四、クラスメート 5
「そこまでの大怪我……してないはずなのに……」
宗次郎が告げた内容に雪野が我知らずか呟くと、
「おや? 千早さん、何か知ってるッスか?」
速水が細い目を更に細めて訊いてきた。
「――ッ! いいえ……別に――」
雪野は己の不注意にか一度神経質に片目を引きつらせた。その強ばり鋭く光らせた瞳で、警戒心もあらわな視線を速水に向ける。
心なしか少し身じろぎし、更に足の置き場を踏み固める。そして席に着いたままの花応を背中に隠したまま続ける。
「何でもないわ」
「そうッスか? でも、何か怖いッスよ? 目が……」
その速水の目の奥の光も鋭い。
「そう? 怪我なんて聞いたから、心配したのよ……そのせいで緊張してるのね……」
雪野は速水から目をそらさない。己が知りたい相手の腹の内――そこを探る為に、その瞳から押し入ろうしているかのようだ。
「その先輩と親しいんッスか? 心配なんかして」
「一、二度会っただけよ……」
「ふぅん……それにしても、ただごとじゃない顔してたッスよ……」
「あら……そう……」
「ん? どうした? お前速水だよな?」
己の報告以降二人で睨み合うように話をする雪野と速水に、宗次郎はその互いの顔を覗き込むように訊いた。
「そうッス! 時に女子の河中って呼ばれる――クラスの学力底辺速水颯子ッスよ」
「『女子の河中』は余計だ。お前らそんな仲よかったか?」
「当たり前ッスよ。千早さんは、誰にでも優しいッスよ。ねえ?」
「……」
雪野は答えない。形だけ笑みを浮かべる速水に、雪野は警戒心もそのままに瞳を光らせる。
二人を取り巻く雰囲気に、宗次郎だけではなくクラス中がざわめき始めた。
「それに千早に速水。『はや』友達ッスから。ま、自分の『速』の字の方が、『はやっ』て感じで速いッスけどね」
「それは『はやい』の字の意味が、それぞれ違うんじゃない? 私の『早』は時期が早いとかの意味よ」
「そうッスか? 自分の『速』の字の方が、字面もカッコいいッスから、すっげえ速い方はこっちの字だと思ってたッスよ」
「そう……」
「そうッス……」
とりとめのない会話を交わしながらも、二人の間からはただならない雰囲気があふれ出ていた。
「何だよ? 何で速水が、千早に絡んでんだよ? ケンカか?」
手を止めたまま二人を見上げる花応に、宗次郎は身を屈めて訊いた。
「……」
花応が無言で宗次郎の襟首を掴んで引っ張った。身を屈めただけではまだ足りないと言わんばかりに、花応はそのまま宗次郎の横顔を己の眼前に引き寄せる。
「おい、何だよ? 引っ張るなよ」
耳元を強引に寄せられる形になった宗次郎は、それで花応の意図を察したのか最後は大人しく耳をそばだてた。
「何か、怪しいのよ……」
「――ッ! 怪しいって……千早がらみでか?」
「そうよ……雪野がらみよ……」
宗次郎と花応はそれぞれに含みを持たせた口ぶりで、お互いの言わんとするところを匂わせる。
「何ッスか? 何をこそこそと話してるッスか?」
そんな二人に速水はおどけた笑みを向ける。
「いえ……別に……」
「ふぅん。桐山さんも『いえ別に』なんッスね。千早さんもさっき似たような反応したッスよ」
「……」
花応は応えない。ただ雪野の背中越しにあらためて速水を見上げた。
「それとも恋人同士で〝ささやきあった〟だけッスか?」
「な……」
「それは冷やかし? それとも何かのほのめかし?」
絶句した花応に代わるように雪野が口を挟む。
「いやッスね、千早さん。何をほのめかすって言うんッスか?」
「……」
「第一自分バカなんで、何かをほのめかす程の学力ないッスよ。ああ、〝力が欲しい〟ッスよね」
「決まりみたいね……」
雪野が腰を落として半歩右足を引いた。
「ちょっと、雪野……」
「おい! 千早!」
教室で今まさに戦わんと身構え始めた雪野に、花応と宗次郎が慌てたように声を上げる。
「決まりッスよ……元より隠す気ないッスよ……でも――」
速水はそこまで口にすると振り返って教室の壁を見上げた。
速水が見上げたのは天井際に設置されていたスピーカー。そのいかにも学校備品である安っぽい振動板から割れたチャイムの音が響き出した。
「午後の授業が始まるッスね。いくら自分バカでも、教科書の角で叩かれるのは嫌ッスから。大人しく席に着くッスよ」
速水は席が後ろの方なのか、そこまで口にすると雪野の脇を通り抜けようと歩き出す。
「……」
反射的に雪野は体を直立させ、更に花応の姿をその背中に隠そうとする。速水の姿に常に正面に顔を向かせながら、雪野はその姿を見送ろうとした。
「そうそう……」
だが速水はすれ違い様に立ち止まり、身を屈めて雪野の脇から花応の手元を覗き込んだ。
「――ッ!」
雪野が警戒に目を鋭く細める。
「何?」
「急に話しかけて悪かったッスね。自分のせいで、縫いかけになっちゃったッスね」
「ええ……そうね……」
花応が己の手元に持ったままのズボンを少し引き上げた。
「自分がやれば、直ぐッスよ。速いッスよ」
「いいわ……続きは後でするし――」
花応がそこまで口にすると、
「こら、そこ! いつまで昼休み気分だ!」
ドアから入ってきた教師が教室を見渡すや否や一喝した。
「あっ!」
「すいません!」
「おっと……」
花応、雪野、宗次郎が驚いて教室の入り口に振り向いた。
「早く席に着け! 授業始まるぞ!」
教師が尚も続けると、
「ホントッスよね! センセ!」
廊下側の最後列の机から調子も軽く合わせる声が応えた。
「えっ?」
「へっ……」
「な……」
今度も驚きに三人は身を固める。
一瞬前まで三人と一緒の場所にいたはずの速水颯子が――
「ホントこういう時は、〝速く〟席に着くッスよね!」
教室の反対側の席に悠然と座り、細い目を更に細めて軽薄な笑みを浮かべていた。