三、敵10
「雪野!」
花応がビーカーを手に棒立ちになる。目の前の光景が信じられないようだ。
男子生徒の体は雪野の体を完全に絡めとっていた。雪野を前から抱き寄せるように立ち、自在に曲がる手足で両手両足の自由を奪う。胴体すら腰が左右方向に曲がり雪野を脇から強引に押さえつけていた。
「この……」
「はは! 無駄だって!」
雪野がその金色の四肢から逃れんと身を捩るが、動いたのは軽蔑に歪む男子生徒の顔だけだった。
「おいおい、只の化け物じゃねえか……」
花応を追いかけてきた宗次郎が、華奢なこのクラスメートをかばうようにその前に立った。
「あぁん! 何か言ったか?」
「けっ、化け物だって――」
「非科学ね! ホント、イライラするわ! 生命にあるまじき姿ね!」
宗次郎に聞き返した男子生徒に、花応が割って入って答える。
余程目の前の非科学的光景が不愉快だったのだろう。花応はその場で苛立たしげに足まで踏み鳴らした。
「はは! そりゃ、どうも! この期に及んで科学的かどうかなんて、俺が知ったことか! 勝手に言ってろ!」
「言いたいことが……あるのは、私の方よ……顔、近いんですけど……」
雪野が途切れ途切れに悪態をつく。両手を絡めとられた雪野は、その眼前まで男子生徒に引き寄せられていた。
強引に絡めとられた四肢と胴は、雪野の呼吸と体力を奪っているようだ。雪野の顔は嫌悪と苦痛の両方からか苦しげに歪んだ。
「お手をどうぞって、ちゃんとダンスに誘ったぜ! これぐらいいいだろ!」
「オッケーした覚え……ないわよ……」
雪野が奥歯食いしばる。体勢を整えんと力んだようだが、細かい震えとなるだけで全く動かない。
「ペリ……雪野様が……」
ジョーがようやく花応達の背中に隠れるように近づいてくる。
「さて、とりあえずそのおかしな酸を、捨ててもらおうか」
雪野を人質にとった男子生徒は、尚も締めつけながら花応に振り向く。
「……」
「あん? 無視かよ」
応えなかった花応に男子生徒は苛立ちの目を向ける。勿論瞼も眼球も金だ。その金の瞼が神経質にふるえて花応をねめつける。
「『おかしな酸』じゃないわ、王水よ。濃塩酸と濃硝酸を混ぜて作るわ」
「突っ込むところそこかよ。てめえ、この状況分かってんのか? 捨てろって言ってんだよ」
男子生徒は花応の答えに苛立ちながらも、有利になった状況に落ち着きを取り戻したようだ。むやみに叫ぶのを止め、なぶるようにゆっくりした口調で花応に要求を告げる。
「花応ダメよ……」
雪野が苦しげに口を開く。そして多く話せていない。気道もろくに確保できていないのかもしれない。
「ダメなことないだろ、あんな危ないモノ。人様に向けていいわけないよな。なぁ?」
「……」
挑戦的な視線を花応に向ける男子生徒。その視線からすら守らないと言わんばかりに、宗次郎が花応の前で無言で身構える。
「河中……ヘタに動いちゃダメ……」
「でもよ、桐山……」
「勝手にしゃべってんじゃねぇよ! 俺がしゃべってんだよ! この場の主役は俺なの! 俺を軽んじるなって言ってんだろが!」
男子生徒が爆発したように叫び出し、
「ぐ……」
雪野がその動きに苦しげな息を漏らす。
「ほらほら! 魔法少女様が苦しんでるぜ! さっさと捨てろって言ってんだよ!」
「そうね……でも、さっき言った通り濃塩酸と濃硝酸から作ってるから、そこら辺に捨てる訳にはいかないの」
花応がうつむいて応えた。その表情は薄やみも相まって、前髪の陰に隠れて見えなくなる。
「あぁん?」
「出した時と同じように、このペリカンの口の中に突っ込んで処分するわ」
「ペリ!」
「それで、いいでしょ?」
花応はうつむいたままだ。その表情はまだ読めない。
「そりゃ、いつでも取り出せるって、ことじゃねぇのか?」
