第4話
下泉の国司は葛城隆芳という、葛城の家柄以外には何の取り柄もない中年男だった。
だらしない小太りの肉体を、一応はきっちりと束帯に包み、貴族の正装をしてはいる。
が、弛んだ顔から滲み出る品性の悪さは隠しようがない。
そんな下泉守・葛城隆芳が、国司の館の廂に立って庭園を睨み、怒り喚いている。
「滝岩村が鉄マムシめの支配下に入ったと! そう申すのか! うぬら、それを黙って見ておったのかああああっ!」
役人が1人、庭園でただひたすら平伏している。
「も、申し訳ございませぬ。鉄マムシ配下の者どもの動きが思いのほか速く……我らが気付いた時には、村に入り込んでおりました。そして滝岩の村人たちを人質として、我が軍に退去を強いたのです」
「人質、ね……ものは言いよう、とはまさにこの事」
隆芳の傍らで廂の上に座した若者が、冷ややかな声を出す。
歳の頃は20歳前後。華奢な身体を直衣に包んだ、一見すると下級貴族の若君である。
整った顔立ちは、しかし冷たく険しく、そして暗い。
名を、松虫という。
育ての親、高野実光が付けてくれた名だ。
生みの両親が付けてくれた名前など、もう忘れてしまった。
「要するに、村人たちが総意で鉄マムシの兵隊を迎え入れ、滝岩村の守りを委ねたという事でしょう。国司殿は頼むに足りず、という事です……ま、あんな事をしていれば当然でしょうね」
松虫が言うと、下泉守隆芳の顔面が、さらに醜く見苦しく怒りに歪んだ。
その滑稽な顔が、松虫を睨む。
「私のこの仁愛を旨とする政に、何か不備があったとでも言うのか……!」
「仁愛? 欲望とか劣情とか言う事はあっても、仁愛とは言いませんよ。貴方のは」
滝岩村の若い娘たちには見目良い者が多く、美人の村として近隣の評判となっていた。
それを聞きつけた葛城隆芳が、国司の権力を濫用し、村の娘20名を側室として差し出すよう滝岩村に命じたのである。
かくして滝岩の村人たちはその命令を拒絶し、鉄マムシ一党に保護を求め、村ぐるみでその支配下に入ってしまったというわけだ。
同じような経緯で鉄マムシに併呑されてしまった村は、いくつもある。
全て、この愚かな下泉守が自ら招いている事態なのだ。
だが葛城隆芳本人は、この調子である。
「ひなびた生活しか出来ぬ田舎の娘たちに、都の姫君のような暮らしをさせてやろうと言うのだぞ? それが何故悪いか! どいつもこいつも物をわかっておらぬ愚か者ばかり、殺せ! 鉄マムシ共々、皆殺しにしてしまええええええ!」
(これが、葛城一族……)
松虫は冷笑した。
これが、こんなものが、摂関家として興代朝廷を牛耳り、大八嶋48カ国に君臨して支配者面をしている葛城一族の、真の姿なのだ。
(わかっておられなかった……わけではないでしょう? 老師。葛城一族など、このような愚物ばかり。あやつとて同じ……!)
冷笑しながら松虫は、ギリ……ッと奥歯を噛んだ。
今は亡き老師・高野実光の下で、共に鬼遣いとしての業を学んだ若者がいる。松虫の、弟弟子である。
葛城の本家筋に近い若君でありながら、自分は他の葛城一族とは違う、などと気取った顔をしていた、実にいけ好かない弟弟子だった。
(お前だって、この愚か者と本質は同じだろうが……葛城清春!)
「滅ぼせ! 殺せ! 今すぐ軍を編成し、羆谷を攻めるのだ! 鉄マムシめを捕え、手足を切り落として這い回らせよ! 早くせぇええええええいッッ!」
「そ、その事に関しまして1つ、良き知らせがございます」
庭で平伏していた役人が、少しだけ誇らしげに顔を上げた。
「実は鉄マムシめが、たった1騎で羆谷を出たとの事」
「1騎とな……配下の山賊どもを、引き連れてはおらんのか?」
「理由はわかりませぬが単身、下泉国西部方面へ向かったとの確かなる知らせでございます。実は先頃、侍所の葦崎三郎めに軍兵200を率いさせ、討伐に向かわせたところでありまして。もう間もなく、鉄マムシめの生首が届く頃でございましょう」
侍所とは読んで字の如く、武者や兵士たちの詰め所である。
「ば、馬鹿者! 生首にして何とする、生きたまま捕えんか! 私の目の前で五体を牛に引かせながら腹を裂き、臓腑を引きずり出さずに何とする!」
小太りの身体をどたどたと見苦しく踊らせ、隆芳は興奮している。
この愚かな下泉守の、世話になっていると言うか、逆に世話をしてやっていると言うべきか。とにかく松虫がこの国司の館に食客として逗留するようになったのは、2月ほど前からである。
その頃、ここ下泉国は戦の最中にあった。
国司・葛城隆芳が、鉄マムシ討伐のため、感心にも自ら大軍を率いて羆谷を攻めたのである。
そして、大いに敗れた。
国司側は、兵力が自軍の10分の1にも満たぬ鉄マムシの軍勢に翻弄され、さんざんに打ち破られたのだ。
下泉守隆芳自身も、逃走の最中に鉄マムシ軍の追撃隊に捕捉された。
馬にも乗れず、兵たちに輿を担がせ、その兵たちにも見捨てられて放り出された葛城隆芳を、たまたま通りがかった松虫が助けてやったのである。
鬼遣いとして修得した業を1つ2つ見せつけてやっただけで、鉄マムシの兵たちは恐れをなして逃げ去ったものだ。
(あれと同じ事が出来るか、葛城清春……緋吹童子がいなければ何も出来ない、お前なんかに……!)
