三、敵12
包帯をした花応の右手。その手が優しく雪野の頭を撫でる。
その包帯も液体ににじんだ。
「あイタッ! 私もしみるわね……しみるだなんて、科学的な結果だわ。容易に想像できたのに……まあ、まだまだ私も非科学的なことを、してしまうってことね……」
花応は一人呟くとスカートのポケットからハンカチを取り出した。
「ほら、雪野。目に入ると厄介だから、とりあえずこれで拭きないなさい」
「溶けてない? 何で? 何でしみるだけで、何ともないの?」
雪野は己の液体にずぶ濡れの顔を確かめるように触る。手も顔も濡れてはいるが溶けてはいない。雪野はその濡れた手で顔以外の方々も触った。
「だから、そんな風に触ると、目に入っちゃうって。ほら、ハンカチ」
「だって、花応。あいつは、溶けたのに……それに、この匂い……」
雪野は花応からハンカチを受け取りながら、己の鼻に液体に濡れる手を持っていく。
「雪野様!」
ジョーが雪野の無事に安堵したのか、そのスカートにすがりつくように抱きついた。
「何だ? 魔法少女は、酸にも溶けないのか? そんなの俺も言いたいぞ。非科学的だって!」
宗次郎が雪野の全身と、花応の顔を交互に見比べた。実際、溶けていないのは雪野だけはなかった。その濡れる頭を撫でた花応もすがりつくジョーも何ともないようだ。
「違うわ。あいつが金属人間で、雪野が普通の女の子って証拠よ。とっても科学的なね」
花応はそう呟くと、後ろを振り返る。
「……」
憎悪に歪む目を隠しもせず、河川敷に突っ伏した男子生徒が花応達を睨みつけていた。
「動けない? いいざまね。あんな物質で、動きがとれなくなるなんて……確かに金ならアレは毒みたいなものなんだろうけど……それで実際に動けなくなるんて。科学的なんだか、非科学的なんだか、分かりゃしないわね」
「俺に何をした……」
「別に。普通の人には何ともない、むしろ人の役に立つ薬剤をぶっかけてあげただけよ」
花応は突っ伏したままの男子生徒を腕を組んで見下ろす。
「あぁん……」
「匂いで分からない? 色は今暗いけど、まあ、昼間見てもこんな色よ。黒紫色ってよく表現されるわ」
「ああん! 知るか! 何だってんだ? 何で金の力を手に入れた俺が、普通の人間に効かない薬でぶっ倒れてんだよ! おかしいだろ? あり得ねえだろ!」
男子生徒は憎悪も剥き出しで吠え狂う。
「怪我した時に塗らなかった? 今時は使わないか? でもこれは極普通の消毒液――」
花応はそこまで口にすると足下にかがみ込み、
「希ヨードチンキよ」
己が先程落としてしまった容器を拾い上げた。
そこには確かに『希ヨードチンキ』『医薬品』とラベルが貼られており、やはり『桐山メディカル』の文字がその下に続いていた。
「な……」
男子生徒は河川敷に突っ伏したまま目を剥いた。
「希ヨードチンキの主要成分は、ヨードまたはヨウ素と呼ばれるハロゲン元素の一つよ。原子番号は53番。元素記号はIね。主に海藻から採取されるわ。単体は黒紫色の固体で、水にはほとんど溶けないの。殺菌作用があるから、溶液に溶かして消毒液にしたり、うがい薬にしたりするわ。あなたにかけたのは、ヨードをエタノールで溶かした消毒液の希ヨードチンキよ」
花応が自慢げに両腕を腰にあて直した。花応の背中を見守る雪野と宗次郎、ジョーの視線を受けたかのように胸まで自慢げに張ってみせる。
「それが何だ? だから何で俺がこんなことになってる! ああん!」
「あら、感心ね。科学に関心を持つなんて。そうね。ヨードには面白い性質があってね。濃塩酸や濃硝酸でも溶けない金とも反応して、溶かしてしまうのよ」
「はぁ?」
「信じられない? でも身を以て実験――ううん、体験したでしょ?」
「な……」
金色の男子生徒の顔は屈辱に歪む。
「まあ、効果の程から言うと、王水の方がいいんだけどね。それに希ヨードチンキの『希』は希釈の『希』なの。つまり希釈されたヨードチンキ。本当に金を溶かすなら、ヨードチンキそのものがよかったんだけど。直ぐに手に入るのはやっぱり希ヨードチンキだしね。こっちで効いてくれたのなら、御の字だわ。だって安上がりだもの。そうね五十ミリリットルで、何百円ってところかしら」
「ななな……」
男子の顔は恥辱と屈辱に更に歪んでいく。
「あら、屈辱? お安い手段で倒されて? まあ、濃塩酸と濃硫酸も、そこまで高くないけどね。ああ、それとも水銀をぶっかけて『アマルガム』の方がよかった? 水銀も金と反応するのよ。これをアマルガムって呼んでいるわ。まあ、毒性が強いから水銀は選択肢としては、最初から除外だけどね」
「この……」
男子生徒が両腕を河川敷に着いて立ち上がろうとした。だがやはり力が入らないようだ。まるで全身の力が抜けたかのように、その場でふるふると震えるだけだった。
「やっぱり、ダメみたいね。観念して、雪野に力を消滅してもらいなさい」
花応はそう告げると男子生徒に背を向けた。
「ちっくしょー! こんなデタラメで! 俺が!」
男子生徒は震える体で立ち上がる。その無防備な背中に、歪んだ――そして今や表面が溶け出している腕を伸ばした。
だが花応がゆっくりと振り返り、
「違うわ。科学よ」
そう応えると男子生徒は再び膝から崩れ落ちていった。




