三、敵2
「し、しみるペリッ!」
ジョーはベランダで飛び上がった。水鳥の姿をした不思議生命体が、人間臭くも慌てた様子で羽と足をばたつかせて飛び上がる。
「ひどいペリよ! 動物虐待ペリよ! 飼いペリカンに何するペリよ!」
血塗れの上に薬品にもずぶ濡れになったジョーが、抗議にけたたましく嘴を打ち鳴らす。
「やかましい! 思いっきり心配させて、何調子こいてんのよ! てか、あんたなんか飼ってないから!」
「ジョーは怪我してるペリよ! 普通もっと優しくするペリよ!」
「うるさい! 治療ならもうしてあげたでしょ? ええ、大盤振る舞いしてあげたわ! もう一杯いっとく? 希ヨードチンキ! あんたの為なら、私の会社からいくらでも手に入れてあげるわ! プールにして飛び込んでもらってもいいわよ!」
抗議の意を示さんとするジョーを、花応がそうはさせじとか頭の上から押さえつけた。
「愛鳥に対する愛がないペリよ!」
「『愛』? アイならいくらでもあるわ! ヨードは原子番号53番! 元素記号は『I』だもの! あんたは今まさに、私のIに包まれてるのよ!」
「そんなアイ要らないペリッ! しみるだけペリよ!」
「ヨードIが身にしみる! いいわね! 科学的愛情表現だわ!」
「おい……」
いがみ合う花応とジョーの脇で、カメラを構えたままの宗次郎が乾いた声を漏らす。
「何よ、河中? 今ちょっと忙しいのよ」
「そうか?」
「そうよ。今こいつを黙らせるから、待ってなさい」
宗次郎にろくに振り向きもせず、花応はジョーの首根っこを押さえつけて黙らせる作業に没頭していた。
「そうか。『黙らせる』のか?」
「黙らせるわよ! いつもふざけたことばかり言って!」
「黙らせるってことは、今こいつがやっぱりふざけたことを言ってるんだよな?」
「何、おかしなこと言ってんのよあんたは? 見たら分かるでしょ?」
花応は両の拳を握るとペリカンの小さな頭を両脇から挟み込む。そのまま力を込めてジョーを痛めつけ始めた。
「おお、そうか? 俺は今、自分の目を疑っていたんだが、やっぱりふざけたこと言ってるのは、このペリカンなんだよな? 見ての通り?」
「そうよ! てっ! あっ?」
花応の動きがピタリと止まった。そのままゆっくりとぎこちない動きで首を宗次郎に振り向かせる。ぎぎぎと、錆びた蝶番が立てるような音まで聞こえてきそうなぎこちない振り向き方だ。
「ペリカンがしゃべってやがる」
疑問に眉間に皺を寄せ、驚きに口を半開きにした宗次郎。己の失態に呆然と振り返った花応に、手に持ったカメラのシャッターを一枚切った。
「うおおおっ! マジかよ! 証拠写真! 証拠写真!」
一枚切ったカメラのカシャリという音で日頃の己を取り戻したのか、宗次郎が堰を切ったようにシャッターを切り始める。
「ちょっと……河中……待って……」
ジョーの姿を隠すべきか、それとも宗次郎のカメラを押さえるべきか、花応は判断に迷ったらしい。ジョーと宗次郎の間でオロオロと首をめぐらせた。
「撮るぞ! 衝撃写真! 獲るぞ! ピューリッツアー賞! おおおお!」
「ちょっと、止めてってば、河中!」
「止めるな、桐山! 俺には真実を報道する義務がある! あっ、しまった!」
「何よ?」
「声は、写真に写らない!」
宗次郎は己の発見に驚いたように、大きく目を見開きながら固く握り締めたカメラに目を落とした。
「当たり前でしょ! 科学的に考えなさいよ!」
「じゃあ、動画モードで」
宗次郎はあっさりと立ち直ったのか、軽い調子でカメラのボタンを押した。
「だから、ダメだって!」
花応が宗次郎のカメラを慌てて押さえ付ける。
「何でだよ?」
「これ以上話をややこしくされて、たまるもんですか!」
「お前のペットじゃないんだろ? だったらお前に止める権利なんかない!」
「ここは私の部屋よ!」
「権力の濫用に立ち向かうのも、ジャーナリストの使命!」
「調子乗ってんじゃないわよ! あんたは!」
「有名人ペリ」
「あんたも、調子乗んな!」
あらためてカメラにポーズをとったジョーの頭に、花応が慌てて振り返って拳を叩きつけた。
「痛いペリ!」
「てか、忙しいな、桐山」
「うるさい!」
二人と一体が大騒ぎをするその向こうで、
「いたわ……あいつね……」
一人ベランダの外を凝視していたままだった雪野が呟いた。