この場にいない弟弟子に対する憎しみが、松虫の心の中で燃え上がる。
その時。下級の役人がもう1人、庭園に飛び込んで来た。
「も、申し上げます国司様! 兵200を率いて鉄マムシ討伐に向かいましたる葦崎三郎、その……討ち死に、いたしました」
「な、何……!」
隆芳の弛んだ顔が、驚愕と怒りで強張った。
駆け込んで来た役人が、報告を続ける。
「単身で行動中と思われておりました鉄マムシめが、実は単身ではなく、腕の立つ者どもを護衛に引き連れており……兵200のうち30名近くが、この護衛どもに殺められております」
「う……ぬぬ……逆賊めに与して私に刃向かう愚か者が、まだおるか……」
怒りのあまり言葉を詰まらせかけている国司に代わり、松虫が言った。
「そろそろ僕の出番かも知れない、という事だね……その腕の立つ護衛というのが一体どういう輩なのか、少しは情報があるのかな?」
「はっ……兵どもの話によりますと、1人は犬神。これが猿の如き軽業を使う者でございまして」
役人が、松虫の問いに答えた。
「もう1人は、その……松虫殿と同じく、鬼遣いを名乗る者にて」
「おい言葉に気をつけろおおおおっ!」
喉がひりひり痛むほどの怒声が、松虫の身体の奥から迸り出た。
「僕は鬼遣いを、名乗ってるわけじゃあない! 僕が、僕こそが! 真の鬼遣いなんだよおおおおおッッ!」
庭で這いつくばる役人2人が、平伏したまま地面に貼り付き、潰れて広がった。
2人の上に、それぞれ1体ずつ、巨大な生き物が着地したところである。
2つの、筋骨隆々たる巨体。
直立して人間の体型に近付いた牛、というのが最も近いであろうか。
そんな人型の猛牛が2頭、鉄槌のような両足の蹄で、役人たちの潰れた屍をさらにグッチャグッチャと踏みにじる。松虫の怒声に、合わせてだ。
「本物! これが本物なんだよ! わかったか、わかったか! わかったのか! わかったのかよ、ええおい!」
まるで敷物のようになった死体を、人牛2頭が地面から引き剥がし、思いきり破いて捨てる。様々な汚らしいものが飛び散った。
松虫は、少しだけ冷静になった。
「……いけない、いけない。またやってしまった……可愛い式鬼たちに、人殺しをさせてしまった。でも役人なんて1人2人死んだって構いませんよね? 国司殿」
あんなに怒っていた下泉守隆芳が、今はすっかり青ざめて静かになっていた。廂の上で尻餅をつき、鯉のように口をぱくぱくさせている。
松虫は冷たく微笑みかけ、さらに言った。
「1人でやれる仕事を3人4人でダラダラとこなし、無駄に高い俸給を取る……それが貴方がた役人という生き物ですからね。でも国司殿、貴方だけは殺さずにおいてあげます。貴方を見ていると、実に楽しい気分になれますから」
人間の体液にまみれた蹄で、式鬼2匹が、庭から廂へと上がり込む。
そして、固まっている下泉守の周りをうろうろと歩く。
生きた心地もしない様子で、葛城隆芳が細い悲鳴を漏らした。
松虫は笑った。
「そう、それ! もっと見せて下さい、葛城一族の下衆で無様なる本性をね!」
葛城一族など、こんなものなのだ。弱い者からは搾取する。強い者に対しては、ただ怯えるだけ。
「お前も、お前も同じだろうが葛城清春! ええおい?」
笑いながら、松虫は奥歯をギリッ……と噛み締めた。
緋吹童子は結局、自分ではなく葛城清春を選んだ。高野実光も、それを認めた。
結局は葛城一族におもねる道を、あの老師は選んだのだ。
「だがな、僕にはもうお前なんか必要ないんだよ緋吹童子……それを証明してやる」
松虫は立ち上がった。立ち上がれぬ下泉守を見下ろし、言い放った。
「鉄マムシは僕が討伐して差し上げますよ国司殿。僕の力で、貴方の地位を守ってあげます。だからしっかりと僕の後ろ楯を務めて下さいよ」
こんな下衆な男でも、葛城の権力者である事に違いはない。
だから利用し、踏み台にする。
そして鬼遣い・松虫の名を、大八嶋全土に知らしめる。
葛城という家柄しか誇れるもののない、あの能無しな弟弟子との違いを、証明してやるのだ。
