グレース
我が家にはまるで妖精のように見目美しく、割れ物のように儚い少女がいる。銀白色のその長い髪は、床につくすれすれまで伸びている。さらさらとした髪は、あらゆる属性の妖精を引き付ける。白い肌は瑞々しく、醜悪なオークや子鬼どもですら一瞬立ち止まるほどに美しい。彼女の小さな形のいい唇から漏れ出る息吹と歌声は、セイレーンたちを驚愕させ、神々すら魅了する。あらゆる生命は彼女を愛し、彼女を傷つけることはできない。彼女の名はグレース。主神バルガンテスが名もなき湖の婦人に産ませた半神の少女。まだ、十六歳に満たない少女である。
さて、私は誰であるかというと、ある者はサガリ、ある者はアーダル、またある者はクイリゴンと呼ぶ。私自身、長い年月を生き、各地を転々としていたため、それだけ呼び名や通称は多い。だが、私のもっとも最近の名前、つまりここ半世紀の呼び名は専らアーシェルであり、グレースもその名で呼んでいる。ゆえにここではアーシェルと名乗っておくこととしよう。
私は魔術師である。かつては普通の人間であったが、六世紀前、高名な魔術師であり、嘘の神キュテシオンの子、ミグライアに弟子入りした。ミグライアは三十歳ほどの外見の、長身で赤い燃えるような髪の女性であった。褐色の肌で、右目を常に髪で隠していた。ミグライアはその当時ですでに700歳を優に超えていた。ミグライアは数多くの弟子を輩出した魔術師であり、お伽噺の住人であった。奴隷の子であった私は彼女に見いだされ、魔術師となった。
魔術師は修行の中で大気や世界にあふれる妖精や、神秘と向き合う。それにより、通常の人間とは異なる肉体に作り替えられる。魔術師の寿命は厳密には存在せず、肉体が滅びても魂のみで活動できるものもいるという。
ミグライアから持てる知識をすべて教えてもらった私は、魔術師として人の世で活動した。あの悲惨なルキレフ紛争や七十年戦争、灰色戦争などでも私は活躍した。
そしてここ一世紀近くは人里離れた山奥で隠遁生活に近いものを送ってきた。それが変化したのは、二年前である。
私のもとに、師であるミグレイアがやってきたのだ。美しい少女グレースを連れて。
ある雨の夜。ドアをたたく音に目覚めた私は、ローブを羽織り、一階に降りた。ドアを開けると、雨除けの呪文をかけたローブをかぶった人影が二つ、その向こうに立っていた。一人が纏う魔力の波動は懐かしく、そして忘れえぬものであった。顔を見ずともそれが師であることは容易に察することができた。
「これはお師匠様。珍しいものですね、あなたが私を訪ねるとは」
実に百年ぶりであろうか。それほど私は師とあっていなかった。だから、どうして彼女が来たのか、わからなかった。
師はフードを下した。私は驚いた。師の顔は、老いた老婆のようになっていたからだ。
「久しいな、弟子よ」
そういい、ゴホゴホと咳き込む。
「上がってもよいか」
「どうぞ・・・・・・そちらの方も」
そういい、フードを下さないもう一人の客人に言うと、師が手招きする。おどおどと小さな客人がわが家に入る。
広間に二人を招き、私は使役する妖魔に茶を出させた。師は広間中をぐるりと見渡し、左目でぎょろりと私を見た。
「かの高名な魔術師である汝がここにいる理由はいったい何だ?」
「いえ、ただ人より長い生を生きていると、時折無性に一人になりたい時間があるのです。お師匠様もわかりましょう」
「ふん。まあいい。私がここに来た理由を汝はわかるか?」
「いいえ、全く」
私の言葉にふん、と鼻を鳴らし、師は言う。
「お前にこの子を預けようと思ってな」
そういい、師は連人のフードを下した。私は一瞬息を呑んだ。そこにいたのは幼い少女。だが、すでに完成しきった芸術品のように神々しい何か、であった。一瞬とはいえ、息を止め、彼女に魅了されていた私はすぐに意識を戻し、師を見た。
「彼女はいったい?彼女は、神の子でしょうか」
「ああ、半分はな」
ミグライアが頷く。
