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どうぞ服を脱いで下さい【短編】

作者: satori_kahi

 「どうぞ服を脱いでください」


 ベットが一つに奥にバスタブとマットが置いてある薄暗い部屋で沙織は男の顔を見もせずに事務的に言葉を発した。


 「俺…女の人初めてで…」

 

 九州、福岡の歓楽街…中州…


 キャナルシティに隣接した一区画にはソープランド街が拡がっている。


 その中のキャッツと言う店で沙織はもじもじする若い男の子を横目にバスタブにお湯を入れ始めた。


 「あら、じゃぁ私が貴方の最初の女性?」


 「あっ…あの付き合った事はあるんやけど…その…」


 「セックスするのが初めてなんだ?」


 こっくりと頷く男の子の前で沙織は正座をして首を少しだけ傾けた。


 「そんなに怖がらんでもよかよ」


 そっと手を差し伸べて男の子のシャツのボタンを一つずつ外して脱がせて微かに震えている身体に抱きついた。


 「初めは皆そんなものよ」


 男の子の耳元で囁いた沙織はふと横にある鏡台に映る自分の顔が目に入った。


 …ほんまこんなおばちゃんでいいんやろか?…


 おばちゃんと言ってもまだ28歳なのだが此処に勤め始めて5年も経つのである。


 周りはこの落ちぶれたどん底の世界から抜け出そうともがき足掻き折れた翼と心の傷を癒す為外へ飛び出していく…


 毎日毎日入れ替わり立ち代わり沙織の身体を貫いてゆく男たち…


 ただ一時の快楽の為に決して安くはない金額を払って店に足を踏み入れる男たち…


 何時からであろう…


 沙織の中でそんな男たちが可哀想に見え始めたのは…

 一言で言えば“哀れ”を感じずにはいられない自分が馬鹿馬鹿しくも思えてくる。


 「落ち着いた?」


 「うん…」


 「じゃぁブラジャー外してもらおっかな」


 悪戯な猫のような瞳を輝かせて沙織はシャツを脱いで男の子に背を向けた。


 多分…彼にとっては一生の記憶に残る出来事なのだろうから思い切り遊ばしてやろうと沙織は腹に決めた。


 「付き合ってた子とは上手くいかんやったと?」


 「東京に行って帰ってこん」


 「そう…」


 一生懸命にホックと格闘している男の子を他所にふと沙織は中学時代の事を思い出してしまった。


 校門の桜…


 体育倉庫の裏の柳の木…


 …まともな恋愛しとらんなぁ…


 煙草…バイク…男たちの群れ…


 幼少の頃より父親に暴力を振るわれ逃げるようにして飛び込んだのが不良…と呼ばれるグループであった。


 沙織の初めての男は思い出したくもない。


 だからそれを忘れようと必死に突っ張り貪るようにして男たちを受け入れていた。


 そんな中でも一回だけ…


 そう…


 一回だけ沙織は手を繋ぐのも恥ずかしくなるようなデートをした記憶があった。


 …あたしにはあれが初デートやな…


 それは中学3年生の夏休み…


 暑い暑い夏の一日の出来事であった。


 その頃はすっかり学校中でも不良の顔で通っていた沙織だったのだがそんな事全く知らない遠い親戚のお兄さん…公一がカメラ片手にふらりと家に来た時の事…


 …確か大学生やったかなぁ…


 初めて感じる何とも清々しい姿に男を知り尽くしていたと思いあがっていた沙織の心が揺れた。


 ときめいた…と言っても良いかもしれない。


 田舎娘の目の前に何の前振りもなく表れた東京育ちの青年は余りにも眩しく映ったのだろうか?


