辛辣の辣 2
――立ち入ることの許されない、深い深い森がありました。大昔には名前があったのかもしれませんが、今ではもう忘れ去られ誰も寄り付くことはありませんでした。
森には、奇妙な植物がありました。まるでよもぎ餅のようなぺとぺととしたまあるい姿をしていて、日の当たらないじめじめとしたところで株を増やして生きていました。ただその存在を知っている人は殆どおらず、見た人が見た時に勝手に名前をつけていくそうなので、何とでも呼ばれるものではあるのですが、中でも「ヨモギモチモドキ」と言うのが、一番しっくり来るような気がして、私もそう呼ぶことにしています。
ヨモギモチモドキの森。この森をそんな名前で呼ぶのは、私と、森のことを教えてくれたジャワジャワ兄弟、そして私がその呼び名を教えた一人の女の子だけでした。
太陽光をよく反射する灰色の大樹の隙間を縫うように、街は広がっています。時々大樹をくり抜いて家を作る人もいます。最も、そんなことはよっぽどの大金持ちでないと出来ないのですが。
「森には入ってはいけないよ。入ったら最後、たましいを森に取り込まれてしまうからね」
街の子どもたちは、大人たちにそう諭されながら過ごします。
たましいを取られると聞くと、決まって子どもたちはすくみ上がりました。それが大人のうそでないことが、分かっているからです。灰色の大樹と大樹の隙間に出来た陰。そこを覗いてしまったら、誰もがそれに気付くでしょう。
ーーうおぉん、あー、うー。
低く唸るような声をまるで赤ん坊のように漏らしながら、空を見つめたり、よだれを垂らしたり、こちらに手を伸ばしたり。体は真っ黒に汚れ、最早人なのかどうかですら曖昧な何かが、大樹の隙間には蠢いていました。
あれが、森に入った者の成れの果てだよ。そう教えられて生きてきた街の子どもたちは、悪気を起こす気力さえも失いました。禁を破った者には、こちらから手を下すまでもなく、森に裁かれてしまうのです。
それでも森の中を覗いてみたくて仕方がない、そんな化け物じみた好奇心の持ち主が、ジャワジャワ兄弟の兄、サムゲタンでした。
サムゲタンーーサムは、いつも悪いことばかりをしていました。盗み。騙し。喧嘩。まるで、この世のルールというルールに片っ端から抗ってやろうというように。ただ、そんな彼も、弟のハバネローーネロと、それからなぜか私にだけは、とても素直で親切でした。だから私にとっては、サムは頼れる兄貴分でした。
欲にまみれた目をぎらつかせながら、彼は時折語りました。
「あの森に入ってはいけない、という、街のルールには、きっとわけがある。きっと森の奥に、大切な何かを隠しているんだ。うかつに誰かに見つかってはいけないような、何かをなぁ」
森を睨むサムを見ていると、いつか本当に森へ足を踏み入れてしまいそうで、私は怖くなりました。弟のネロも、兄を止めることには賛成でした。彼もまたジャワジャワの荒削りな性格の血を引いているので、私のようにただ怖いから止めるのではなく、ばかばかしいと思っていたからのようでしたが。
ある日、ネロが私のもとへやってきて、「サムを見なかったか」と聞きました。どうしたの、と尋ねると、どうやら朝から姿が見えないのだそうです。普段からあまりお互いのことを気にしていないような素振りを見せる兄弟でしたが、いざとなれば心配する人間らしさを見ると、私はほっとしました。
「何も言わずに消えたら、気にくらいなるだろ」
弟はあっけらかんとした様子で、そう言いました。
「見てないよ。ごめんね」
「そうか」
彼はそう言うとあっさりと踵を返し、またサムを探しに行こうとしました。
「私も行っていい?」
「別に」
彼の足が全く止まらなかったので、私は慌てて追いかけるはめになりました。
一日中、私とネロは大樹の街を歩き続けました。サムの出入りしそうな店は全部調べましたが、どこに行っても彼の行方を知る人間は一人もいませんでした。橋を渡って川を越えた先も探したのですが、結局サムの手がかりを得ることは出来ませんでした。
「まさか、森の中に入っちゃったんじゃないかなぁ」
何だか恐ろしくなって、泣きそうな声でネロに言いました。ネロははっきりしない人や弱気な人を見るのをとことん嫌う性格でしたが、私はそれでも自分の意気地なしを変えることが出来ないでいました。色んなことが不安になって、つい口をついて出てしまうのです。今度もまた、ネロを怒らせてしまいました。
「鬱陶しい声出すんじゃねえ! 泣くんだったら帰れ!」
