五、招かれざる者 4
「よし! 明日は授業なし! 帰って日曜の準備を――」
終業のベルもまだ鳴り止まないうちに、花応はイスを後ろに押し倒す勢いで立ち上がる。はやる気持ちを抑え切れないのか、体を中腰に浮かすと気もそぞろにカバンに教科書を放り込んだ。
「えっと、とりあえず買物の仕切り直しよね。何が皆、喜ぶかしら? お決まりだけど、ヘリウムの音速変化の効果? どうせヘリウムなら、絶対零度近傍におけるスーパーフローもぜひ取り上げたいわね。あ、でもスーパーフローは見物だけど、それは流石にウチじゃ無理か。せいぜい風船膨らませるぐらいが科学的か――」
カバンに教科書を放り込み終えた花応はその場で首を傾げる。
「花応」
そして独り言と考え事に気を取られて後ろから呼びかけられたことにも気がつかなかった。
周囲の生徒達が散り始めた教室。人の流れがそれぞれに入り乱れる中、勿論『花応』と呼びかけながら近づいて来たのは雪野だ。
「ああ、そうか! 風船なら、リモネンがいいかも! ミカン用意ね! それならヘリウムはレンタル会社に送ってもらおっと。あっ? リモネンならキラリティにも触れなきゃよね。ああ、リモネンのキラリティなら、エナンチオマー! ワクワクするわ」
「花応、ちょっと……」
「キラリティなんて、なんて科学的なの。レモンとオレンジも用意しなきゃだわ。美味しく食べられるから、無駄にならないしね。ミカンにレモン、オレンジ。美味しいエナンチオマーなら、勿論グルタミン酸も外せないわね。L―グルタミン酸は勿論キッチンにあるし、Dは会社から取り寄せればいいか? いいわ! うん、いいわ! 科学的なおもてなしになってきた――」
「花応ってば! 呼んでるのに!」
「ん?」
雪野に業を煮やすように呼びかれて、花応はようやく目を開けて振り返る。
「何、一人でブツブツ話してんの? 人がさっきから呼びかけてるのに?」
そこには頬を膨らませた雪野が立っていた。見れば放課後だというのにカバンも持っていない。空の両の手を胸の前で組み、苛立たしげに両の人差し指でその腕を叩いていた。
雪野の机の上は授業が終わったそのままに教科書やノートが出されたままになっている。授業が終わってすぐ花応に近づいて来たのだろう。
「あはは、ゴメンゴメン。キラリティが私の科学の娘魂を――何て言うか輝かせたのよ。キラリティだけに鏡のようにキラリとね」
「はぁ? 何の話?」
「キラリティ――対掌性のことよ。この場合『しょう』は『掌』の字をあてるわ。鏡に映したら、右手が左手に見えるでしょ? あれよ」
花応は自慢げに人差し指を立てて右手を突き出す。そしてその横に同じ風に指を立てて左手を並べた。
雪野の苛立たしげな人差し指の動きとは対照的に、花応のご機嫌そのままに真っ直ぐ伸ばさせる。
左右に同じように並べられた花応の両手。明確に違うのは右手だけ包帯が巻かれていることだ。
「左右対称とかのあれ?」
雪野はようやく膨らませていた頬を萎ませ、その両手の――右の包帯に瞳を向ける。そしてそのまま視線だけを横に流した。
「――ッ!」
ニヤリと笑みを向けてくる速水と目が合い、雪野の顔が一瞬で曇る。だが速水は興味無さげにカバンを肩に引っかけると、雪野に無防備に背中を向けて席を離れた。
「違うわ。むしろ左右の対称性は、この場合の対掌性の意味を失わせるわ。キラリティの対掌性は、鏡像対称性の欠如だもの。左手と右手は左右対称に見えて、まったくもって重ならないものだもの」
雪野の表情の変化に傷かなったのか、花応はおどけたように立てた両の指を左右に軽く振った。
「はい?」
「同じに見えて、全く相容れないのよ。そうね……冬の出かけしなに慌てて皮手袋に手を突っ込んだら、左右が逆で全く入らなかった――って経験あるでしょ?」
「ある――かな……」
雪野は花応に答えながらも目だけ教室の出口を追っていた。そこから速水は最後まで振り返らずに出て行く。
その後ろを何げない様子で宗次郎がついて行く。宗次郎は最後に雪野に振り返って笑みを向けると足取りも軽く出て行った。
雪野はそちらも気を取られながらも、そのことを確かめると花応に目を向け直した。
「あるわよ。毛糸の手袋ならともかく、手の甲の向きまできっちり作られている皮とかの手袋とかならね。でね。何で同じ自分の手なのに、左右が違うだけで入らないのか? それが対掌性。指の向きを合わせれば、掌と甲の向きが合わない。掌と甲の向きを合わせれば、指の向きが合わない。似ているけど、全く違うのよ。相容れないの」
花応は両の掌を拡げると合掌の形に重ねあわせる。そしておもむろに掌を離すと、右手だけ反対側に向けた。合掌の形で指の向きが合っていた掌は、掌の向きを揃えると今度は指が全く反対の方向を向く。
「それでね。左右の掌をそれぞれ鏡に映すと、左手が右手に。右手が左手に見えるの。ほら」
花応はそこまで口にすると、今度は右の掌を拡げて窓ガラスに手を向けた。続けてこちらを向く右手の手の甲に己の左手を寄せる。左手は右手は逆に手の甲を窓に向けた。
「ん?」
「窓に映ってる左手が、本物の右手と同じになるでしょ?」
「確かに……」
雪野は小さく呟く。だが窓に映っている左手など全く見ていないようだ。その視線は花応の右手に巻かれた包帯にすっと吸い込まれている。
「これが対掌性」
雪野の視線に気づかずに花応は鼻を鳴らさんばかりに上機嫌に続ける。
「それで? そんなこと考えて、一人でブツブツ呟いてたの?」
「そうよ。エナンチオマーとか、不斉合成とか、LだのDだの。色々と面白いのよ」
「もう! 知らないわよそんなこと! で、今日の帰り、どうするの? それを聞きたかったの!」
何処までも上機嫌に離す花応に、雪野はじれたように声を荒げる。
「どうするって、買物――ううん。普通に帰るわよ」
「買物? 一人で?」
雪野がまじと花応を見つめる。
「そ、そうよ」
「今日はつき合うって言ったでしょ? 何処に買物に行くの? 一人じゃ危ないから、ついて行くわ」
「――ッ! いいわよ、別に! それに二人で買物に行ったら、せっかくのサプライズが――」
「サプライズ?」
「な、何でもない! 何でもないわよ! ジョーも連れてくから、いいでしょ!」
花応は話はこれでお終いと言わんばかりに、己のカバンをひったくるように掴むとくるりと背を向ける。
「ちょっと、花応! 待ちなさい!」
「はいはい! 大丈夫だから! それじゃ、日曜にね!」
花応はすたすたと教室の出口まで歩いて行くと、
「いい? 一人で大丈夫だからね!」
最後に振り返ってそう告げるとドアから出て行った。
「もう……」
その姿を雪野は両の拳を握り締めて見送る。
腰の横まで真っ直ぐ下に伸ばされたその拳は、もどかしさにかフルフルと震えていた。