プロローグ
――『リンカーネイション』
それは、『PDL』と呼ばれる腕輪型携帯端末を利用した、人類初のVRMMORPGである。
『PDL』(パーソナルデジタルリンク)とは、今から十年ほど前に開発された携帯端末で、一時的に体内に『ナノマシン』を注入し、擬似的に脳内に電子空間を作り出すという機械である。
その利便性や操作の手軽さ、そしてなによりもその安価な値段設定によって、PDLは携帯やパソコンに代わる機械として爆発的に人気になった。
そして、その機械を利用したゲームも様々なものが出たが、映像に問題のあるものや、従来のものと大して変わらぬ操作性なもの、美麗な映像が売りだが、その映像の重さが原因でデータラグが起こるものなど、その殆どがユーザーを満足させないものばかりであった。
そこで満を持して登場したのが、『リンカーネイション』というゲームであった。
現実と大して変わらぬほどの美しいグラフィック。まるで眼の前に敵が存在していると錯覚するほど臨場感ある敵の動きと立体感。360度どこを見回しても違和感を感じない世界の作りこみ、そして、自分が実際に身体を動かしてキャラクターを動かしている、と思い込めるほどの緻密で繊細な操作性――そのどれをとっても革新的で、ゲーム業界を震撼させるほどの衝撃的なものであった。
輪廻転生を意味する名を冠するそのゲームは、その名の通りプレイヤーをまるで自分が生まれ変わったかのような気分にさせたのであった。
――深い森の中に、小さな泉が湧いていた。
ちょっとした公園ほどの大きさしかないその泉は、魚一つ泳いでいなかったが、その水は驚くほど澄んでおり、一見水など無いように思えるほどだった。また、その泉の中央部にはポッカリと大穴が空いており、まるで深淵の入り口を思わせるほどに底が見えなかった。泉はその穴を隠すかのようになみなみとその水を湛え、その中心部に大きな闇を映す。
そんな泉の大穴の縁に、一人の少年が立っていた。
黒髪で少し癖っ毛のある短髪のその少年は、なにやら決意を秘めた眼差しを泉の底に向けていた。
「………」
無言で泉の底を見つめるその表情からは、怒りも悲しみも見えなかったが、尋常ならざる覚悟が見て取れた。
そして、しばらく泉を眺めていた少年だったが、おもむろに自分が着ていたものを脱ぎ始めた。
いや、着ていたものを脱ぐ――というよりは、自らが付けていた『装備』を外すといったほうが正しいだろうか。
少年は、まるでどこかの騎士のように全身に鎧を纏っており、腰には見るからに玄人のそれを思わせる装飾の付いた黒い剣を提げていた。
しかし、少年は今からそこで水浴びでもするかのように、その装備をどんどん外してゆき、そしてあろうことか、今度は外した装備を泉の底に向かって捨て始めた。
苦労して手に入れたであろう鎧や、長年愛用したであろう盾、数多の敵を切り捨ててきた自らの分身とも言える剣を、少年はなんの感慨も無く、ただ作業的にポイポイと泉の中に投入してゆく。
そして――全ての装備を投げ捨てた時には、少年は簡素な革の鎧と、そこらの店で売っていそうな鉄の剣しか身に着けていなかった。
少年は、最後に首に掛けていたマフラーも捨てようとしたが、それだけはどうしても捨てられなかったのか、伸ばした手を止めて、代わりに鉄の剣をすらりと抜いた。
さきほど捨てた剣とは比べ物にならないほどお粗末なその剣を、少年はじっと眺めると、やがてその切っ先を自分の胸へと向ける。
「――……」
少年は、自分に向けたその剣に向かって、なにやら独り言を呟いた。
だがそれは、誰の耳にも届かず、深い泉の底へと沈んでゆく。
そして次の瞬間――少年は己の胸に鉄の剣を躊躇なく突き刺した。
真っ直ぐに己が心臓を狙ったその剣は、革の鎧を突き破り、肌を切り裂き、肉をズブズブと突き抜けながら、やがて心臓に達する。
「――ッ!」
少年は、まるで切腹をする武士のように意を決して、己の死が確実となる最後の一撃を深々と自分の心臓に突き入れる。全身の血を作り出していたその臓器はその一撃でズタズタに切り裂かれ、その中に貯蔵していた血液を勢いよく噴出させ、やがて泉は少年から流れた血で真っ赤に染まってゆく。
そして――少年はそのまま泉の中に倒れてゆき、深い深い大穴の底へと沈んでいった。
自らの命を自分で絶ったその少年は、薄れゆく意識の中でなにを思ったのか、その口元はどこか笑っているかのように歪んでいた。