ネロは手を振り下ろし、私を追い払おうとしました。こうなってしまっては、もう聞く耳を持ちません。私は諦めるふりをして、ネロの前から立ち去りました。サムならこういう時に慰めてくれるのになぁ、と思いましたが、当人が行方不明では仕方がありません。
帰ったふりをして物陰からこっそりとネロを覗いていると、彼はまた兄探しを始めました。
橋を渡った先で、彼はいくつかの家のドアを叩きました。普段の生活圏からは大分離れていましたが、この辺りにも兄弟の知り合いはいるようです。しかし四件目の家を尋ね、兄がいないことを確認すると、彼は諦めて家に帰りました。
それから数日、同じことが続きました。毎日のように私はネロを追いかけ、来る者拒まずの彼について歩き、ふとした不安を見せた拍子に追い返されました。
そして四日目の昼、紫色の家の住人と喋ったあと、ネロは急に走り出しました。今日もまた追い返された後だったので、私は隠れながら慌てて追いかけました。
ネロが飛び込んだのは、サムとネロの隠れ家でした。兄弟が、家と家との隙間に屋根をつけてそれらしくしたもので、中は兄弟が廃材置き場から拝借してきた家具が並べられています。光るガラクタ置き場、という言葉がしっくり来る気がしていました。
「サム!」
怒声のようなネロの叫びが、外にまで響き渡りました。私は体を隠して、入り口から目だけを出して中の様子を確認しました。そこにあったのは、ネロと、ずっと探していたサムの姿。私は驚いて声を出しそうになりました。
「おう、ネロか。それと、キャンディ8、お前なんで後ろに隠れてるんだ? バレてるから出てこい」
キャンディ8とは、私の名前です。変な名前だと笑われますが、ジャワジャワ兄弟の場合とっても親しみを込めてそう言っているのが分かるので、私は彼らから離れられないのでした。
ネロに申し訳なく、肩を小さくしながら隠れ家に入ると、サムが何やら大きな袋を持っていることに気付きました。
「サム、その袋はなんだ」
ネロは指をさして聞きました。私に対する怒りはもう帳消しになったようで、私は内心ほっとしました。
「これか」
サムは袋を持ち上げました。中にはずっしりと重たいものが詰まっているようでした。
「まあ、中を見てみろよ」
どさっと前に投げ落とすと、ネロと私は中を覗き込みました。
中には、緑色のまんじゅうのようなものが大量に入っていました。
「なんだこれ。ヨモギモチか」
「いや、ヨモギモチであってヨモギモチではない。強いていうなら、ヨモギモチモドキといったところだ」
「はあ」
分かったような、分からないような声をして、二人は煙草に火をつけるサムの顔を見つめました。ふぅ、と息を吐くと、隠れ家の中が煙に包まれました。
「兄ちゃんな、森の中に入ってきたんだ」
「えぇっ」
私たちは思わず声を上げました。いつか現実になるであろう私の心配が、とうとう本当になってしまったのです。
「森って、まさかあの森のこと」
「その森のことさ。他に何がある」
サムは笑いました。
「体は? 何ともないの」
私は聞きました。森に入った者はみなおかしくなってしまうと言う話を信じていたので、サムの変化がまず心配になりました。
「あぁ。ぴんぴんしてるぜ。頭もはっきりしてるさ」
サムは両手を広げました。
「そんな事より、森の中はどうだったんだ。この袋の中身……ヨモギなんとかってのは何なんだ」
弟の淡々とした言い回しの中にかすかな興味を感じました。もしかして彼も森に興味があるのかもしれないと私は息を飲みました。
「森にはそこにしかない植物が生えている。それがヨモギモチモドキだ」
煙草を灰皿に押し付けて、彼は顎で指し示しました。そして、にやりと笑って見せました。
「これがな、うまいんだよ」
声を潜めて、その目をぎらぎらと輝かせながら言いました。
「饅頭のようにとても甘くて、弾力があって、一口噛めば高級肉のような旨味も溢れ出し、いくら食べても飽きることがない。あの森は、まさにこの食い物のためにあるんだぜ」
サムは袋に手を突っ込み、ヨモギモチモドキを鷲掴みにしました。その手に溢れんばかりのサイズの緑色した楕円形のモチを持ち上げて、私とネロに見せるように一口、がぶりと噛みつきました。粘り気は少ないようで、噛み切るのは簡単そうでした。
かじった断面はまさに饅頭そのものといった風で、あんこのような黒いものが詰まっていました。
「うめぇ」
一口、さらに一口。次々とかぶりつき、あっと言う間に平らげてしまいました。それを見ていると、なんだかこちらまでお腹がすきそうでした。
「お前らも食えよ。いっぱいあるから」
