四、クラスメート 3
「おおお……」
雪野が息を呑んで花応の手元を覗き込んだ。
「何よ……」
花応がブスッとその雪野を睨み返す。花応の手元は休みなく動いていた。
「いやはや……」
「だから何よって、言ってんのよ……」
「いやはやいやはやいやはや……」
雪野は花応に答えずぐぐっと身を興味深げに乗り出してくる。
昼休みの教室。お昼の残り香が混じり合い微かに漂うこの教室に、雪野はいつものように花応の席の前で横座りしていた。
花応の机の脇には包み直された小さなお弁当箱が二つ並べられている。そのお弁当箱とは別に小さな布袋も置かれている。その袋は口が軽く開けられており、そこから厚紙に巻かれた縫い糸が覗いていた。
「だ・か・ら……もう、気持ち悪いわね。あんたは……」
見られ続けたせいか、花応の頬に急に朱が差した。その表情の変化を見られまいと思ったのか、花応は不機嫌な視線のまま手元に目を転じる。
その手元では布が花応の手の動きに合わせて踊っていた。男子の制服のズボンだ。
そのズボンの裾は裂けたように破れている。花応の包帯の巻かれた右手がその裂けた布の左右を行き来する。
「花応……そんな女の子らしいところがあったなんて……」
「うるさいわね……これぐらいの針仕事、少しかじったらできるわよ……授業でも習ったでしょ?」
花応は少々いびつに曲がりながらも、裂けた布を縫い合わせていく。運針が進むに連れて、ズボンの裾の破れが塞がっていった。
「いやはや……そうじゃなくってね……」
「さっきから何『いやはやいやはいや』言ってんのよ」
「だって男子の為に、繕い物をしてあげるなんて……」
「なっ……」
花応の手が止まる。
「そんな女の子らしい一途さがあったとは! いやはや! お姉さん、嬉しいわ!」
「誰が『一途さ』だ! みっともなくって見てらんなかっただけよ」
花応が縫いかけのズボンを手に、両手で己の膝を押さえ付けて抗議に声を荒げる。
「そう? そうかな? そうは見えないな? 素直になりなさいよ」
「違うって! それに、ほら! こういう縫い糸はポリエステルじゃない!」
花応が己の机の上を指差した。
「『じゃない』って言われても。そんなの日常で意識しないわよ。常識なの?」
「常識なの! ポリエステルとかの化学繊維なの! ナイロン系と合わせて常識なのよ! 日常に入り込んだ人類の叡智! 科学の勝利の一つなのよ!」
「はあ」
「いい? あんたが着てる制服も、私が縫ってるこの糸も、科学のお陰で安価に量産できてるのよ! ナイロン系は強度と耐摩耗性、耐久性が強いわね! でも日光にはちょっと弱いかな。世界で初めて実用化されたのはナイロン6・6ってやつ。特にストッキングに使われたことで、私達女性の社会進出を押し進めたとかまで言われてるわね! ポリエステル系は耐日光製がよくって、乾き易いからこちらも衣類によく使われるわ! 『ポリ』とつくようにやはり高分子化合物で、宿合重合で長い直鎖状になるの!」
「ふぅん。そうなの」
「ああ、もう聞いてないって返事ね?」
「聞いてるわよ。ただ、頭に入ってこないだけ」
「一緒よ! とにかく、私は科学の力を世に知らしめる為に、あいつのみっともないズボンを放っとけなかっただけよ!」
「前半と後半が繋がってないような気もするけど? まあ、いいか。続きをどうぞ。私はここで勝手に一人でにやにやさせてもらうし」
雪野が花応の机に肩肘をついた。実際ににやけた目で花応の手元を再度見つめる。
「ふん……」
花応は一つ鼻を鳴らすと繕いの作業に目を戻した。
「でも、その『あいつ』は何処行ったんだろうね? 花応にズボン押しつけて」
「知らないわよ」
「……」
雪野がじっと花応の手元を見つめる。
「何よ? 黙って見られるのも、ちょっと恥ずかしいんだけど?」
「花応はこんな縫い物一つでも、科学の話をするんだな――って思ってね。ねえ、こういうのって、石油から造るんでしょ? 私、何かあのドロドロしたヤツが、こんな風になるなんて信じられないんだけど? 触ったりしてもドロドロしないし」
「そこ疑っちゃうと、世の中のものほとんど信じられなくなるわよ。ポリエステル系の繊維って言えば、一番身近なものだとポリエチレンテレフタラートだもの。それこそ毎日のように口につけてるわ」
「ポリ――なんですって?」
「ポリエチレンテレフタラートよ」
「ポリ……」
「ポリエチレンテレフタラート」
「ぽりぽり……」
雪野はわざとらしく呟きながら、己の頬を言葉通りに掻いた。
「ポリエチレンテレフタラートはその綴りを略して、PETと呼ばれているわ。いわゆるペットボトルのペットよ」
「花応。できれば初めからそう言って欲しいわ」
雪野が真剣な顔を作り直して身を乗り出す。
「そう? それに最近はリサイクルが進んでるからね。こういうのはペットボトルのリサイクルからも造られるの。だから石油から造ってるのは、大きく考えれば当たってるけど、個別に見れば間違いかな。今時の企業はリサイクルにも気をつけないと、消費者の心をつかめないしね」
「ふぅん。そうよね。魔法少女も一度倒した敵が、復しゅうに燃えて懲りずに襲ってくるものね。リサイクル。気をつけないとね」
「あんたそれ、本気で言ってんの? 冗談で言ってんの?」
「あはは。経験者は語る――かな……」
雪野が最後は小声で呟いた。
「あんたね……」
花応が呆れたように応えると、
「ちわッス!」
雪野が背後から肩を叩かれた。
「えっ……」
雪野が目を見開いて振り返る。その顔は驚きに固まっている。
「気配が……」
雪野がその驚きに我知らず漏れ出たようなような小さな声で呟く。
「誰?」
雪野の肩を気安くつかんだ女子生徒に、花応がいぶかしげな視線とともに見上げた。
「あは! 流石不機嫌お嬢は、人様のことに関心ないッスね。いいッスよ。冷たいクラスメートに自己紹介するッスよ」
そこには細い目をした短い髪の女子生徒が立っていた。人懐っこい笑みを浮かべている。
「速水颯子ッスよ。すっげえ速え水に、『颯爽』の『颯』――立ちはだかる風の子で速水颯子ッス。『サツコ』とか『ソウコ』とは読んじゃ嫌ッスよ。やたら可愛く『フウコ』って読ませるッスよ」
速水と名乗った女子生徒は口ぶりも軽くそう自己紹介すると、雪野の耳元にその唇を近づけた。
驚きのまま目を見開いているその雪野の白い耳に――
「力が欲しくないッスか……」
女子生徒はささやいた。