四、クラスメート 12
「『美しい顔のどこにそんな蛇のような心が隠されていたのか! ああ、情けない、あんな奇麗な洞穴に悪魔が住んでいたとは!』」
溢れ出しそうな感情が胸に詰まっている。そうと言わんばかりに胸を張り、雪野は右の手の平で体操服の上からその胸を押さえた。
白い生地の下の胸は感情と言葉で内から実際に震える。溢れ出る思いが涙ともなって目の端に浮かぶ。感情の高振りとともに見上げた目の光は、自己陶酔の光を放ちながらも絶望を現れのようにその焦点を失っている。
「『美しい暴君! 天使のような悪魔!』」
雪野が声量を張り上げるのは音楽室の一角だ。音楽室とはお世辞にも音響がいいとは言えない学校の一室。前と後ろに出入り用のドアがあり、内部の熱気からかそのドアは両方とも開けられていた。
その中で雪野は他の生徒に混じって台本を手にしていた。その額には玉と化した汗が浮かんでは流れてく。
演劇部の練習のようだ。皆が使い古された台本を手にそれぞれ台詞を口にしている。皆が動き易いようにか、体操服の上着にジャージを下に着ていた。
「『神々しいうわべを持った醜悪な内側! 見かけとはまるっきり反対のもの!』」
だが何処までも本番さながらに熱を入れてその台詞を口にしているのは雪野だけのようだ。
周りの生徒がたどたどしく台詞を口にするのに対して、雪野だけは感情もあらわに居もしない観客に訴える。
周囲の生徒が徐々に己の練習を止め、雪野の方に向き直る。
「『鳩のような羽を持った烏! 狼のようにどん欲な子羊!』」
最初から多くの生徒が雪野の方を気にしながら台詞を口にしていた。皆が自分の台詞をただ読み上げるのに対して、雪野だけが初めから感情を込めて演技していた。その状況にちらちらと覗き見をしながら、最後はあきらめたように練習を止めてしまった。
上級生も同級生も、皆が当惑と尊敬のないまぜになった顔を雪野に向ける。
「『呪われた聖者、気高い悪党! おお』――ッ!」
だが雪野の台詞は不意に中断する。
雪野の忘我の瞳に一瞬で光が戻った。心音が一気に上がったかのように、その胸の心臓が大きく一つ脈を打つ。劇中の人物の台詞に奪われていた心を、己の心臓に取り戻したかのようだ。
雪野はその視線の光を音楽室の前の出入り口のドアに向ける。その鋭い視線がとらえた先。人影がドアの向こう、廊下の床に落とされている。
それは僅かな影だ。男女の区別すらつかない淡い影。
だが雪野はその影に射抜かんばかりに視線を投げつける。
「ちょっと、出ます……」
いまだ集まっていた皆の視線。それは戸惑いと憧れが入り交じっていたその視線は、今は驚きに変わっていた。
雪野が向ける視線の鋭さに皆が無意識にか一歩足を退く。雪野はそのお陰で道のように空いた生徒の間を、当然のように皆の視線を浴びながら歩き出す。まるで舞台稽古の途中で退席する大女優のように、雪野は視線の波を打ち立たせて音楽室のドアに向かう。
「……」
影はまだそこにある。
雪野はそのことを確かめるとドアの前で一度立ち止まった。
「逃げないの……誘われてる? いいわ……」
雪野の目が妖しく光る。
「皆見てるけど……少しぐらいなら、バレないわよね……」
そしてぐっとジャージの足に力を入れると、
「誰?」
雪野は一気にドアの外に飛び出した。
魔力をその足に集中させたようだ。雪野は音楽室からまさに飛ぶように廊下に出た。
「――ッ! いない? そんな……」
気づかれないように内部を窺う位置に立っていた何者かの影。その影の主が居たであろう音楽室のドアのすぐ脇。
雪野はそこに無人の廊下を見つけるだけだった。
「速水さん程じゃないけど、私だって魔法でスピードを上げたのに……」
雪野が戸惑いに廊下から教室に目を転じる。
部活の生徒達が今度も驚いた顔をして雪野を見ている。
「まさか、速水さん? 学校に、戻ってきたの? 私以上のスピードで、逃げ出した? でも、そんなことする意味が……」
「どうしました?」
困惑に呟く雪野に、不意に背後から声がかけられた。
「えっ?」
雪野が驚きに廊下を振り返る。
視線の向こう。廊下の先。音楽室の後ろの出入り口のドアの前。
そこに男子生徒が立っていた。襟もとにつけられた三年生の学級章がきらり光る。
「急に飛び出したりして。危ないよ」
丁度鏡で写したかのような、雪野の立つドアとは反対側の位置。
そこに立っていたその三年生男子は、
「一年の千早さんだね? 練習はいいの?」
それそこ鏡の前で練習したかのような柔和な笑みを雪野に向けた。
今回作中『』内は引用です。
引用元参考文献『ロミオとジューリエット』シェイクスピア作平井正穂訳(岩波書店)