ネロは迷わずに手を伸ばしました。サムの豪快な食べっぷりにつられてしまったのでしょう。兄のように、大きな手を広げて、大きな口をあけて、がっぷりと。まるで、何かに八つ当たりをするみたいに、がっつりと。
「キャンディ8、お前も食えよ」
サムは袋の中からヨモギモチモドキを取り出して、私に渡そうとしました。
「私は……いいよ」
迷いましたが、私はそう言いました。
確かに、それは美味しそうではあったのです。ですが、この植物には、何やら嫌な気配が漂っているような気がしてなりませんでした。どう考えても、この植物が自然のものとは思えなかったのです。まるで、食べた人間を罠にはめるために、神様がわざと美味しく作ったような。
むしゃむしゃとかぶりつく二人の姿は、狂ったように真剣でした。食事を遮ろうものなら、殴りかかってやるとでも言わんばかりに。一つを食べ終えると、袋の中に手を突っ込み、つぎのヨモギモチモドキを取り出して食べました。
いったいこの袋の中には、何個のヨモギモチモドキが入っているのでしょう。私は早く全部なくなれ、なくなれ、と念じました。二人の一心不乱な顔が怖くて怖くて、とても声をかけられません。立ち去ることでさえ何だかためらわれて、ただその場で二人の食事をじっと見守るしかありませんでした。
「ふう、食った食った。どうだネロ、うまかっただろ」
「くそ、もう終わりか」
ネロは袋をくしゃりと押しつぶし、もう全部食べ終わってしまったことを確認すると、ひどく残念そうに言いました。
「お前も食えば良かったのに。弱虫だなぁ、お前は」
ネロはあっけらかんと言いました。私は彼らに何だか申し訳なくて、ちょっと卑屈になって、
「私は、いいんだよ」
と繰り返すしかありませんでした。
それから今日一日、ジャワジャワ兄弟はヨモギモチモドキの話しかしませんでした。森のどんなところに生えているのか。モノによって味が違う種類もあるのか。なぜ自然界に生えている植物が、こんな旨味をたたえているのか。
様々な推測に、二人は夢中になりました。私はただ口を挟むことなく、サムとネロの間でじっと耐えるように話を聞くだけでした。
そして次の日。ジャワジャワ兄弟は二人揃って姿を消し、ついには帰って来ませんでした。
きっと、森に入ったのだということは、簡単に想像がつきました。彼らには、世の中の決まりなど見えていないのです。その時やりたいことを、やりたいようにする。それだけなのです。
「森にまた人が入ったらしいぞ。夜中、見張りが見たって」
「しかも、二人だって」
「俺、知ってるぞ。ジャワジャワ兄弟だろ、それ」
「またあいつらか」
「まぁ、これであいつらがいなくなってくれれば、俺たちもせいせいするんだけどな」
「全くだ」
噂話に花を咲かせ、けらけらと笑う連中の横を抜けて、私はひたすら歩き続けました。
彼らに、言ってやりたいことはたくさんありました。ネロも、サムも、本当はとてもいいやつなんだぞ、と。悪いことばかりするけれど、いいやつらなんだ。私に出来ないことを何でもやってのける、あこがれのふたりなんだぞと。
――でも、今回ばかりは、越えてはいけない一線を越えてしまったかもしれない。
私は、ジャワジャワ兄弟の秘密基地にやってきました。もう、ここにはサムもネロもいません。サムの吸った煙草の残りやらライターやら、ヨモギモチモドキを入れていた袋やら、いろんなものが散乱していました。誰かから盗んだバイクの鍵も、机の上に置きっぱなしです。
「なんで」
私は思わず、拳を握りしめました。
「なんであんなもの、食べちゃうかなぁ……!」
その瞬間、私の心がある一つの方向に固まりました。煙草の箱から一本取り出し、火を付けてみました。景気付けに一本吸ってやる、と、まるでネロのような乱暴な心で。
「げほっ、ごほっ」
私は大きくせき込みました。煙草なんて吸ったことがなかったので、こんなに煙たいものだとは知らなかったのです。
(サム、ネロ。待っててね、必ず見つけるから)
吸い始めたばかりの煙草を灰皿に押しつけ、ライターはポケットに入れて、私は秘密基地を後にしました。
私はずんずんと歩いて行きました。橋を渡り、裏道を抜け、亡者たちを掻き分けて。
ヨモギモチモドキの森。私の心の中ですっかりその呼び方が定着してしまった、禁忌の森。あまりに鬱蒼と生い茂るので、どこから入っていいかすら分からない深い深い森。この森には、人を亡者に変える不思議な力と、それでも入ってみたくなる不思議な魅力がある。その謎を解き明かし、サムとネロを助け出す。出来るかどうか分からないけれど、私はそう心に決めたのです。
太陽が一番高いところに上ったその瞬間、私は草を割って奥へ進み始めました。