第9話
それほど捜す事はなかった。
庭の片隅で緋吹は、大木にもたれて立ち、力強い両腕を組んでいる。
近付いて行く清春に、赤銅色の美貌がジロリと向けられる。
「……何か御用ですか、清春殿」
不機嫌そのものの、声と表情である。
「放っておいて欲しいものですね。私の事など、何も気にならないのでしょう?」
「緋吹、聞いて欲しい。私は……」
君を傷付けるつもりはなかった。私が悪いのなら謝る、どうか機嫌を直して欲しい。
それらの言葉を、清春は全て呑み込んだ。
「……君がどこで誰と何をしていても気にならない、わけではないよ。むしろ気になって仕方がないんだ。昨夜、丸彦が……何を、ごまかそうとしていたのか」
近くで、茂みがガサッと鳴った。
構わず、清春は続けた。
「あの兄弟が昨夜あそこで、何を覗き見盗み聞きしていたのか……君と鉄マムシ殿の、何を。気にならないわけが、ないじゃないか」
「清春殿……」
「気にしている自分が、私はたまらなく嫌なんだ」
緋吹童子の、恐いくらい真摯な眼差しから逃げるように、清春は背を向けた。
「私の中では今、醜い嫉妬心と独占欲が、おぞましく渦を巻いている。そんな自分が、私は嫌なんだ……そんな醜くおぞましい私を、君に見られたくない……」
「清春殿」
赤銅色の力強い手が、清春の細い肩を背後から掴んだ。
掴み寄せられた身体が、無理矢理に振り向かされる。
恐いほど真摯な鬼の瞳が、燃え上がるような眼光を孕んで清春を見据える。
「誰かを独占し束縛したいという思い……それは醜くおぞましいものです。私に見られたくない? そんな弱気は許しませんよ。おぞましく燃える嫉妬を、独占欲を、さらけ出しなさい清春殿。何もかもを剥き出しにして……私を、束縛してごらんなさい」
赤銅色の美貌が、白く美しい牙を剥く。
「誰も束縛してくれない自由の中に私を放り出す事は……許しませんよ」
「緋吹……」
「そう、はっきりさせておきましょうか」
燃え上がる瞳を、緋吹は少し気まずそうに逸らせた。
「黒土麿……鉄マムシとかいう人間に化けている、あの鬼の事ですけどね。とにかく、あやつとは300年も前に終わっていますから」
「鉄マムシ殿が……鬼?」
「鉄マムシではなく黒土麿。あの男と私は、確かに独占・束縛し合う間柄でした。が、すでに過去形です。いいですか清春殿、これは大切な事ですから何度でも言いますよ? 黒土麿と私は、もう終わっております。綺麗にお別れをした、つもりですけどね。私としては」
燃える眼差しが、再び正面から清春に向けられる。
「あの男が未練がましく私を狙っている、としたら……清春殿は、どうなさいますか?」
「戦う」
清春は即答した。これほど迷いなく言葉が出て来るのが、自分でも信じられなかった。
「もちろん戦いになどなるわけがない、私が一瞬にして叩き殺される事にしかならないだろうが……戦う、しかない」
「……では清春殿」
緋吹の表情が、ふ……っと翳りを帯びた。
「私の中に、黒土麿への未練が、実は少しだけ残っていたとしたら? 貴方は、どうなさいますか」
「……苦しむ」
清春は俯き、呻くように答えた。
「ただ苦しむ……しかないだろう」
「清春殿……」
何か言おうとして緋吹はハッと言葉を呑み込み、近くの茂みを思いきり掻き分けた。
丸彦がいた。白彦もいた。そして鉄マムシもいた。
「ぼくは岩なのです」
「俺は木だー」
「俺は置物だ。まあ気にせずに続けてくれんかな」
鉄マムシが、傷跡の這う顔をニヤニヤと歪めている。
だが目は笑っておらず、眼光で清春を突き刺している。