 それとも彼の立ち姿そのものに何か惹かれるものがあったのか…


 今になっても沙織には分からない心の動きであった。


 「君が噂の沙織さん?」


 玄関の前に咲いていたタンポポにカメラを向けていた青年、公一はゆっくりと立ち上がりながら沙織に話しかけた。


 「だれ?」


 見知らぬ男が玄関先に居る事に最初は何時もの借金取りかと思った沙織はゆったりと話しかけてきた公一に戸惑ってしまった。


 「初めましてかな?私は小柳公一…君の遠い親戚なんだけどね」


 「ふ~ん、でなん?」


 「ちょっと時間があったからおばさんの顔を撮ろうと思ってね寄らせてもらったんだ」


 スラリとした長身の公一の胸元には古そうなカメラが揺れている。


 「今頃やったらパチスロでも…」


 急に公一がカメラを向けてきたので沙織は慌てて顔を手で塞いだ。


 「現像したら贈るよ」


 公一の口元は涼やかに光って見えた。

 …暑かったのよね…


 沙織はやっとブラジャーのホックを外した青年に向き直って焦らすように肝心な所を見せないようにして微笑んだ。


 「触りたい?」


 「う…うん」


 「優しくしてね」


 青年の手を取り自分の胸に当てるた沙織は一瞬ゾッと悪寒が走った。


 …何時もの事…


 …大丈夫…


 …嫌…


 しかし今日の沙織は何故か何時ものように諦めた気持ちが湧かないのは何故だろう…


 …公一兄ちゃんの事思い出したからかな?…


 微かに震える手で胸を揉まれながら沙織はやはり過去のあの一時の出来事が湧いてくるのを抑えることが出来なかった。


 「へぇ~おばさんってパチンコ行くんだ」


 玄関先のタンポポを被写体にカメラに収めている公一は沙織の金髪にも紅い口紅にも動ずる事無く相変わらずゆったりとした声で話しかけてくる。


 「で、何時まで其処に突っ立っとくとや」


 「風雪に耐え…例え踏みにじられようとも野草には伸びゆく性があるものなんだな~」


 「なんや?」


 「ん、ジュースある?」


 訳の分からない事を言う公一のペースについ乗ってしまったのか沙織はつい頷いてしまった。


 「それにしても今日は暑いね」


 「だから早くどけって」

 家の鍵を取り出しながら公一の目の前に立った沙織は手が微かに震えている事に我ながら驚いていた。


 …何ば緊張せんでよかとに…


 どうせ相手はよそ者、直ぐに帰るとばかりその時は思っていた。


 が…


 「懐かしかね~ほら沙織覚えてる、あんたのオムツ替えてもらったこつあるとよ」


 母は帰ってくるなり公一に抱きつかんばかりの勢いで歓迎していた。


 …んなもん知るか…


 自分の部屋…と言っても3畳に満たない部屋にベットを無理矢理押し込んでいるので自由になるスペースは殆どないのだが…


 「あんなにはしゃいじゃって馬鹿じゃね~の」


 煙草を胸ポケットから取り出すと100円ライターで火を点けた。


 紫煙を燻らすポーズは板についている。


 まるで彼女が煙草に手を出したのではなく煙草の方から沙織に近付いていったかのようなそんな錯覚さえ覚えてしまう程細い指先に挟まれた煙草は幸せそうであった。


 襖の向こうでは母と公一が楽しそうに会話しているのが嫌でも耳に入ってくる。


 「えっ…」


 沙織が驚いたのは公一が一週間ほど家に居ると話しているのが聞こえたからであった。


 どくん…と心臓が音を立ててなったのが何故だか意味が分からなかった。


 さっさと今日来て今日変えるとばかり思っていたから驚いたのか、それとももっと違う意味で驚いてしまったのか沙織には判断が出来ない。


 ただ純粋にどくん…と心臓が鳴ったのに驚いたのである。


 今まで経験した事のない胸のざわめきに沙織は慌てて2本目の煙草を手に取った。


 …君が噂の沙織さん?…


 「どうせろくな事でも聞かされ取るんやろ」


 小さな窓から見える縁取られた空には高々と入道雲が白く光っている。


 …あたしは真っ黒なんやろうな…


 「野草…かぁ、あれってあたしの事言うたんやろか」


 同じ仲間から言われたら喧嘩ざたに成りかねない言い草だったのだが何故か今の沙織にはすんなりと玄関先に咲いていたタンポポを思い出していた。


 …あんな所にタンポポ咲いていたんだ…


