第7話
5本目の大蛇が、切り落とされて地響きを立てる。
弱々しくのたうち暴れていた5つの生首と巨大な胴体が、やがて縮み、切り刻まれた紙片と化して風に舞った。
清春は、言葉を失っていた。
この鉄マムシという男、人間でありながら、もしかしたら緋吹童子とも互角に戦えるのではないか。
「こ……こんな……こんなぁ……」
驚愕に引きつっていた顔を恐怖に青ざめさせ、松虫が後退りをする。
そこへ鉄マムシが、式鬼大蛇の血にまみれた太刀を揺らめかせつつ歩み迫る。
「さて、それでは頭を撫でてやろう。頭蓋が潰れ砕けるほどになあ」
「ひ……っ……!」
松虫が、か細い悲鳴を漏らす。
清春は駆け出した。緋吹の言う通り、もはや見てはいられなかった。
「ま、待ってくれ鉄マムシ殿」
「ほう。同じ鬼遣い同士、庇い合いをなさるか」
鉄マムシの顔が、ギロリと清春に向けられる。
「その松虫殿、生かしておけば、この鉄マムシにまた要らぬ喧嘩を売ってくるであろう。何しろ国司殿に雇われておるらしいでな……その要らぬ喧嘩に巻き込まれて、この郷から人死にが出ないとも限らぬ。ここで殺しておかぬ理由はない、という事くらいはおわかりの上で庇っておられるのだろうな? 清春殿とやら」
「無論だ。私の方が道理に合わぬ事を申し上げている」
清春は身を投げ出すように跪き、鉄マムシに向かって頭を下げた。
「それは承知の上で、お願いする……松虫を、見逃していただきたい」
「おやめなさい清春殿!」
緋吹が、怒り出した。
「私を遣っておられる方が、頭など下げてはなりません。それも松虫殿ごときのために」
怒りに強張った赤銅色の美貌が、松虫の方を向く。
「松虫殿、やはり貴方には死んでいただきます。私がこれ以上、惨めな気分になる前に」
「いっ緋吹どの、どうかお待ちを」
丸彦が、それに白彦が、割って入って来た。
「ほら松虫とかいうの。清春が頭下げてるんだから、お前も謝れよー」
無理矢理に頭を下げさせるべく、白彦が片手を伸ばす。
その手から、松虫は逃げ出していた。捨て台詞を吐く余裕もかなぐり捨てて、弱々しく走り去って行く。
白彦なら一跳びで追い付いてしまうであろう、貧弱な脚力である。
「こら待てぇー!」
それを実行しようとする白彦を、緋吹が止めた。
「放っておきなさい……少しでも気にかけてあげたら最後、際限なく図に乗ります。松虫殿は、そういうお人です」
「見逃すのか、緋吹童子」
鉄マムシが声をかける。
清春は立ち上がり、思わずまじまじと鉄マムシの方を見た。
この人間の大山賊は、やはり緋吹童子と旧知の間柄なのであろうか。
「殺すと言った相手は必ず殺す。それが鬼というものではないのか?」
「私の主たる鬼遣い殿が、殺すなとおっしゃるのでね……貴方こそ、郷を守るために殺しておくべき者を、見逃すのですか?」
「人間を、少し試してみようという気になったのでな」
自分など入り込めない、旧知の仲なのであろうか。
思いかけて、清春は頭を横に振った。
(馬鹿馬鹿しい……私は一体、何を考えている)
緋吹は鬼である。若々しい姿のまま、人間である清春よりもずっと長く生きている。自分の知らない交友関係など、いくらでもあるに決まっている。
そう思いながらも清春は、訊いてしまった。
「緋吹は、鉄マムシ殿と……知り合い、なのか?」
「私は知りませんよ」
緋吹は即答し、付け加えた。
「……鉄マムシなどという名の人間は、ね」
どういう意味なのか、と訊こうとした清春の肩に、ぽんと手が置かれた。
鉄マムシの左手だった。
「貴殿の事も、いずれ試させてもらう。緋吹童子が仕えるにふさわしい者であるのか否かを……な」
蛇の如き傷跡を這わせる顔面が、ニヤリと凶猛に歪む。
強靭な五指が、清春の細い肩をグッ……と掴む。
その気になれば自分の身体など素手で引き裂いてしまう力だ、と清春は感じた。
宴が開かれた。
羆谷の郷のあちこちで篝火が焚かれ、夜なのに昼のようである。
郷を攻めた式鬼の群れを無事に撃滅出来た、その祝いの宴だ。
たけなわは過ぎ、山賊たちも郷民も、今は郷のあちこちで、穏やかに談笑しながら酒を飲み、肴を喰らっている。もちろん陽気に騒いでいる者も、いないわけではないが。