「どうした? 続けろよ鬼遣い殿。俺の目の前で緋吹童子と何をするつもりだったのか、とくと見せてもらおう。さあ早く」
「お、落ち着くのです鉄マムシどの」
鉄マムシと清春との間に、丸彦が割って入ろうとする。
白彦は、何やら上機嫌だ。いつも通りとは言えるが。
「清春清春、桃が2つ残ったぜー」
「白彦……起きても大丈夫なのか?」
「全然大丈夫、お猿でもカラスでも持って来いだぜー。どいつもこいつも絞めて捌いて丸に煮てもらうからなー」
いつも通りではない、と清春は気付いた。よく見ると、白彦の目はまだ回っている。
「丸彦……君は一体、自分の兄上に何を飲ませた?」
「た、ただの熱冷まし……のはずなのです」
「……まったく、この犬どもは」
緋吹が左右それぞれの手で、兄弟の首根っこを掴んだ。
「いい加減にしないと、私が絞めて捌いて煮てしまいますよ?」
「おおおお許しを緋吹どの!」
「はっはっは緋吹どの、怒っちゃ駄目だぜー」
つまみ上げられたまま白彦が、命知らずにも緋吹童子の頭を撫でている。
「ふわわわわわ、こっこの馬鹿兄者!」
丸彦が慌てふためき、緋吹が表情をピシッと引きつらせ、そして鉄マムシ……という名の人間に化けた鬼が笑っている。
「ふふん……愉快な仲間どもを引き連れておられるではないか、鬼遣い殿」
目はやはり笑っておらず、じっと清春を睨んでいる。
「まあ、それはそれとして……だ。貴公、何やら面白い事を言っておられたな? 誰かと戦う、などと」
「貴方と戦う。確かに、そう申し上げたとも」
清春は、じっと眼光を返した。
目の錯覚ではない。鉄マムシの頭には、鋭い角が2本、確かに生じている。
「黒土麿……殿、と言われるそうだな。鬼族の方が何故、人間などに化けて、人間を守りながら暮らしておられるのか、お訊きしてもよろしいか」
「知りたかったのだよ、貴公ら人間をな」
黒土麿の微笑む口元が、ギラリと牙を剥く。
「まったく、知れば知るほどわけがわからぬ。貴様ら人間という生き物はな……皆殺しにしてやりたいと思う時もある。守ってやっても良いか、と思う時もある」
凄まじい力で、清春は引きずり寄せられた。
黒土麿に、胸ぐらを掴まれていた。
「今は、どちらかと言うと……皆殺しにしたい気分だ」
蛇のような傷で凶悪に彩られてはいるものの、よく見ると緋吹に劣らぬほど秀麗に整った容貌が、清春にずいと近付けられる。
殺意に近いものでギラギラと輝く鬼の瞳に、自分の顔が映っているのを、清春はただ息を呑んで見つめるしかなかった。
「……そこまでです、黒土麿」
犬神2人を放り捨てるように解放しながら、緋吹が助けに入ってくれた。
「私は言いましたよ。その方に万一の事があれば、羆谷もろとも貴方を灼き滅ぼすと……親分だの大将だのと貴方を慕う人間たちを、私に殺させる気ですか」
「…………」
無言で、黒土麿がギリッ……と牙を噛み合わせる。
犬神の兄弟が、割って入って来た。
「け、喧嘩をしては駄目なのです」
「そうだぜー、緋吹どのと鉄マムシどのは仲良しなんだから」
目を回したまま、白彦が言う。
「緋吹どのと清春も仲いいんだし。これで鉄マムシどのと清春が仲直りすれば3人仲良しだぜー。良かった良かった」
「いい子だから兄者は黙っているのです!」
丸彦が叫んだ、その時。
バサッ! と激しい羽音を響かせて、巨大な鳥が飛んで来た。
いや、鳥ではなくコウモリか。バッサバッサとやかましく羽ばたいているのは、皮膜の翼である。
気のせい、であろうか。広い翼を左右に広げながら、まるで人間のような四肢を備えているようにも見える。