 公一が見つけていなかったら多分一生気付かなかったであろうタンポポの黄色い花にふと自分自身の此れまでの苦しかった道のりを重ね合わせていた。


 「あたしも誰かに気付かれ…る訳ないやん」


 2本目の煙草を灰皿に押し付けた時に襖をトントンと叩く音がして沙織は何時も以上にビックリしてしまった。


 「入っても良いかな?」


 襖の向こうから聞こえてきたのは案の定公一のゆったりとした声であった。


 「ど…どうぞ」


 襖を静かに開ける姿に思わず沙織は見とれてしまった。


 家族の誰一人としてこんなに襖を大事そうに扱ったのを見た事がなかったからだ。


 粗暴で乱雑な毎日を送っている沙織にとってゆったりと、そして優しく接する公一に正直ペースを乱されてしまっている自分が可笑しくなった。


 襖から顔を出した公一は煙草臭い部屋でも何一つ表情変える事無く、また指摘する事も無く沙織を温かい瞳で見つめていた。


 「何か用なん?」


 「ん、暑いからジュースでもと思って」


 「持って来てくれたん」


 「はい」

 見慣れた茶渋の付いた汚いコップであったのだが公一の手に持たれていると幸せそうに見えるのは何故だろう。


 「ありがとう…ございます」


 氷の浮かぶコップを受け取りながら沙織は思わずまじまじと公一の顔を見上げてしまった。


 …別に何処にでもある顔や…


 ただ沙織に近付いてくる男たちとは何かが違っていた。


 「安心したよ」


 「えっ?」


 また訳の分からない事を言い始めた公一を目の前にして沙織はどう対応してよいのやら戸惑った。


 「過去は過去…其れに縛られていたらね」


 「ねって言われても…」


 公一はあたしの何を知っていると言うのだ…


 まだこの時は公一兄ちゃんの生い立ちを知るはずもなかった沙織はただ純粋に公一のゆったりとした言葉に反発してしまっていた。


 …まさか親に捨てられて施設で育っていたなんて…はよ言えよってね…


 飽きる事も無く胸を触り続けている青年のズボンに手を伸ばした沙織はベルトを手際よく外すとチャックをゆっくりと下げた。


 「そろそろズボン脱ごっか」


 青年の腰を少し浮かせてズボンを下ろした沙織はバスタオルを広げてパンツを脱ぐよう促した。


 「あっ…はい」


 もじもじしながらもパンツを脱いだ青年の腰にバスタオルを被せると脱ぎっぱなしになっていた青年のシャツとズボンをハンガーに掛けて自身もショーツを脱いだ。


 「お風呂で温まろっか?」


 青年の手を取って立たせるとマットが立て掛けてあるバスルームに連れて行った。


 「身体洗ってあげるね」


 後は今まで何度と無く繰返してきた事の反復…心が何処にあろうが身体が勝手に動いてくれる。


 …これでいいの…


 自分に言い聞かせながら桶に泡を活きよい良く立たせると青年の身体に泡を乗せた。


 「固くならなくてもよかとよ」


 鳥肌が立っている青年の肌を泡で包めて行きながら青年の男の子の部分に優しく手を触れた。


 「良い子ね」


 固くなった部分を丁寧に洗いながらやはり思い出すのは暑いあの日へと心が動いていった。


 公一兄ちゃんの生い立ちを知ったのは家に来た日の夕食時であった。


 両親に認知すらされなかった公一は一時期沙織の母を頼って家に居た事が分かったのだ。


 しかし、沙織が産まれて手がかかるようになると次第に居場所を失った公一は自ら役所に電話をして施設行きを望んだのだった。


 最初は止めたのだがやはり親戚とはいえ他人の子、最終的には公一の意志を尊重する形をとった。


 そんな苦労を微塵も見せずにお世話になったからと言って今日家を訪ねて来たのである。


 …あたしだったら無理…


 よっぽどのお人よしか馬鹿にしか思えないのだが公一の笑顔を見るとそうは見えなかった。


 …優しいのとは違う…


 何と表現したら良いのかこの時の沙織は言葉を知らなかった。


 今だったらはっきりと言える。


 “公一兄ちゃんは眩しかったのだ”…と


 其れでも全てを言い表した言葉とは思っていない。


 その言い表せない部分に沙織は少女のように瞳を瞬かせて引かれていってしまったのである。


 

 そう…あの暑い夏の一日…大事な大事な一時となって沙織の心の奥底に唯一温かい思い出となったあの日…

 