暗がりで絡み合う男女の姿も、ちらほらと見られる。
皆、鉄マムシという強大なる頭領が力によってもたらしている平和を、満喫しきっているのだ。
まったく人間とは気楽な生き物だ、と緋吹は思う。
(別に悪い事とは思いませんが……ね)
大木にもたれて立ったまま緋吹は、ちらりと睨みつけた。地面に座り込んで1人ちびちびと酒を飲む、鉄マムシ本人の姿を。
郷の広場と森林の、境目のような所である。
鉄マムシはここで1人、酒杯を傾ける事が多いらしい。
酔っ払った郷人たちの陽気な喧噪が、遠くから聞こえて来る。
のんびりと聞き入りながら鉄マムシは、川魚の干物をバリバリとかじり、それを酒で流し込んだ。
子供が1人、あぐらをかいた鉄マムシの太股を枕にして、すやすや寝息を立てている。
3、4歳くらいと思われる、幼い男の子。どこかで飲んだくれている親と、はぐれてしまったのだろう。
その子の頭を軽く撫でてやりながら鉄マムシは、緋吹の方を振り向かずに言った。
「およそ300年ぶりか……変わりないようだな、緋吹童子」
「貴方は変わりましたね、黒土麿」
鉄マムシなどと名乗り人間に化けている鬼を、緋吹は本名で呼んだ。
「一目見て、わかりませんでしたよ。その顔の傷は一体、何としたのです」
「300年の間に、いろいろとあってな」
「……そのようですね。あれほど人間という生き物を嫌っていた貴方が」
眠る子供の頭を優しく撫でる黒土麿の手を、緋吹は信じられない思いで見つめた。
悪鬼・黒土麿の手は、人間を愛撫するためではなく叩き潰すためにあったはずだ。300年前は。
「事もあろうに人間に化け、人間たちを守っている……一体何の戯れなのか、ぜひ聞かせていただきたいものですね黒土麿殿」
「戯れ……か。俺なりに真剣に考えた末の行動なのだがな」
黒土麿は苦笑した。
「むしろ俺の方からも訊いてみたい。緋吹童子よ、貴様は何故人間などに仕えている? 我らが1発殴れば死んでしまう脆弱なる者どもの、どこに仕えるほどの価値を見出しているのだ」
「……私が言葉で語ったところで、貴方に理解出来るとは思えませんね」
「その通り、俺も言葉で教えてもらおうとは思わん。だから自分で確かめているのさ。人間どもに、果たしてどれほどの美点があるのか。貴様ほどの鬼が、人間どものどこを気に入って、使役される身分に甘んじているのか……鬼を遣う、などという身の程知らずな行いを、まあ許してやっても良いと思えるほどのものが、果たして人間どもにあるのか」
「それを調べ確かめるために、人間に化けていると。そして多くの人間を守護・統率しつつ観察していると。そういうわけですか」
「そういうわけだ」
鉄マムシ……黒土麿はもう1度、子供の頭を撫でた。
この子は今、黒土麿に、生殺与奪の権を全て握られている。
いや、それはこの郷に住まう人々全てに言える事だ。
全員、この黒土麿の気まぐれで生かされているのだ。
この鬼がその気になれば、郷のみならず羆谷周辺の村々は、たちどころに皆殺しの憂き目に遭う。
明日にでも黒土麿が、その気にならないとは断言出来ないのだ。
緋吹は、じっと目を凝らした。
鉄マムシの頭に、いつの間にか2本、禍々しいほど鋭利な突起が生じている。
鬼族の証……角、である。
「今日まで観察を続けてはみたが……ふん、まったく人間という連中は」
子供の頭に片手を置いたまま黒土麿が言いかけた、その時。
「鉄マムシの親分! じろ坊の親父を連れて来ましたぜ」
何人かの山賊が、1人の男を伴って来た。
赤ら顔の、酔っ払いである。
酔っ払っていても、自分の息子の顔くらいはわかるようだ。黒土麿の膝で眠っている男の子を見て、声を上げている。
「おおお、じろ坊! こんなとこにいたんかぁー」
「いたんかぁー、じゃねえだろ」
黒土麿が、じろ坊と呼ばれた子供を抱えて立ち上がり、酔っ払い男の頭を小突いた。
「酔っ払って子供どっかに置き忘れるたぁ……まったく、親として先の思いやられる野郎だぜ」
「うへぇ……」
とてつもない手加減をしているのは間違いない。この鬼が普通に小突いたりしたら、頭蓋骨が陥没する。
そんな目に遭う事なく、じろ坊の父親は、赤ら顔のまま恐縮している。