「グレースという名じゃ。バルガンテスと湖の巫女の娘じゃ」
「・・・それをなぜ、私に?」
問うとミグライアは答えた。
「彼女を生んだ母である湖の巫女には夫がおるが、夫はたいそうグレースを憎んでおるのじゃ。いや、憎んでいるのはバルガンテスか。湖の巫女の体を奪い、心すら奪った神を巫女は死ぬまで愛していた。無論、その娘もじゃ。巫女の死後、グレースの養父は彼女を束縛し、後妻にしようとした。わしが介入し、グレースを助け出したが養父はわしとグレースを捕まえるように言った。その養父はワリシュ帝国の大公ゆえ、多くの国が協力して探しておる」
「なるほど。事情は分かりました。ですが、それならばなぜ、お師匠様が彼女を見ようとはしないで、私に預けるのです?」
美しいグレースをちらりと見て、私は師に問う。師は右目のある部分を撫でた。
「わしはすでに死期が近い。自分でわかるのじゃ。わしの未来を見る右目は力を失くした。わしの知る限り、彼女を守る力があり、彼女を自己の欲望のために危険をさらさぬ者は、わしの知る限り汝だけじゃった。数ある弟子どもの中でな」
「・・・・・・」
ミグライアの死が近い、ということは衝撃であった。だが、師にここまで言われ、断ることはできようもなかった。
私はグレースの身元を預かることにした。彼女が二十歳を迎えるころ、彼女の実父が迎えに来るであろう。その時まで守り、育てることが私の使命である。
師はわずかに滞在した後、わが家を後にした。
グレースは非常に無口な娘であった。その美しい声は人を魅了する。彼女の意思にかかわらず。ゆえに彼女の母は娘にしゃべる必要のない暮らしをさせた。そうすることで世界の悪意から遠ざけようとしたのだ。
しかし、グレースは無口であるが、決して暗い娘ではなかった。最初はおどおどしていたが、時の経過とともに私にも慣れ、時折笑顔も見せてくれる。私の所有する詩集を読み、動植物と時を過ごし、平穏な日々を過ごしていた。年を重ねるごとに、少女はより美しくなった。
私の名を囁くその声に、私は深い愛情をもって答えた。師と彼女に約束した通り、私は彼女がその時を迎えるまで、守るつもりであった。幸い、ワリシュの勢力圏から離れ、外界からも孤立したこの地にはグレースを追い求めるものは来なかった。
そうして、二年が経ち、今に至る。
グレースが日課である散歩に出かけたある時、私はふと懐かしい波動を感じた。私は使い魔を呼び出し、グレースに少し長めの散歩をするように伝えさせた。そして私は玄関のドアを開け、懐かしい客人を出迎える用意をした。
客人は間もなく見えた。優雅な貴族のような格好の美男子。手には樫の杖を持っている。鳶色の瞳は爛々と輝き、その野心に満ちた瞳は、鋭い鷲の目を思わせる。
「久しいな、シノーン」
「やあやあ、出迎えありがとうサガリ」
いやに芝居がかった言い回しと仕草をする男。魔術師シノーン。私と同じミグライアの弟子であり、私にとっては兄弟子にあたる男であるが、正直私は好きではなかった。魔術師になる前から傲慢な貴族であった彼とは、見習い時代から確執があり、それは魔術師になった後も続いていた。
彼と会ったのも、とある戦争で敵味方に分かれて戦って以来。彼がここに何をしに来たのか、わたしにはわからなかったが、私への復讐か、またはグレースを探してのことあろう。だからこそ、使い魔を飛ばしたわけだ。幸い、この山々にはグレースの見方をする力強い者たちが多い。最悪何かあっても、グレースは守れる。そう考えてのことであった。
「ひとつ、訪ねたいのだがサガリ」
探るような目で彼は私を見る。
「最近ミグライア師を見なかったか」
「いいや、見ていない」
私は答え、訝しむような目でシノーンを見る。
「何か?」
「いや、なに。師が私の探し物を持っているようだから、それを譲っていただこうとな。いや、なに。知らぬなら結構。手間を取らせたな」
そういい、シノーンは急ぎ足で去っていく。私はシノーンが去ったことを確認し、使い魔を呼び出した。