 それは突然訪れた。


 「沙織ちゃん、今日暇かな?」


 公一兄ちゃんが家に来て5日目…


 明日東京に帰るその前日に公一は沙織の部屋の襖越しにゆったりとした口調で聞いてきた。


 「別に…」


 「なら写真屋さんまで連れて行って欲しいんだけど…お願い出来るかな?」


 「え~っ暑いし~」


 一応は抵抗らしいものを見せなければと思いながらも身体は身の回りのものに手を伸ばしてしまっていた。


 「しょうがないなぁ」


 口から出てくる言葉と思いがこれほど違ったのは久しぶりの事かもしれない。


 「どうせ煙草なくなりそうだったし…」


 そんな事を呟きながら襖を開けた時目の前が一瞬ピカッと光った。


 「な…なにしとん!」


 驚く沙織に笑顔の公一…


 「よろしく」


 カメラを肩に移しながら公一は一言言った。










 「暑っ…」


 まだ午前中だというのに外に出るなり太陽の日差しは容赦なく二人を襲って来ていた。


 「今年の暑さは尋常じゃないね」


 ハンカチをさり気なく沙織に渡す公一はどう見ても暑そうにには見えない。


 「現像の間何処かで涼もうかな」


 歩幅の広い公一に小走りで追いかける沙織は公一の言う事など殆ど聞こえていなかった。


 「何かいった?」


 「ん、後でのお楽しみさ」


 沙織はこの暑さの中汗一つかかない公一の額を不思議そうに眺めた。


 「もう少しゆっくり歩こうか?」


 段々遅れてゆく沙織を気にしたのかふと立ち止まった公一は笑顔のまま振り向いてきた。


 「子どもじゃなか…」


 追いついた沙織は普段の不摂生が祟ったのか軽く息切れをしている。


 「そう言えば中学校の前にあった駄菓子屋さんはまだあるのかな?」


 「あ~っ、あれね…まだやっとる」


 「懐かしいよなぁ…本当に」


 公一の何ともいえない表情を見た沙織はふと思ってしまった。


 …公一兄ちゃんにとって楽しかった記憶というものは家に預けられていたちょっとの間だけだったのかもしれない…と。


 沙織は自身の苦労を一言も発しない公一兄ちゃんの姿に胸が締め付けられるような何だか訳の分からない感情がどっと湧いてきた。


 「どうしたの」


 多分…多分…多分…


 あたしと同じような苦しみを背負って生きてきたのかもしれないのに何故其処まで他に温かいのか…優しいのか。


 「分からん」


 溢れる涙を拭おうとしない沙織を暫し厳しい眼つきで見つめていた公一はちょっとだけ空を見上げるように顔を上げるとゆっくりと沙織に近付き抱きしめた。


 「沙織ちゃんも苦しかったんだね…」


 「分からん…分からん…分からんよ!」


 「そうか…分からんか…そうだな…沙織ちゃんは女の子だからもっと大変だ…」


 洗い立てのシャツの匂いに顔を埋めたまま沙織は道端である事を忘れてじっと公一に抱きしめられていた。


 …温かかった…


 暑い夏の炎天下の中不思議と沙織にはその時だけ暑さを忘れた。


 …心を抱きしめてくれたのは後にも先にも公一兄ちゃんだけ…


 失って初めて大事なものが分かっても其れは後になって実感する事だ。


 独りで生きてゆける…


 そう…


 気付いた時にはもう元には戻れない…


 「今更…」


 「えっ?」


 思わず呟いてしまった沙織にビックリしたのか青年が表情を変えた。


 「何もなかよ…それより気持ち良い?」


 「はい」


 「じゃぁ、身体流してお風呂に入りましょうか」


 シャワーヘッドを持ちお湯の湯加減を確めた沙織は青年の身体にシャワーをかけた。

 …そう今更なのよね…


 沙織の人生のターニングポイントはあの暑い二人だけで過ごした夏の一時だったのかもしれない。

 否、絶対そうだったはずである。


 「落ち着いた…かな?」


 暫く黙って抱きしめてくれていた公一兄ちゃんは肩の振るえが治まった沙織の耳元でゆっくりと聞いてくれた。


 「うん…」


 公一から借りていたハンカチで鼻水を取るとやっと沙織自身落ち着きを取り戻していた。


 「写真屋やったね…」


 精一杯の笑顔で沙織は公一に指差しながら言った。


 幹線道路を渡った先に小さな商店街があり、その中に写真屋が軒を構えている。