夜でしかも酒が入っているせいか、鉄マムシの頭に角が生えている事になど気付いていない様子だ。
「まさか鉄マムシ親分に、じろ坊を拾っていただけるたぁ……面目ねえ、けどありがてえ事っす」
「俺も酒飲みだから偉そな事ぁ言えねえが、酔っ払うのも程々にしとけ」
大親分・鉄マムシの口調で説教をしながら黒土麿は、寝息を立てているじろ坊を、父親に帰してやった。
「今度こんな事があったら、てめえ酒禁止にするからな」
「へへえ、心いたしやす……おお、ごめんなぁじろ坊。本当ごめんなあ」
「ほらほら、よく寝てんだから起こすんじゃねえよ」
おかしな夢でも見ている気分に、緋吹はなった。
凶猛なる悪鬼・黒土麿が、人間たちと仲良くしている。人間の守護者を、立派に務めている。
(こんな事が……あるのでしょうか? 実光殿……)
この世にいない鬼遣いに、教えを請いたい気分だった。
眠っている我が子を抱き、何度も頭を下げながら、酔っ払い男が山賊たちに付き添われて去って行く。
見送りつつ、黒土麿は言った。
「まあ見ての通り……人間という輩、そこそこ可愛げのある生き物だという事はわかってきた。守ってやっても良い、と思えなくはない。だが仕えるほどのものか?」
「……わかりはしませんよ、貴方にはね」
黒土麿は自分より強いのだろう、と緋吹は思った。束縛してくれる者のいない自由に、何百年でも千年でも耐える事が出来る。
「そうか、俺にはわからぬか……やはりなあ」
黒土麿は壺を口につけて傾け、残った酒を一気に呷った。
そして1つ、息をつく。
「では試してみるしかあるまいか……あの葛城清春とやらいう青瓢箪、本当に緋吹童子を下僕の如く扱うにふさわしい者であるのか否か」
その言葉が終わる前に、緋吹は動いていた。
攻撃を念ずる。
いや、意識的に念じようとしなくとも、猛々しい思いが勝手に沸き上がって来る。
それが炎となって、右手に発現した。
炎の剣。黒土麿に向かって、荒々しく一閃する。
凄まじい激突音が、夜闇に響き渡った。大量の火の粉が、飛び散って消える。
黒土麿が太刀を抜き放ち、炎の斬撃を受け弾いていた。
2人の鬼が、弾け合ったように跳びすさって距離を開く。
そして、各々の得物を構えて対峙する。
「相変わらず不意打ちの下手な奴よ……殺気が丸見えではないか」
抜き身の太刀をギラリと揺らめかせて、黒土麿が不敵に笑う。
「その燃え上がるような殺気……ふふ、懐かしいものよ。鬼遣いなどという要らぬ衣で隠していたものを、ようやく少しは見せてくれたな緋吹童子よ」
「黒土麿……私から貴方に言える事は今のところ、1つだけだ」
際限なく燃え上がって巨大化してしまいそうな炎の剣を懸命に抑えながら、緋吹は言った。
「清春殿に、つまらぬ事はするな。あの方の身に何かあったら……私はお前を殺す。この羆谷もろとも、焼き滅ぼしてくれる」
「……わかった。わかったよ、そう恐い顔をするな」
ふっ……と黒土麿が微笑んだ。
蛇のような傷跡があっても、それは昔の黒土麿の笑顔だった。
「確かめてみただけだ。お前が本当に、あの人間の鬼遣い殿に全てを捧げているのか……そうしながらも俺に、少しくらいは未練を感じてくれているのか」
「黒土麿……」
緋吹の心で、微かな痛みが疼いた。燃え上がっていた攻撃の念が、薄らいでゆく。
右手で構えた炎の剣が、風に吹かれた灯火の如く消えた。
太刀を鞘に収めつつ黒土麿が、俯き加減に微笑する。
「緋吹童子よ、お前は本当に爽快なほど未練を抱かぬ奴……見ての通り俺は、貴様に未練たらたらだと言うのにな」
「黒土麿、貴方は……ッッ!」
緋吹の声が、息が、詰まった。
唇に、生暖かく嫌らしい感触が貼り付いて来る。
黒土麿の、唇だった。
近くの木陰で、茂みがガサ……ッと鳴った。
舌が、蛇の如く這入って来る。黒土麿の熱い舌。緋吹の白く美しい牙を、嫌らしく舐め回す。
その舌を噛みちぎるのは勘弁してやる代わりに、緋吹は右の拳を、黒土麿の腹に思いきり突き込んだ。
「ぐっ……ぇ……ッ」
潰れたような悲鳴を漏らしながら、黒土麿の唇が離れて行く。
緋吹は左手で、己の唇を拭った。
そして、腹を押さえて倒れ込んだ黒土麿に言葉を投げる。