だが、グレースにつけたはずの使い魔は答えなかった。
私は焦り、家を飛び出した。
(グレース)
少女の名を呼び、私は走る。
朝を告げていた太陽が沈み、空が紅に染まり、夜の訪れを告げようとする頃に、ようやく私は彼女を見つけた。彼女はひどく泣いていた。私は彼女を抱きしめると、彼女はわっと泣き出した。声を大にして。
「どうした、美しいグレース」
「みんなが私をかばって・・・・・・」
悲しみを乗せた声で彼女は言う。そうか、と私は答えた。使い魔や山の生き物たちは彼女を守り、死んだらしい。
「あとで、墓を作ってやらねばな」
無言で頷く少女。その時、がさりと林が揺れ、突風とともにシノーンが現れた。
「やはりな、サガリ。貴様がバルガンテスの娘をかくまっていたか!」
「シノーン」
野心あふれる魔術師が叫び、樫の杖を振る。私は彼女を背にかばう。かまいたちが私を襲い、切り傷を負わせる。
「貴様は我ら弟子の中で最も師に信頼されていたからな!大した才もないただの奴隷の子がな」
そういうシノーンの目は憎悪にあふれている。弟子時代、そしてそのあとの時代でも何度も私は彼の前に立ちふさがった。それ故に、憎悪もひとしおだろう、と他人事のように考えていた。
「貴様が私に勝てるか、サガリ」
私は痛みに耐えながら、ローブの裾から杖を取り出し、振る。稲妻が杖の先から迸り、突風を纏うシノーンに向かう。
シノーンは杖を振り、自分の前に地面から抜いた樹木を盾にする。稲妻はそれに阻まれ、消滅する。
突風が再び私を襲う。グレースを守るために、私は攻撃に専念できなかった。もとより私の魔術は攻撃よりも守りに特化しているのだ。かつての戦いでシノーンを退けられたのは、単に運が良かっただけのこと。
私は守りの呪文を唱えながら、背中のグレースに言った。
「たとえ死しても、私は君を守る」
「アーシェル」
か細い声で彼女は言う。はらりと涙が零れ落ちる。
それを見て、私は笑う。彼女を勇気づけるために。
それを余裕と捕ったか、シノーンは激怒し、魔術を強めた。そして、鋭い刃が飛び、杖を持った私の右腕を骨ごと切断した。
私の腕は地面を転がった。その腕をさらにシノーンは火炎の呪文で焼き払った。灰すら残さず。
杖と腕をなくし、私はいよいよシノーンの攻撃に耐えられなくなった。魔術をなくし、もはや体だけとなった私はグレースを左腕で抱きしめた。私の背中はシノーンの放つかまいたちでズタズタであり、意識は痛みで飛びそうであった。
数分後、私は地面に倒れ、傍らに座ってなくグレースの姿があった。傲慢なシノーンが私を見下ろす。
「俺に逆らった罰だ、サガリ。その首を落としてやろう。そして俺は美しき娘を手にし、莫大な富を得るのだ」
私を殺そうとするシノーンの前に、グレースが立つ。グレースを見て、シノーンは一言「どけ」と言う。それでも彼女はどかなかったから、シノーンは左手で彼女を打った。私は「やめろ」とうめく。
「やめろだと、命令するな出来損ないめ」
シノーンがその装飾過多な靴で私の顔を蹴る。目が腫れ、鼻が折れたのを感じた。
倒れていたグレースがか細い声で「やめて」と呟く。それを無視したシノーンが私にとどめを刺そうとした時、グレースがそれまで聞いたこともないほど大きな声で叫んだ。「やめて」と。
その瞬間、雨雲が空を覆い、稲光が天を照らした。風が吹き、シノーンを襲う。
「な、なんだ?」
シノーンが困惑気味に言い、グレースを見る。グレースの体からあふれ出る膨大な魔力。そして、彼女の意思に答えるように、天は怒り、雨雲は泣き、風は従う。稲光が轟き、雷鳴の槍となってシノーンの杖を持つ右手を焼き払った。続いて突風がシノーンの両足を切断した。雨がその足を流した。シノーンは泣きながら、左手でみじめに這う。しかし、そんな魔術師に更なる災難が降りかかる。
岩岩が転がり、みじめな魔術師の体をすり潰したのだ。なすすべなく死んだシノーン。シノーンが死ぬと、天気は一気に戻り、静寂があたりを支配した。