「そうね。でも、雪野が居る限り、どうせ使えないわ。違わない?」
花応がようやく顔を上げる。冷静さを保たんとしてか、花応は下から真っ直ぐ男子生徒を見つめた。
「確かにな」
「私が酸を戻したら、とりあえず雪野は解放しなさい。もうこっちには、手はないんだからいいでしょ?」
「はは、いいぜ。降参ってか? やっと身の程をわきまえたか?」
「桐山……」
手がなくなった花応を守ろうとしてか、宗次郎が少し後ろに下がった。
「花応……私に構わず、それを使ってこいつを……」
青ざめ始めさえしている雪野が花応と男子生徒の話に割って入る。
雪野は体と顔を斜めに傾けさせられながら、目だけは真っ直ぐ花応を見ていた。
「何、言ってるの? こいつは酸なのよ。いくら魔法少女だからって、『しみる』って程度じゃ済まないのよ」
「私の怪我はすぐ治るわ……知ってるでしょ……」
「治療の甲斐がないくらいにね」
花応の視線が僅かに横に動く。前からは見えないが『治療の甲斐』がなかった背中を見ようとしたのだろう。
「なら……」
「普通、女の子の顔や体に、酸をぶっかけていいわけないって言ってんのよ……」
「私は普通じゃないわ……」
「あんたね……何処まで、お人好しなの……仕舞いには怒るわよ……ジョー!」
花応は最後は苛立ったようにジョーの名を呼んだ。
「ペリ! モガ……」
ジョーの返事の為に開いたとおぼしき嘴に、花応はそのままビーカーを突っ込んだ。
花応は後ろに控えていたジョーの姿をろくに確かめもせず、胸を張るように手だけ後ろに延ばして嘴にビーカーを突っ込んでいる。
「いい、手を放すわ。そっちも、雪野を放しなさい」
花応はジョーの嘴の奥に手を入れたまま、男子生徒に油断なく視線を向ける。
「いいぜ。手が空なのを見せてもらってからだ」
「ふん……」
花応がゆっくり手を嘴から抜き出した。
抜き出された花応の手。そこにビーカーが握られていないと見ると、
「お人好しは――てめえだ!」
男子生徒は雪野を解放するどころか、一気に締めつけてきた。
「――ッ!」
雪野が声にならない悲鳴を上げる。
「千早!」
宗次郎が思わず前に飛び出し、男子生徒に飛びかかろうとする。飛び出した宗次郎に隠れて花応の姿が皆の視界から隠れた。
「ジョー!」
聞こえてきたのはもう一度ジョーの名を呼ぶ花応の声だけだ。
「てめえ……」
男子生徒に飛びかかった宗次郎が、その金の腕を力づくで引き離そうと両腕で引っ張った。
「はは! 非力な一般人に、何ができるってんだ!」
「この……」
笑う男子生徒の言葉通り、宗次郎の力ではその腕はびくともしなかった。
「く……」
雪野が苦痛に呻く。
「河中――」
「桐山、手伝え! こんなの許せねえ!」
己の名を花応に背中で呼ばれ、宗次郎は振り向きもせずに応える。
「河中――邪魔よ。巻き沿い食らいたくなかったら、どいてて……」
「はぁ? 『巻き沿い』――って! おい、桐山! お前!」
宗次郎が驚いたように振り返る。振り返れば花応は右手を挙げて立っていた。宗次郎は更にその延ばされた手の先を追って顔を上げる。
花応は手を三人の頭上に掲げていた。その手には何か液体の入った容器が握られている。
薄やみの中その液体は不気味に黒く揺れる。
花応は同時に宗次郎の襟首を開いていた方の手で掴んだ。
「てめぇ! 本気か!」
「花応……やりなさない……」
男子生徒が驚きに目を見開き、雪野が苦痛に目を細めてそれぞれ花応を見る。
花応が宗次郎の襟首を後ろに引いた。驚き振り返っていた宗次郎は引かれるままにバランスを崩して後ろにその身が倒れていく。
宗次郎の体が二人から離れるや否や、
「溶けなさい」
花応はその液体を――雪野と男子生徒の上に冷静にぶちまけた。