繋いだ手、繋いで手
短編3000文字シリーズ第9弾
風呂上りにビールを飲みながら、下らないバラエティ番組を見て、バカ笑いをする。
仕事に疲れて帰ってきて、この時間が毎日の楽しみの一つだ。横から同じタイミングで笑い声がする。これも俺の心が休まる理由の一つだった。
加奈子と付き合い始めて、もう五年目になる。
同期入社で同じ部署。業種こそ営業と事務で違いはあるが、毎日顔を合わせて、毎日話をするうちに自然と仲良くなった。
先に食事に誘ったのは俺だけど、先に好きになったのはどっちだろうか? 初めてのデートから付き合い始めるまではあっという間だった。
やきもち焼きの加奈子はいつも傍から離れなくて、鬱陶しいと思う事もたまにあるけど、総じてそんな加奈子の事が好きだからこの五年間を毎日楽しく過ごせているんだと思う。今や隣にいないと落ち着かない存在だ。
ふと視線を感じて横を見ると、まじまじと見つめる加奈子と目があった。今の今までテレビを見て笑っていたのに、いつの間にか、真面目な顔で俺の顔を覗いていた。そのまっすぐな視線にドキリとする。そう言えば最近こうして見つめ合う事が無かったな。
「どうした? 俺の顔に何かついてる?」
ビールのつまみに食べていたポテチのカスでもついてるのかと、口周りを確認するがそうじゃないようだ。無言のまま見つめ続ける加奈子に、どうした? と訊ねると、加奈子は、その大きさゆえに、実年齢よりも幼く見える大きな瞳をゆっくり閉じて首を振った。長い髪が揺れてシャンプーの香りが漂う。
「ううん。なんでもないよ」と繋いだ手に少しだけ力を込めた。
寂しさを滲ませた表情が妙に気になった。
寂しがり屋の加奈子を落ち着ける方法が手を繋ぐ事だと知ったのは、付き合い始めて半年を過ぎた頃だった。それ以来、暗黙の了解として、一緒に居る時は俺の方から手を繋ぐ事にしている。
この手は俺が離すまでずっと繋がれたままだ。
加奈子の様子がおかしかった日から三日後だった。その日は残業が長引いて、帰る頃には日付が変わっていた。
「ただいま」と静かにドアを開ける。
半同棲に使っているアパートは元々俺が借りていたが、今は年の半分以上は加奈子もここに住んでいる。
8畳一間のワンルームは案の定真っ暗だったが、この時間では寝ていても仕方ないと、音をたてないように中に入る。部屋の明かりをつけるのは気がひけたので、間接照明の一つをつけると、部屋に加奈子がいない事に気付いた。
「なんだ……いないのか」
少し残念な気持ちで部屋の明かりをつける。すると部屋の真ん中に置かれた小さいテーブルに書置きを見つけた。
『少しの間実家に帰ります。ご飯は自分で何とかしてね』
は? と無意識に出た声は夜中だというのに自分でも驚くほど大きかった。慌ててスマートフォンを開いて、手が止まった。さすがにこの時間に電話するのはまずいかと思い、明日の朝電話する事を決めてテーブルに置く。
着替えをしてソファに腰掛けると腹が減っている事に気がついた。いつもなら加奈子が用意してくれたご飯があるのだけど、今日はなにも用意されていなかったので、仕方なく買い置きのカップ麺にお湯を注いで出来上がりまでソファで横になる事にした。
気がつくと朝になっていた。時計を見て慌てて飛び起きると、昨夜お湯を入れたまま放置してしまったカップ麺をひっくり返してしまった。幸いほとんど水分は残っていなかったがなにをやってるんだと、自分に腹が立った。
結局風呂にも入らず、着替える時間も無く、遅刻ギリギリで電車に飛び乗る事になった。いつも朝寝坊することなく時間に余裕を持って会社に迎えるのは加奈子が居てくれるおかげだからだとおらためて気付かされる。どうして急にいなくなったのかまだ分からなかったけど、加奈子がいなくなって一日でこの有様だ。