牛や馬よりも一回りは巨大な、人間に近い体型の生き物が、鉄マムシ邸の上空で翼をはためかせているのだ。
鳥でも、コウモリでもない。
何に喩えるのも困難なほど、それは醜悪な姿をしていた。
肥満した肉体の、ある部分では剥き出しの臓物がせわしなく脈動し、ある部分では寄生虫のようなものがニョロニョロと伸びておぞましく蠢いている。
そんな醜悪極まる巨体が、広い翼を苦しそうに羽ばたかせ、清春たちの頭上に滞空しているのである。
背に、何者かを乗せたまま。
「お前ら昨日、僕を見逃したよな! 助けたよなぁあー!」
松虫だった。
「人道主義者になれて良かったなあ? 1日たっぷり自己満足に浸ったか? 思い残す事はないくらい? じゃあ死ねよバァーカ!」
空を飛ぶ醜い生き物に騎乗したまま、松虫は叫び、直衣の懐から何かを掴み出し、空中にばらまいた。
何枚、いや何十枚もの、式札だった。
「松虫……!」
叫び、見上げる清春の視界の中で、大量の式札がひらひらと舞いながらグニャグニャと形を変え、膨張・巨大化しつつ落下して来る。
館の庭園に、何十体もの式鬼たちが、立て続けに地響きを発して着地した。
大部分は、鉞を構えた牛頭である。
そうではないものが、牛頭3匹に対し1匹ほどの割合で存在していた。
牛頭よりも小柄、とは言え緋吹や黒土麿と同等の体格をした、鎧武者たちである。首から上は、鼻息の荒い馬だった。1匹の例外もなく槍を携え、隙なく構えている。
荒馬の頭部を有する鎧武者。牛頭に対し、馬頭とでも名付けられているのだろう。
2種類の式鬼たちを地上に降らせ終えた松虫が、騎乗している醜悪巨大な生き物を、ずしりと着地させる。
これが3種類目の式鬼である事は、間違いなさそうだ。
長時間、空を飛び続けるのは大変であろうと思える巨体の背中から、松虫が、転げ落ちそうに危なっかしい足取りで下りて来る。
「突っ立っているなよ、お前ら……命乞いしろ、ほら早く!」
清春を、緋吹と黒土麿を、犬神の兄弟を、睨み回しながら松虫が叫ぶ。
「もちろん許してやるつもりなんてないけどな、命乞いに誠意が見られれば、僕だって命だけは助けてやろうって気になるかも知れないんだぞ? ほら少しは努力してみろよ!」
べちっ、と痛そうな音がした。
白彦が、自身の頬を叩いていた。回っていた目がしっかりと据わって、松虫を睨む。
「……お前、いいかげんにしろよー」
白彦の怒った声というものを、清春は初めて聞いた。
「清春が頭下げてお前の事助けたのに、ありがとうも言わないで何やってんだよー」
「ありがとう? ありがとう、ありがとう! ありがとうございまぁーす! これで満足か葛城清春!」
松虫の整った顔が、笑いか怒りか判然としない形に歪んだ。泣いている、ように見えなくもない。
「まあ確かに、お前に助けられたのは事実だよな。だからお礼をしに来てやったんだよ。お優しい葛城の若様、助けてくれたお礼に教えて差し上げますよ……1番嫌いな奴に助けられるってのが、どういう事なのかをなぁあああああッ!」
「松虫……私から貴方に言える事は、今はとりあえず1つだけだ」
黒土麿がとりあえず胸ぐらを放してくれたので、清春は松虫の方を向き、会話をする事が出来た。
「空から式鬼たちを……まさか郷全体にばらまいて来たのではあるまいな」
「さて……どう思う?」
松虫は笑った。これほど醜い笑顔を、清春は見た事がなかった。
答えは、すぐに明らかになった。
悲鳴が、郷の方から聞こえて来る。郷人たちの悲鳴だった。
物を壊すような音も聞こえて来る。鉞が民家を破壊する音だ。