 「前はこんなに道幅広くなかったよね」


 「最近ね」


 「そう…か、あっ今なら渡れそうだ」


 公一は沙織の右手を取ると道路を横断した。


 …手…つないどるやんけ…


 「暑いのに走らせちゃってごめんね」


 じっと沙織はつながれた自分と公一兄ちゃんの手を見つめていた。


 その意味に気が付いたのか公一はそれ以上何も言わずに手を繋いだまま商店街に入っていった。


 …恥ずかしか~…


 内心ではそう思うのだがだからと言って自分から手を離す気などさらさらなかった。


 …何かデートみたいやんけ…


 「女の子と二人だけで歩くのは初めてだよ」


 「え~っ、彼女とかおるっちゃない?」


 笑顔のまま首を横に振る公一は沙織に視線を合わせると


 「君とが初めてだ…だから大切にしなくちゃいけないな」


 「何を?」


 「今…この刻をだよ」


 口元では笑みを湛えたままだった公一の瞳は…


 「写真屋さん着いた」


 「ん、お~う此処ですか」


 風鈴の揺れる入り口を開け2人は店内へと入っていった。


 「いらっしゃい」


 初老の奥さんが店の奥から出てきた。


 「現像をお願いしたいんですけど…今日中に仕上げるのは無理ですか?」


 「小一時間あればできるけんしんぱいいらんとよ」


 「あぁ、有難うございます」


 公一は申し込み用紙に記入して4本のフィルムを預けた。


 「一時間か…甘いものでも食べにいく?」


 「う…うん」


 沙織の金髪にぽんと手を置いた公一は幼い時の記憶を頼りに歩き出した。


 …あれっ、今度は手繋いでくれないの?…


 先に歩いていた公一が写真屋さんの前で立ち尽くしている沙織に気が付いて振り向いてくれた時の嬉しさ…


 わがままかもしれない。


 だが沙織は今まで普通の少女としての道を歩いてきてはいない。

 だからどうやったらこっちを振り向いてくれるのかなんてやり方など知る由もなかった。


 「お気に入りの店…知ってる?」


 走って戻ってきてくれた公一は開口一番沙織に聞いてきた。


 「お気に入りいうても…大体溜まり場はファミレスやし…あっ」


 「何か思いついた?」


 「喫茶店なんやけど其処でもよか?」


 「勿論」


 「じゃぁ、こっち」


 二人は来た道を戻って商店街を抜けた所にある喫茶店“盲亀”を目指した。


 沙織は公一の空いた右手を振り子を追うようにちらちらと視線を送っていた。


 …さっき手繋いでくれたけん大丈夫…


 突然どくんと心臓が音を立てて鳴り出したのも気が付かないくらい今の沙織は緊張の頂点に達していた。


 …今や!…


 思い切り近付いて自分の左手をぎこちなかったのだが何とか公一の右手に絡ませる事が出来た。


 「沙織ちゃんは高校は何処か決めてるの」


 「高校…むりっしょ」


 「そうか…せめて僕が社会人なら…」


 “盲亀”目の見えなくなった老亀の事を指しているのだと思われる不思議な佇まいの喫茶店であった。


 「土壁か…良い場所しってるじゃん」


 公一が扉を開けてくれて沙織は先に店の中に足を踏み入れた。


 「木の香りが凄かぁ」


 「いらっしゃいませ」

 「何か甘めのものありますか?」


 カウンターに二人並んで座った…ただ其れだけでも今の沙織にはドキドキするシチュエーションであった。


 「チーズケーキでしたら冷たいのご用意できますが」


 「良い?」


 頷くのが精一杯の沙織を横目に公一はチーズケーキとコーヒーを其々頼んだ。


 「このお店の“盲亀”ってどんな意味があるんですか?」


 「仏教説話の中にある、大海中の盲亀、浮木の穴にあうが如くなり…から取らせていただきました」


 「海に漂う盲目の亀が偶然漂流していた浮木のそれも穴が開いた浮木に出会えた…一生会えるかどうか分からないほどの確率で出会ったという訳か」


 黒ぶちの眼鏡をかけた背の低いマスターは公一を否定せずに聞きながら冷蔵ショーケースからチーズケーキを取り出して慎重な手つきで切り分けて小皿に移していった。


 「人との出会いでもそうなんでしょうか」


 「そうだと思いますよまぁ、かっこよく言えば一期一会」


 …苺…?