仕事の合間を見て加奈子の携帯を呼びだしてみる。が、聴こえるのは機械的なアナウンスばかりで、何度目かの電話で『連絡が欲しい』と伝言を残してかけるのをやめた。
会社にはいつの間にか休暇届けが出されていたし、加奈子と付き合っている事を隠している手前、誰にも聞く事ができず、俺は加奈子からの連絡を待つことしかできなかった。
加奈子がいなくなって二日目、未だ連絡は無く、俺は早くも途方に暮れていた。たった一日で部屋は荒れ、食事も不規則になり、髭も伸びた。
会社に行くと、同僚の女の子が「どうかしたんですか?」と心配した。それほど分かりやすく動揺しているのだと実感する。
休憩時間に一度だけ電話してみる。が、やはりというかなんというか、繋がる事は無く、機械的なアナウンスに苛立ちながら電話を切った。
これだけ連絡が無い事は今まで一度も無かった。この五年間、加奈子はいつも傍に居てくれたし、俺が好きなのだから当たり前のように加奈子も俺の事が好きなのだと、思い込んでいた。
もしかして、愛想を尽かされたかな。そう考えて胸が詰まる。一人になった途端何もできない自分に気付かされ、考えも後ろ向きになっていた。
足取り重く部屋に帰る。暗い部屋に明かりをつけると、朝出るまで散らかり放題だった部屋が片付いていた。カップ麺を零したカーペットはシミ抜きにタオルがかけられているし、脱ぎ散らかした服も綺麗に畳まれていた。
あっけに取られて部屋の真ん中で茫然としていると、玄関が開いて買い物袋をぶら下げて加奈子が入ってきた。待ちに待った加奈子の姿に思わず腰が砕ける。
「……どうしたの?」
大きな瞳をまん丸くして加奈子は首をかしげる。
「いや、だって、連絡」
自分でも可笑しくなるくらいたどたどしく言葉を繋げると、加奈子は急に吹き出し、「どう?」と言った。
「あたしがいないとどんなに大変か分かった?」
俺は声も出せずにただコクコクと頷いた。
「ごめんね、実家のおばあちゃんの具合が悪くなったって連絡があって、急に帰らなくちゃいけなくなったの」
「おばあちゃんが?」
「うん、結局大したことは無かったんだけどね。いい機会だからちょっといたずらしてみようかなって」
そう言って加奈子は可愛らしい笑顔を作った。
「最近一緒にいる事が当たり前になってたでしょ? りょうくんは気付いてないかもしれないけど、あんまり『好きだよ』って言ってくれなくなったし」
そうだったっけ? と頭をフル回転させてみる。確かに加奈子は傍に居て当たり前の存在だった。付き合い始めの頃こそ、毎日のように気持ちを伝えていたけど、最近は手を繋ぐばかりで言葉にはしていなかったかもしれない。
「ホラ、ちゃんとあたしの目を見て」
加奈子は俺の前にしゃがみこんでまっすぐ目を見つめた。大きな瞳に見つめられて思わず目をそらしそうになった。
「どう?」
「どうって……?」
加奈子の目は真剣だ。
「少しくらいは心があったかくなるでしょ?」
そう言われて自分が付き合い始めの頃のようにドキドキしている事に気付く。この感覚は久しぶりだった。
「そう、だね。うん。あったかくなる」
俺がそう言うと、加奈子は「よし」と言って目を細めた。
「あたしが毎日一緒にいる事、当たり前に思っちゃダメだからね」
はい、と加奈子が手を出す。僕は反射的に加奈子の手を握る。
「この手はあたしが離すまで離しちゃダメ。いい?」
「わかったよ」
繋いだ手は柔らかく、少しだけ俺よりもあったかかった。傍に加奈子の熱を感じる。それだけでこれほどまでに幸せなんだと改めて感じた。
好きだよ、と言ってみる。
今さら? と加奈子は笑った。
甘い話にちょっと疲れました(笑