「……酒臭いのですよ、貴方は」
「ぐぅっ……ふ……ふふふ、やはり変わらんなぁ緋吹よ。俺が少し拗ねて見せただけで、あっさり油断してしまう」
苦しそうに、黒土麿が笑う。
緋吹は笑いもせず、近くの木陰に向かって、つかつかと歩いた。
そして、茂みを掻き分ける。
犬神が2匹、そこにいた。
「ぼくは岩なのです」
「俺は木だー」
小さく丸まって頭を抱える丸彦と、何やらおかしな立ち方をしている白彦。
両者の首根っこを、緋吹は左右それぞれの手で掴んだ。
「まったく本当に……命知らずの仔犬たちである事よ」
「ふわわわわ、おっお許しを」
「なっ何か喧嘩してるから、気になったんだよー」
緋吹に掴まれたまま白彦が、黒土麿の方を見る。
「鉄マムシどのも、鬼だったんだなー」
「……郷の連中に言いふらしてくれるなよ」
黒土麿は立ち上がり、犬神の兄弟に牙を見せて微笑みかけた。
「別に、知られて困るような正体でもないがな……それにしても犬神とは、鬼よりも人間よりも油断ならん生き物よ」
「えへへ、それほどでもないぜー」
「兄者、鉄マムシ殿はきっと褒めて下さったわけではないのです」
「いやいや、褒めているとも。緋吹童子殿は実に楽しいお仲間を引き連れておられる」
にこやかに牙を剥きながら黒土麿が、左右それぞれの手で犬神2匹の頭を撫でる。
撫でられた白彦が、暢気に喜んでいる。
「鉄マムシどのと緋吹どのは、仲悪いのかなー? でも仲直り出来たみたいで良かった良かった」
「おうよ。俺と緋吹童子は、昔から大の仲良しなのさ。どのくらい仲良しなのかと言うとだな」
「……やめなさい黒土麿。いたいけな仔犬どもに、おかしな話を吹き込まぬように」
右手で白彦を、左手で丸彦を捕まえてぶら下げたまま、緋吹は溜め息をついた。
見られてしまったものは仕方がない、と思う事にした。
別に、隠し立てするような話ではないのだ。自分と黒土麿の、遥か昔の関係など。
足音が近付いて来た。軽く弱々しい、人間の足音。
「……何だ。皆そろって、こんな所にいたのか」
清春だった。
「何か、込み入った話でもしていたのかな? 白彦がいるから、そんな事はないと思うけれど」
「清春殿、この2匹をどこかへ繋いでおきなさい」
両手で捕まえた白彦と丸彦を、緋吹は清春の方へと差し出した。
「貴方は飼い主なのですからね。もう少し責任を持っていただかねば困ります」
「つ、繋ぐのは勘弁してくれよー」
「……また何か、盗み聞き覗き見をしていたのか」
清春は苦笑した。
「しかも今度は白彦まで一緒になって。一体何を覗き見ていたんだ」
「おお清春、緋吹どのと鉄マムシどのがなー」
「兄者兄者、問題なのです」
丸彦が、慌てて言った。
「桃が9つ生りました。山からお猿がやって来て、4つ食べてしまいました。カラスが飛んで来て2つ盗んで行きました。残った桃はいくつでしょう」
「何ー、お猿の奴が4つも食べちまったのかー」
腕を組んで考え込んだ白彦を、緋吹は清春の方へと放り出した。
「あいつら食い意地張ってるからなー。しかもカラスまで飛んで来て、えーと。大変だ清春、桃が7つも食べられちゃった。4つしか残らないぞー……あ、でも4つあれば俺と丸と清春と緋吹どので」
「残念ながら私の分はないようだな。白彦、もう1度最初から考えてみようか」
清春が地面に座り込み、同じように白彦を座らせて、難問の解き方を教え始めた。
「いいかい、桃が9つある。猿が4つ食べてしまった。この時点で残りはいくつなのか、まずそこから考えてみようか」
「えーと、9つから4つなくなって……3つかなー?」
「惜しい。この時点では、まだ3つではないんだ」
算術に没頭し始めた2人、あるいは1人と1匹を見やりながら、緋吹は丸彦の小さな身体を、目の高さまでつまみ上げた。
「……機転を利かせたつもりですか?」
「だだだ誰にも言わないので、どうかぼくを食べないで欲しいのです……」
首根っこを掴まれたまま丸彦が、小さな両手を握り合わせて、大きな両目をうるうると波打たせる。
ふん、と緋吹は軽く鼻で嘲笑った。自身に対する嘲笑だった。
清春に、知られずに済んだ。
それに一瞬でも安心してしまった自分が、情けなかったのだ。