 沙織は二人の会話を全くと言って良いほど理解していなかったのだが…


 ホットコーヒーと共にチーズケーキが二人の前に並べられた。


 クラッシックの流れる店内で二人並んで食べるチーズケーキの味は何処にでもあるような物だったとしてもこの時感じた味は一生沙織の舌に記憶された大切な味となったのは確かである。


 だから今でも沙織はチーズケーキだけは絶対に口にしなかった。


 …未練だけ残しても先には進めないのよね…


 公一兄ちゃんは口数が多い方ではない。


 コーヒーを口にしながら黙ってケーキを口に運ぶ沙織の横顔を見つめていた。


 「何なん?恥ずかしいかぁ」


 「ん、明日でお別れかなと思うとちょっと…ね」


 公一は其れだけ言うと天上を見上げた。


 「あたしと別れるのが寂しいと?」


 沙織は自分でも驚くような事を口走ってしまった。


 「そうだな…きっとそうだよ」


 照れる様子も見せずに公一は言った。


 「じゃぁ、また…また来てくれる?」


 今まで沙織は人にお願いした事はない。


 そう、人に甘えると言う事もした事はなかった。


 「約束するよ」


 沙織に目を合わせた公一は何時もの微笑みで答えてくれた。


 答えてくれたのだ…


 今まで封印してきた大切な思い出が一気に噴出した沙織はそれから訪れる悲劇まで思い巡らす結果となってしまった。


 写真屋で現像なった写真を受け取った二人は途中にあるスーパーでアイスキャンディを買い暑い日差しの中家へと戻った。


 「どうしても帰る前に現像して置きたかったから」


 テーブルの上に並べられた写真を覗き込むようにして見る沙織の前に座った公一は相変わらず何も言わずに微笑を絶やさずにじっとしていた。


 「これあたしだ!」


 今朝部屋の前で撮られた沙織の写真は今まで仲間たちと写った自分とはかけ離れた表情を見せている。


 「可愛く撮れてるだろう」


 …可愛い…


 今まで突っ張って生きてきた沙織に欠けていた一言…


 そして次に沙織の目に飛び込んできた写真はタンポポがクローズアップされた物であった。


 …例え踏みにじられようとも野草には伸びゆく性があるものなんだな~…


 公一が初めて沙織と会った時に言った言葉がふいに頭をよぎっていった。


 「タンポポはあたしの事?」


 「誰にも気付かれないような中でも懸命に生きていけば何時か綿帽子に乗せて大宇に飛びたててゆける…だから今を捨てちゃいけないよ」


 何時もはゆっくりとした口調の公一だったのだがこの時だけははっきりと力強く言ったのが沙織の魂に深く刻み込まれる言葉となっていた。


 …思い出した…


 心の奥底に封印していた思い出が湧き出る水の如くに溢れ刻を重ねた今となって鮮明に浮かび上がってゆく。


 別れの時…沙織はバス停まで公一を見送った。


 本当なら駅まで行きたい所だったのだが公一が許してくれなかった。


 何故あの時一緒に行かなかったのか…


 行けばあたしも一緒に…


 …公一兄ちゃんと一緒に逝けたのに…


 バス停の標識以外は自分の影ですら消えていた


 暑い…暑いあの日の朝…


 突っ張って背伸びをして生きてきた沙織が唯一少女に戻った数日…


 それは二度と巡ってくる事はなかった。


 





 “バスジャックされた路線バスに警察が昨夜強行突入に犯人を逮捕しました”


 翌朝…


 何気なくテレビから流れてきたニュース…


 “死者が出ているとの警察発表があり…え~っ今現在判明している方は東京在住の小松公一、そして東区在住の…”


 沙織の耳に入ったアナウンサーの声はとても無機質で…そして何の感情もこもっていなかった。



































 「暖まった?」


 「はい…」


 「じゃぁあたしも一緒に入ろうかな」


 青年が浸かるバスタブに沙織はゆっくりと身体を沈めて向き合った。


 「腰の力を抜いて…そうほらボクが見えた」


 沙織は青年の固くなった男の子の部分をゆっくりと口に銜えると舌を絡ませた。


 「気持ち良い?」


 「う…うん」


 「そう…良かった」


 沙織は青年の顔をまともに見られなかった。


 涙が溢れて止まらないのだ。


 此れからもずっとこのような毎日が永遠と続くのだろう…






















 …あたしはタンポポになれんやったとよ…

 













 


 


 


 …ねぇ公一兄ちゃん…


 

 

 


 

 


 


 


 










 …早く迎えに来て…


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