「松虫……貴方は!」
清春が怒り叫んでいる間に、白彦が行動を起こしていた。
獣の速度で駆け出し、牛頭や馬頭の間を敏捷に走り抜け、郷の方へと向かっている。
「ちっ……犬神って本当、足だけは速いよな。ここでまとめて殺してやるつもりだったけど」
松虫が、舌打ちをした。
「まあいい、まずはお前ら始末してやるよ。いい気になってる馬鹿鬼と、そいつがいないと何も出来ないエセ鬼遣い! それに身の程知らずな山賊風情……何だ、お前も鬼だったのか? まあ何でもいいけど、まさか昨日の戦いで僕に勝ったとか思ってるワケじゃないよなあ! 僕が本気出したらお前らがかわいそうだから昨日は逃げてやったんだよ、いい気になるなカスが! ゴミが! クズが!」
「ふうむ……また1つ、人間というものを知ったぞ」
黒土麿が、何やら感心している。
「いやはや、実に勉強になるものよ」
「……清春殿、だから私は言ったのです」
緋吹童子が、本当に嘆かわしそうにしている。
「生きている限り、松虫殿はこんな様を晒し続けなければならないのですよ……貴方は本当に、残酷な方だ」
鬼たちの前で人間の恥を晒している事を自覚せぬまま、松虫はなおも得意げに語る。
「見せてやるよ、僕の本気を。僕が本気で作り上げた式鬼を見るがいい……ふふ、紹介するよ。下泉国の国司、葛城隆芳殿さ」
隆芳などという親族を、清春は知らない。
自分と同じく、大八嶋に腐るほどいる葛城一族の1人であるという事がわかるだけだ。
問題は、その葛城隆芳なる人物が一体どこにいるのか、という事だ。
松虫は紹介などしているが、彼の傍らにいるのは、まるで臓物や寄生虫の群れが人型に固まって翼を生やしたかのような、おぞましい生き物だけである。
醜悪に膨れ上がったその巨体が、ぶよぶよと肥えた足で1歩べちゃっ、と踏み出した。
巨大な腫れ物にも見える頭部が、ざっくりと裂け、そこから牙と舌が現れる。続いて、言葉が発せられる。
「て……つ……マムシ……ぃいぃ……」
「ほう、これはこれは」
黒土麿が、少しだけ驚いた。
「確かに下泉守殿……しかしまあ、その様は一体何となされた」
「人を……」
息が詰まりそうなほどの怒りが、清春の声を震わせる。
「人間そのものを……式鬼の材料としたのか、松虫……!」
「僕はただ、国司殿の心の内にあったものを表に出して差し上げたまで……葛城一族の連中なんて、本性はこんなもんだって事だよ」
おぞましい式鬼と成り果てた下泉守隆芳を、思いきり蹴り付けながら松虫は叫ぶ。
「……お前だってそうだろぉー葛城清春! ええおい?」
「そう……かも知れない……」
己の内にある、醜悪な嫉妬心。おぞましい独占欲。
それらがもし目に見えるものとなって外に出たら。今の下泉守よりも醜悪なるものが出来上がってしまうだろう、と清春は思う。
「決めたよ葛城清春……お前は、殺さない」
松虫は呻き、そして叫んだ。
「お前は式鬼の材料にしてやる……さぁて、どんな滑稽なバケモノが出来上がるかなぁーふふっ、あっははははははは他の奴は死ねえええええええ!」
号令を受けて、式鬼たちが一斉に動いた。
少数の馬頭に率いられた牛頭の集団が、全方向から襲いかかって来る。
襲撃の中へと自ら踏み込んで行きながら、
「死ね……とおっしゃいますか、松虫殿」
緋吹童子が、右手を振るった。
その右手に炎が生じ、燃え上がりながら剣の形を成し、弧を描いて一閃する。
牛頭の生首が4つ、5つ、宙を舞いながら焦げ砕けた。
「死ぬのは、貴方の方かも知れませんよ。その覚悟があっての台詞なのでしょうね」