この時初めて、私は本当の意味でグレースがここにいる理由を知った。彼女の身の危険のほかにも、もう一つ理由があった。彼女の力は、あまりに強大だ。使うものによっては兵器とすらなりえる。それこそ、神々すら倒しうるほどの。
疲れ果てたグレースのもとへ私は駆け寄る。気を失った少女を抱きしめた私のもとへ、フクロウが一羽やってきた。この山のものではない、と思っているとフクロウは姿を変え、一人の偉丈夫に変わった。それが主神バルガンテスだと、私は一目見て分かった。
「バルガンテス様」
「魔術師アーシェル。その身をもってわが娘を守ろうとしたそなたの行動は、わしを呼び覚ました」
バルガンテスは言う。主神はこの世界を保つために、数世紀に一度、眠りにつかねばならず、今はその期間であったのだ。しかし、グレースの悲痛な叫びと私の行動が彼を起こしたのだという。
本来、彼女が二十歳に至るまで眠っているはずであったが、そうもいかなくなったという。
「グレースは自分の力を知った。そして、この世界に存在する悪魔や魔術師、神々もだ。もはや猶予は許されぬ。娘を天空に連れて行かねば」
「グレースを、ですか」
私は答える。グレースは家族で会った。だが、主神の前で、私は何も言えなかった。彼女を守り通す自信はあったし、約束があった。だが、この現状を見て、そう言い切れるだけの力を私は持っていないと痛感させられた。
「これまでの間、娘を育ててきたことを感謝しておる。おかげで娘は愛を知り、重いっ槍を知り、平穏を得られた。その力を悪用することなく、一柱の神として、これからはわしが育てよう」
娘を抱き上げ、バルガンテスは言った。
「魔術師アーシェル。そなたには失った右腕を与えよう」
バルガンテスが言うと、なくなったはずの腕がいつの間にかそこにはあった。
「そして、娘とそなたのために一年に一度、文を交わさせてやろう」
そういい、主神は再び天に帰った。美しきグレースとともに。
グレースとともに過ごした期間は二年に過ぎなかった。しかし、これまでの数世紀でおそらく、もっとも私の中に記憶に残る日々であった。それほどまでに私は彼女を愛していたのだ。幾万の言葉を並べても、それを語ることはできないだろう。
さて、主神の約束した年に一度の文通が果たされることはなかった。なぜならば、天界においてかつて神々に敗れた巨人が反乱を起こし、世界を巻き込んだ大戦争となったからだ。俗に云う「巨人反乱」の勃発だ。地上の人間世界もこれと呼応したかのように大戦期を迎えた。私も魔術師の一人として、戦乱に参加した。数度死の危機に陥ったが、その都度、何かしらの奇跡か、女神の助けか、私は助けられた。
四年にわたった大戦で地上も天界も荒れ果てた。主神バルガンテスは傷を負い、再び永い眠りについたという。
そして私は、グレースと過ごしたあの家に戻ってきた。四年もの間、家を空けていたせいで、すっかり中は埃だらけであった。使い魔を使役しようとしても、多くの使い魔が傷を負い、静養しているために、私は自分で掃除しなければならなかった。
数日をそうやって過ごし、ふと気づいた。「そういえば、グレースのたんじょうびであったな」と。
彼女は二十一歳になるはずだ。美しきグレースは、記憶の中よりもいっそう美しかろう。あの髪を、声を、顔を、忘れたことはない。たとえどれだけ時が過ぎ、記憶が朽ちようとも。
孤独を愛し、ここに来たはずの私が女々しいものだ、と自嘲する。彼女はもう、私のもとには来ない。わかっているはずなのに。
その時、きぃ、と音を立ててドアが開いた。私はドアのほうを見る。目がくらむような光とともにやってきたその人物を見て、私はしばし呆然と間抜け顔を晒した。ぶんぶと頭を振り、そして迎え入れるように心からの笑みを浮かべて言った。
「おかえり」
そして、愛しきものの名前を呟き、そっと彼女の唇にキスをした。