そうすれば緋吹童子も葛城清春を見限り、松虫のもとへ戻って来るかも知れない。
いや、絶対に戻って来る。
「だけど僕は、もうお前なんか相手にしてやらない! 悔しいだろう? 悲しいだろう緋吹? ざま見るがいい馬鹿鬼! お前なんか一生泣いてればいいんだよおおおおおお!」
松虫の笑い叫びが、国司の館に寒々しく響き渡った。
羆谷とは元々、下泉国南西部にある峡谷地帯のみの地名であった。
そこを根城としていた小規模な山賊の一団が、ある時、鉄マムシという強力な統率者を頭目に戴き、急速に勢力を拡大して、羆谷周辺の村々をことごとく支配下に置いた。
無論、武力によってだ。
鉄マムシ討伐のために派遣された国司の軍勢、のみならず無辜の村人たちからも、大勢の死者が出た事だろう。
だが生き残った村人たちは、それまで国司に税として納めていたものを鉄マムシに貢ぐ事によって、いくらかはましな生活を手に入れたようである。
今では、それら村々から成る下泉国南西部一帯が羆谷と呼ばれ、鉄マムシの支配領域となっていた。
とは言っても彼による完全な独裁が行われているわけではなく、何名かの幹部による会議で決められた事を、鉄マムシと言えど無視は出来ないようであった。
荷車に積まれて羆谷に連行されて来た山賊25名が、その会議で正式に裁かれた。
結果、25名全員に3年間の強制労働が課せられた。
農作業、土木工事、そして戦……羆谷で行われる全ての作業において、最も過酷な部署を、この25名は集中的に割り当てられる事になる。
その働きぶりによって、3年という刑期が縮んだり伸びたりするようだ。
妥当なところであろうか、と清春は思った。
白彦と丸彦による懸命な弁護が功を奏した、のかも知れない。
この兄弟のどちらかが怪我でもしていたら、清春は、少なくとも10年の刑期を主張していただろう。
幸いそんな事にはならず、白彦も丸彦も無傷のまま、郷の子供たちと一緒に走り回っている。
羆谷の山塞を中心とする、鉄マムシ直轄の郷である。
大自然の恵みと過酷さが同居する渓谷地帯の一部が切り開かれて、郷と呼べる大規模な村落が出来上がっているのだ。
郷の人々は、この貧乏貴族と犬神の少年2人から成る怪しげな一行を、鉄マムシの招いた客人というだけで無警戒に迎え入れてくれた。
特に子供たちは、犬神の兄弟とすぐに仲良くなった。
郷の広場で、子供たちが、白彦と一緒にはしゃいでいる。白彦を追い回しているのか、白彦に追いかけられ逃げ回っているのか。
いつもにも増して楽しそうな犬神の少年を、清春は、少し離れた所から見守っていた。
「まったく兄者は、頭の中身が子供だから」
疲れた様子で丸彦が、清春の近くに来た。
「どこへ行っても、子供たちと仲良くなってしまうのです」
「どんな子供にも合わせられる、大人の部分があるという事さ。君の兄上には」
特に小さな1人の子供が、白彦に肩車されつつ、目の前にある獣の耳を楽しそうに弄っている。
他の子供たちも、はしゃぎながら白彦の尻に付きまとい、ふっさり豊かな尻尾を触り回している。
見物しつつ、清春は笑った。
「うちの緋吹童子が、あんな弄り方をされたら……あの子供たちは、皆殺しにされてしまうぞ」
「そう言えば緋吹どのと清春どのは、あれから全然口をきいておられないのです……」
丸彦が心配そうに、清春を見上げた。
この羆谷の郷に来てから、2日目である。
その間、緋吹童子とは、確かに何の会話もしていない。
あの気難しい鬼は、機嫌を損ねたまま、全く口をきいてくれなくなってしまったのだ。
「……仲直りを、して欲しいのです」
「別に喧嘩をしているわけではないんだよ。まあ、よくある事さ」
こんな話も緋吹には、もしかしたら聞こえているかも知れない。
そう思いつつも構わず、清春は言った。
「あいつは、すぐに機嫌を悪くするからな。十日くらい話さなかった事もある。まったく鬼というのは、何百年生きても大人げないままの生き物でね」
「……鬼族の方が、人の生き肝をお食べになるというのは、本当なのですか?」
