四、クラスメート 16
「てめえ……何で動かねえんだよ?」
「はぁ? 誰ッスか? いきなり現れて、何ッスか?」
速水颯子は陽の落ちた繁華街で振り返った。
男の声だ。同年代らしき男子の声が、バイト帰りと思しき速水の背後にかけられる。
シャツにパンツ、スニーカー。先に宗次郎をからかった格好のまま、速水は足取りも軽く夜の繁華街を歩いていた。歩いていたのはやはり先に宗次郎と話した小川のある道だ。小川を挟んで両端に一方通行の道があり、更にその両側には飲食店の看板を大量に脇に従えた雑居ビルが並ぶ。その道べりでは仕事帰りの上に一杯引っかけたらしき男女が、あるいは家路を急ぎ、あるいは上機嫌で次の店を物色していた。
夜道にかぶるのは暗いと思ったのか、速水は帽子は脱いで指先でくるくると回していた。足取りも怪しい大人達の間を速水は慣れた足付きで縫うように歩いて行く。
「人様のバイト帰りつかまえて、挨拶もなしに文句とは。どちらさんッスか?」
その速水が振り返った先には己の顔に陰を落とした男子の姿があった。全身も光が足りておらず影のように見える。
速水は繁華街の人工的な明りだけ照らす男子らしき影を見つめる。男子は小川の脇に植えられた街路樹の下に立ち、己自身の髪の陰を額に落としていた。
「お仲間だよ」
男子の声は少々神経質で甲高い。
「『お仲間』ッスか? さてさて。自分のバイト先に、男子は居ないッスよ。それとも女子しかできないバイトに、紛れ込んだッスか?」
「知るか。ふざけんなって。分かってるだろ?」
「さぁッス。クラスメートでもなさそうッスよね」
速水はあまり興味が湧いてこないのか、指先で回していた帽子を更に勢いよく回転させる。
「はん! 何処までも、とぼけんなって。力を〝ささやかれた〟お仲間だって言ってんだよ」
「ああ、そっちッスか。仲間だなんて、勝手に決めないで欲しいッスね」
「あん?」
「こっちはクラスにも仲間なんていないッスよ。ただ適当につるむだけの、頭数が居るだけッス」
「てめえの寂しい友達事情なんて、知るかよ」
「それに、少なくとも。ストーカーに仲間は居ないッスね」
速水は己の興味のなさを示す為にか指で回していた帽子を頭に深くかぶった。目深にかぶったその帽子で速水は己の顔を男子から隠す。
「てめえ!」
その様子に男子が声を荒げた。
「――ッ!」
速水が帽子の向こうで細い目を剥く。
男子の声と同時に大量の水蒸気がその背後から湧き上がっていた。
男子生徒の背後を流れていた小川。その水流に何らかの力を使ったのか、そこから男子を覆い尽くす程の水蒸気が湧き上がった。
「市民の憩いの小川に、いたずらしちゃダメッスよ」
帽子のヘリを指で持ち上げ、速水はその様子に一度は驚いた目を細める。
その周りでは道ゆく人びとが突然の出来事に皆足を止めた。ざわめきながら指を指したり、周囲の人間の顔を窺ったりと、突然の水蒸気の原因を右往左往する目で求めた。
「沸点が低くてね」
道ゆく通行人の視線を気にもせず、男子は水蒸気を従えたまま応える。
「すぐ熱くなるッスか? そんなんだから、人様の行動にいちいち文句言いに来るッスよ」
「ふん。獲物が被るのも何だと思って、挨拶に来たら――」
「『挨拶』? だから、されてないッスよ。挨拶は」
「うるせえ! てめえ、いちいちいらつく!」
男子が不意に右を内から外に払った。
「――ッ!」
速水が横に跳んだ。
雪野ですら目で追うのが精一杯の速度で横に飛ぶが、
「痛いッスね……」
男子の攻撃を避け切れなかったらしい。
速水はビルに当たりながら止まり、思わずか顔をしかめて呟いた。そのまま右の肩をビル壁に付きながら、速水は右手で左手の二の腕を押さえる。
シャツの袖の下。素肌が剥き出しになった二の腕を、速水は痛みをこらえるように押さえた。
「ひりひりすんだろ? これが俺の力だよ」
「乙女の柔肌を、何だと思ってるッスか?」
通行人の戸惑いの視線を余所に二人は視線をぶつけ合う。街ゆく人びとはようやく収まった水蒸気に、首をひねながら止めていた足を動かし出した。それでも多少気にはなるのか、何度か振り返っては何もないところに突如水蒸気が湧いた方を見ながら去っていく。
「はん。親切で挨拶に来てやったんだよ。いいか? 動く気ないなら、そりゃそれでいいや。あのいけ好かない優等生は、俺がやる」
「……」
人の流れが元に戻った。二人は夜の街をいく人びとの間縫って視線を戦わせた。
「てめえは、怪我したくなかったら。すっこんでな」
「ふん。何で力を手に入れたからって、そう皆強気になるんッスかね? 自分みたいに力使って、適当にからかってりゃいいんじゃないッスか?」
「知るか。じゃあ、忠告はしたぜ」
男子そうとだけ最後に告げると、無防備に背中をさらして速水に背を向ける。
「ふん……」
速水はその背中を狙う気はないようだ。深いげに鼻を鳴らし人ごみの向こうに消えて行くその背中を見送る。
「いたた……ホント、ひりひりするッスね……」
男子の気配が完全に遠ざかると、速水は押さえていた右手をそっと離した。
「ヤケドになってるッスか? ひどいッスね、まったく」
速水は赤くなった己の二の腕を確かめると、痛みをこらえんとかもう一度ギュッと右手で押さえ込んだ。