四、クラスメート 8
「何なの……」
雪野はカバンの持ち手を両手で握り締めた。身の内から沸き起こる理不尽に、どうやら耐えようとしているようだ。その両の拳を皮切りに、肩の上までぐっと力が入ってしまっている。
「ちょっと……」
「何なのよ、あの娘……」
見れば足下もだ。余程頭にきているのだろう。雪野はカバンを手に、つかつかと膝もろくに曲げずに歩いていた。
「ちょっと、雪野……」
「そりゃ、直接向こうからこないと。戦い辛いけど……」
雪野がカバンを両手持ちにしていたのは、体を斜めに傾けているせいでもあった。雪野は隣を行くクラスメートに肩を並べ歩いていた。いや、肩を並べるどころかぶつけるように歩いていた。
「雪野ってば……」
「あれじゃ、まるで私が敵を求めてるみたいじゃない……」
雪野は両手両足を突っ張るように歩き、傾げた体で肩を隣を行く女子生徒にぶつけながら歩く。
隣を歩くクラスメートは困惑げに顔をしかめる。吊り目の上の眉がこれでもかとひそめられていた。
「雪野ってば!」
「何? 花応?」
大声で名前を呼ばれて雪野はようやく相手に応える。そして更に身を密着させた。
今は下校の道すがら。人通りのそれなりにある大通りの歩道で、突如大声を出した女子生徒に他の下校途中の生徒や道ゆく人が振り返った。
「だから……何でそんなに体を寄せてくるのよ? 歩き辛いでしょ?」
花応が恥ずかしげにうつむいた。花応にぴったりと寄り添うように体をくっつけてくる雪野。あまりに身を寄せくるので、花応は時折よろめきながら歩いていた。そして時には歩道際に建物からはみ出すように置かれた店舗の看板にぶつかりそうになる。
「ダメよ、花応。油断しちゃ。あの娘、何だかんだで狙ってくるかも。ちゃんとガードしないと」
雪野は更にピタッと身を寄せてくる。
花応の身がぐらっと揺れた。
「もう! これじゃ歩けないでしょ! てか、何で私をガードすんのよ?」
ついに限界に達したのか、花応が立ち止まって身を翻す。
「むむ。だって、私が直接挑まれないなら、その周りが狙われるのがお約束だもの」
ようやく花応から身が離れた雪野は、同じく立ち止まって身を翻す。花応と正面に向き直った雪野は、それでもまだあきらめていないのか詰め寄るように半歩前に出た。
「それが何で私なのよ?」
「そりゃ、私の一番の友達だもの」
「そういうことを、何のてらいもなく言うの止めてくれる?」
花応がやはり恥ずかしげにうつむいた。少々怒ったように頬を同時に膨らまる。
「何で?」
「と・に・か・く! 過保護は結構! 私は一人で大丈夫だから!」
「油断は大敵よ。見たでしょ、あの娘の力。瞬間移動してたじゃない?」
「『瞬間移動』? テレポーテーションって訳? 冗談! 非科学的な言い方止めてよね。エンタングルメントを利用した量子テレポーテーションによる情報転送ならいざ知らず。物質が瞬間移動する訳ないでしょ」
「瞬間移動ってやっぱり非科学なの? てか、『いざ知らず』――って、一応テレポーテーションって可能なんだ?」
「そうよ。量子のもつれ――エンタングルメントを利用したアインシュタイン・ポトルスキー・ローゼン相関――EPR相関による情報の転送は、離れたところでも瞬時互いの情報をあたかも知っているかのように伝わるわ。これをテレポーテーションと呼び慣わしているわ。でも光速を越えての情報伝達はアインシュタインの相対性理論に反するから、初めはあり得ないパラドックスだと考えらていたわ。EPRパラドックスね。でも今では相対性理論と矛盾しないと分かったし、それこそ我が国の科学者が実験でも実証しているわ。情報が瞬時に伝わるなんて、量子の不思議をよく表しているわね。そもそも量子は重ね合わせることで――」
「いや、いいわ。道ばたで聞いて、理解できる話じゃなさそうだし」
「そう? じゃあ、続きは私の部屋で」
「いえ、それも遠慮するわ……」
雪野の額を冷や汗が一つ、つうっと流れた。
「えっ、そう? むむぅ……」
花応の額では眉間の皺がぐっと寄せられる。
「……」
「……」
しばし二人はお互いの額と額で困惑と未練を情報伝達し合った。
「そうね、瞬間移動は流石にしてないわ――」
先に口を開いたのは雪野の方だった。
「実際は速度系よ。私ですら目で追うのが精一杯だったわ。最初なんて、気配を感じる暇がないまま近づいてきたんだから。ああ! あの娘ね! 食堂で逃げられたのは! あっ? でもあれは男子だったか? じゃあまだ居るのね、ささやかれた人が……やっぱり危険だわ……」
「でも、あの娘戦う気まるでなかったわよ。危険なんかないんじゃない?」
「そう思わせるのも、向こうの手なのよ」
雪野が真剣な顔で一人何度もうなづく。
「そうかな?」
「そうよ! ああ、それこそ花応の家まで、一瞬で送ってあげれればいいのに!」
雪野が道ゆく人びとの視線を一身に集めながら未練がましくそう叫び上げると、
「だから! 物質はテレポーテーションしないの!」
花応は真っ赤になって科学的に抗議した。