丸彦が、不安そうに問いかけてくる。
「緋吹どのにとっては、ぼくたち犬神も捕食対象になってしまうのですか?」
「もしそうなら君たち兄弟、とうの昔に食べられてしまっているさ。特に、丸彦は……食べやすそうだからな」
清春は、丸彦の頭を軽く撫でた。
「とにかく緋吹には、私たちと同じ食生活で我慢してもらうしかない。我慢させてみせるさ、鬼遣いとしてね」
清春の老師・高野実光は、鬼遣いの心得として語っていた。
鬼は、決して甘やかしてはならない。つけあがらせてはならない。
つけあがらせるくらいなら、頭ごなしに押さえ付けよ。それで鬼を怒らせ、殺されてしまったとしてもだ。
鬼遣いたる者、常にその覚悟を持って鬼を遣うべし。
覚悟が本物であれば、鬼は決して鬼遣いを裏切らない。
老いた鬼遣いのその言葉通り、緋吹童子は最後まで高野実光に尽くしていた。
今は、葛城清春に尽くしてくれているのだろうか。
そうだとしたら、あまり嬉しくないと清春は思う。
自分が鬼に求めているのは、尽くし尽くされる主従の関係ではなく、もっと対等な……
(……などと言ったら、君には鼻で笑われるだろうな。緋吹)
苦笑しつつ清春は、口には出さずに呟いた。
鬼遣いと鬼が、対等でいられるはずがない。力の差があり過ぎる。
鬼遣いなど、鬼に一発殴られただけで死んでしまうのだ。
今のところ清春は、緋吹童子の機嫌を何度も損ねているにもかかわらず、そういう目には遭っていない。
自分はとてつもなく運が良いのだろう、と清春は思う。
子供たちが何人か、こちらに駆け寄って来た。
「丸様、こんなところにいた!」
「ねえねえ、あたいたちと一緒においでなさいよぉ」
「わあい、丸様かわいーっ!」
女の子ばかりである。
だいたい10歳くらいまでの幼い女の子たちが、清春など存在しないかの如く丸彦に群がり、弄り回す。
「ああん尻尾、しっぽ! 尻尾が付いてる、お耳もついてる! 本物だよぉ!」
「ほんものの犬神様だよお!」
「うふふ、犬神の男の子って可愛いのに何か大人びてて素敵っ。まあ兄貴の方はバカそうだけど」
「人間の男の子なんて、バカでガキっぽくて可愛くないのばっかりでえ」
大勢の女の子に愛玩動物の如く扱われながら、丸彦が悲鳴を上げた。
「ふわわわわ、きっ清春どのー!」
「頑張れ丸彦。男の器というものが試されているぞ」
応援の言葉を残し、清春は丸彦に背を向けて歩き出した。
もてる男に対して、もてない男が助けてやれる事など、何もありはしないのだ。
興代の都では、清春の周りにも大勢の女性がいた。
大貴族の姫君や、宮廷の女官。皆、丸彦に群がった少女たちのように清春を取り囲み、ちやほやと扱ってくれた。
清春が、葛城家の若君だったからだ。
心根の卑しい女ばかりだった、などとは清春は思わない。自分には、家柄以外に彼女たちを引き付けるものがなかったというだけの事なのだ。
家柄を捨てた清春の周りに今いるのは、着飾った女性たちではなく、何も飾っていない犬神の兄弟と、そして。
「……傷の具合はどうですか、清春殿」
声をかけられ、清春は立ち止まった。
郷の広場から森へと入り込んで、少し歩いた所である。
1人の若い男が、大木にもたれかかって清春を待ち受けていた。
袖のない、虎の毛皮の衣をまとっている。
剥き出しの腕は太くはないものの、凄まじい量の筋肉が高密度で凝縮されており、清春の身体など容易くへし折ってしまいそうだ。
身体つきは筋骨たくましいながら、しなやかに引き締まっており、着用している毛皮と相まって、まるで猛虎が直立しているようでもある。
露出した両の太股は、獰猛な筋肉の塊だ。
赤銅色の肌は、日焼けしたわけではなく生来のもののようである。
じっと清春に向けられた眼差しは、剣呑なほどに鋭く、ひたむきなほどに真摯だ。秀麗な顔立ちは、気難しげに強張っている。
髪は、いかなる金細工の宝物も安っぽく見えてしまうであろう見事な黄金色。どこか炎のようでもあるその金髪をかき分けて左右2本、短刀のような角が伸びている。鬼族の証、である。
緋吹童子だった。