなにおいを出して、人間を誘っているの。二人が食べてるとき、どんな感じだった?」
「一心不乱で、私のことなんて見向きもしなかった」
「やっぱりね。心を奪われちゃってるわ」
彼女は腕を組みました。
「よく、おいしいものを食べたり面白いことをしていたりすると、心を奪われるって言うでしょ? それを本当にやっちゃうのよ、ヨモギモチモドキは」
心を奪われる、と私は繰り返しました。
「私の住んでる街では、この森に入ることを禁止されてる。入ったら亡者になるって言われて、街にはそんな亡者がいっぱいいるから、みんな森のことは怖がってるけど、それはやっぱり」
「ヨモギモチモドキを食べてしまうからね。私の知ってる限りでは、この森に入ってあれを食べなかった人間は一人もいないわ。ヨモギモチモドキの誘惑はとても強力なの。それに負けないで、こんなに奥まで来れたのはキミが初めてだよ」
「それなんだけど」
私は彼女のことを見つめました。
「君は何者なんだい。この森で暮らしてるっていうけれど、ここまで来れる人を待ってるって、どういうこと」
んー、と彼女は唇に指を当てました。私に信じてもらうにはどう言えばいいのか、言葉を選んでいるようでした。
「私はこの池の精霊だ、って言ったら信じるかな」
「精霊?」
「そう。三百年、四百年、それくらいうんと古いものには、多かれ少なかれ不思議なチカラが宿るの。自分の本体とは違う姿を取って、歩くこともできる。私の場合、本体はこの池なんだ」
池の真ん中の方で、ぱしゃん、と魚の跳ねる音がしました。
「いつか誰かを頼るときのために、この格好を選んだの。だけど、私の力が届く範囲は限られている。助けを求めたかったけれど、みんな私の所にたどり着くまでにヨモギモチモドキの餌食になってしまうから」
彼女は小さな手で、私の両手をとりました。
「ここまで来れる、あなたのような人をずっと待ってたの。この森の主を倒してってお願いするために」
「ちょ、ちょっと待って」
突然の大きすぎる頼みに、私はどうしていいか分かりませんでした。握られた手をゆっくりと下ろしました。
「この森の中は不思議なことが多すぎる。頭の中が追いつかないよ。君はこの池の主ってこと?」
「そういうことになるね」
「他にもキミみたいな、こういう精霊ってのはいるの」
「あまり数は多くないけれど、いるよ。長いこと存在しているものだったら、何でもね。もしかしたら、人間の造ったものにもそういうのがあるかもしれないね」
本とか、宝石とか。精霊の宿るような古いものを私は想像してみました。
「この森にはもう、私と、この森の主しかいないけどね。みんな、森の主に枯らされちゃったから」
枯らされた、と私は繰り返しました。
「うん。森の主が、あのヨモギモチモドキを作っちゃったせいでね。ちょっと長い話になるけど、聞いてくれる?」
私は頷きました。そして彼女は一呼吸置くと、ゆっくりと語り始めました。
「この森は昔、今とは全然違う植物が生えていたの。日当たりもよくて土も豊かな、普通の森だった。森の主は、この森のちょうど真ん中に生えていてね。その頃はお互いに何も考えず、ただ自分の枝を広げて、仲間を増やせばそれでよかったの。
この森には一つ特徴があってね。不思議なことに、生えている木の殆どが実の成る木だった。たまたまそう言う種類が多かったのかもしれないし、どこか遠くから土の栄養に惹かれてやってきたのもあるのかもしれないし、その由来は分からない。とにかく、鳥とか虫とか、動物とかに食べてもらえるような、おいしい木の実の成る木ばかりが生えていたの。その中で一つだけ全く木の実をつけない木があったの。それが今の森の主ね。
そんなある日、この森に人間が入ってきた。人間にとって、ここは天国のような場所だったんだと思うわ。木の実は人間にも美味しく食べられるものだったから。人間はたくさんの木の実をその場で食べ、いくつもの木の実を持ち帰った。そして、自分の住処で種を植えて、育てようとした。だけど、出来なかった。多分、この森以上に木の実が育つのに適した環境は周りにはなかったんだと思う。だから、人間はこの森の中に畑を作ろうとして、木をたくさん切り倒し、切り開いていった。私が目覚めたのは、大体この時だった。変わっていく森の姿が、面白くもあり、怖くもあった。森の主とも、たくさんおしゃべりした。
人間にとって好みの味の木の実ばかりが、その畑には植えられた。畑はどんどん広がっていって、生き残る種類と、数を減らす種類がはっきりと分かれていったの。木の実をつけない森の主は、その中でも一番早く数を減らした種類の木だった。彼はとても悲しんだわ。だけど、その頃は彼も私も、見たり聞いたりすることは出来ても、自分から何かを働きかけることは出来なかった。
次第に彼は、同じ言葉を繰り返しつぶやくようになった。「何で人間なんかに俺たちの生き死にを決められなきゃいけないんだ」って。彼の心の中に、憎しみと悲しみが育っていった。そしてある日、人間に復讐をしようと言い出した。植物たちを、ただ食べられるだけに育てられる存在にしてしまった人間に。だから、逆に人間を食べてやろうって思ったんだって。その時、彼は、世界に働きかける力に目覚めた。そうして作ったのが、ヨモギモチモドキだった。人間がどういうものを食べるのか、どういう味を好きなのか、研究に研究を重ねて、どんな人間も虜にしちゃうような味を発明して、それを形にした。それからはあっという間だったわ。自分の根っこを使って、森のありとあらゆる場所にヨモギモチモドキの株を植えつけた。ヨモギモチモドキは他の木の根っこに張り付いて、その養分を吸収して生きているんだけれど、その繁殖力は他の植物とは段違いだった。何日もしないうちに、草葉の陰を見ればヨモギモチモドキにびっしり覆われた森に変わってしまったわ。森には今まで感じたことのないような匂いがたちこめた。それにつられて、たくさんの人間が迷い込んだ。人間たちはそれにすぐかぶりついたわ。とってもおいしそうな顔をしてね。そして、森の主は人々の心を奪っていった。そうして奪った心は、森の主自身が食べていったわ。そして、ヨモギモチモドキに寄生された木々は枯れ、それと共生できるのは唯一それを作った自分と同じ種類の木だけ。この森はだんだん、ヨモギモチモドキと森の主の木だけが暮らす森になっていった。気付かなかった? この森の木が、殆ど同じ種類だったってこと」
「確かに、同じような景色ばかりが続くなぁって思ったよ」
私は道中を思い出し、ぞっとしました。この森は、人を惑わせ、ヨモギモチモドキを食べさせようとするための森だったのです。ここは彼の餌場。いや、もう胃袋の中かもしれません。
「でも、私は何をすればいいの。そんな大きなものに立ち向かうなんて、できるのかな」
「戦う必要はないわ。とにかく、森の主のところまで来て。話はそれからよ」
「うん」
森の主。一体どんな人物なのだろう。彼女の話を思い出すと少し恐ろしくなり、心臓がきゅっと硬くなる感じがしました。このままだと動けなくなってしまいそうで、池の水をすくい、ぐいぐいと飲み干しました。