三、敵11
薄やみの河川敷に飛び散る液体。街灯の届き切らない光のせいで、それは闇を内に取り込み黒い飛沫となっていた。
「……」
呆然と目を見開く金色の男子生徒の上に差し伸ばされた花応の右手。包帯が巻かれたままのその手に傾けられ、黒い液体が流々と流れ落ちている。
「……」
流れ落ちるその液体にその身をしたたらせたのは、金属の体を持つ男子生徒だけではない。長くしなやかな髪をその頬に垂らし、雪野は流れに身を任せるままにその不気味な黒い液体を浴びていた。
「桐山!」
宗次郎が血の気の失せた顔で跳ね起きるように立ち上がる。
「……」
花応は応えない。自ら発しもしない。
身じろぎもしなければ、視線をそらすこともない。
ただただ黙々と友人と金色の敵に黒い液体を浴びせつける。
「桐山!」
「……」
己の名を再度呼ばれながら宗次郎に後ろに引かれるまで、花応は黒い液体を友人と敵に浴びせていた。
花応は宗次郎に強引に後ろに退かされる。宗次郎は無意識にか花応の身を後ろから抱き寄せるように力づくで抱き寄せる。
宗次郎に後ろから抱きつかれる形になった花応の手から、空になった容器が転がり落ちる。
そして――
「うわあああぁぁぁぁ!」
男子生徒は突然悲鳴を上げると、雪野の体を前に放り出す。
「おい……冗談だろ……マジ、溶けてるじゃねえか!」
男子生徒は苦悶にその金属の顔を歪めると、慌てたようにその方々が歪んだ手を挙げた。
男子生徒は信じられないといった風に、己の手の平を見下ろす。その手は金属質な表面に嫌な滑りを帯びていた。ただ単に液体を浴びたからではなく、明らかにその液体によって表面が溶けている。
「くそ! 本気で、酸をぶちかましやがったのか?」
己の体についた――とりわけ顔にかかった液体を払うとしたのだろう。男子生徒はその手を眼前に持ってくる。
「おいおいおい……何だよ……」
だが男子の手は己の顔の前で空を切った。本来人にはない関節を得てしまったその手は、自分の顔をまともに触ることができないようだ。
男子生徒は闇雲に手を動かす。だが根本の関節が目的の方に曲がると、その先の関節が反対側に曲がってしまう。慌ててその反対側に曲がった関節を曲げようとすると、余計な力が入ってしまうのか正しく曲がった関節が今度はおかしな方向に曲がってしまう。何処までもまともに己の顔一つ触れない。
足の関節もそうだ。辛うじて立てているが、奇妙に歪んだがに股を拡げて男子生徒は後ろに下がっていく。
「……」
慌てふためき奇妙なステップでも踊るように離れていく男子生徒の足下。濡れるその河川敷に膝から崩れ落ち、雪野が脱力したように手を着いた。
両頬に垂れた雪野の黒髪が、その本人の表情を周囲から隠した。
「何やってんだ、桐山! いくら何でも、やっていいことと、悪いことがあるぞ!」
「……」
花応は応えない。まるで実験結果を見守るかのように、花応は雪野と男子生徒の反応を交互に黙って見つめる。
「雪野様……あわわペリ……」
ジョーは気も失わんばかりに震えて立ち尽くしている。
「おい! 何とか、言えよ! 桐山!」
「私はいつも、科学的よ……河中……」
「何、暢気なこと言ってんだ! 千早! 大丈夫か?」
宗次郎がようやく花応を放した。宗次郎は慌てたように雪野に近づきその足下に膝をつく。
とっさに濡れているところを避けたのだろう。宗次郎は少々無理に膝を拡げて足を地面に着いて雪野の顔を覗き込んでいた。そして雪野体を揺すろうとして、その濡れた制服に触る直前でその手を止めてしまう。
「うわあっ! おい、俺をどうにかしろよ! 助けろよ!」
ようやく何とか顔を押さえることができたのだろう。男子生徒が顔を己の手で押さえて指の間から恐怖に歪んだ視線を覗かせていた。
そして力が抜けていくのかその場で膝を着いてしまう。花応が浴びせた液体が男子生徒の力を奪っていくかのようだ。
「少々溶けたって、大丈夫でしょ? あんたらは? 天草さんなんか、平べったくなったって力を失ったら、元に戻ったんだから。雪野に力を奪われれば、元通りでしょ? そこで大人しくしてなさい」
花応が宗次郎の後を追って歩き出す。
「てめえ! じゃあ、そっちの女はどうなんだよ! そいつが無事じゃなかったら、どうなんだよ? ああん!」
男子生徒は立っていることもできなくなったようだ。肩から河川敷に崩れ落ち、憎悪に歪む顔だけ向けて歯を剥いた。
「ふん……ピービーうるさいわね。今は雪野が先よ」
「そうだよ、千早……お前、大丈夫か……」
「……」
かがみ込んで己を心配げに覗き込む宗次郎に名を呼ばれ、雪野はゆっくりと手を己の前に持ってくる。
その様は先に溶ける手の平を確かめた男子生徒そっくりだった。己の身に起こっていることを目と体で確かめつつも、頭で信じることができないような緩慢な仕草だった。
「雪野……」
雪野の脇に立った花応が静かに友人の名を呼ぶ。
「……」
雪野が液体に濡れた髪でゆっくりと花応に振り返った。雪野はふるふると震えている。
「……」
目に飛び込んでくる惨状を想像してか、宗次郎が思わず顔をそらしてしまう。
雪野は濡れそぼるしずくもそのままに、己の髪をかきあげて静かに花応を見上げた。
「花応……」
「……」
友人が浴びせかけ、金属人間をも溶かした液体。
その液体にずぶ濡れになった顔を上げ、
「しみるん――だけど? あれ? 何で、それだけ?」
雪野はその夜目にも変わらない美貌を困惑に歪めて呟いた。
「当たり前よ。実に科学的な結果だわ」
花応は微笑みながら雪野にそう応えると、ずぶ濡れのこの友人の頭を優しく撫でてやった。