三、敵1
「ジョーッ!」
科学の娘を自負するこの部屋の家主――桐山花応が慌ててベランダに駆け寄り、外へと続くガラス戸を開けた。
「ペリ……」
不思議生命体を名乗るペリカンにしか見えない人語を理解する生き物――ジョーはベランダに落ちたまま、嘴から突っ伏すように倒れている。
「何やってんのよ? どうしたのよ?」
「やられたペリ……」
ベランダに飛び出し膝をついて覗き込む花応に、ジョーは消え入るような声で答える。全身から流れ出た血の一部は早くも固まり始め、ジョーの白い羽毛にこびりついていた。
「やられたの? 誰に! まさか金のあいつに?」
「……」
「ジョー! しっかりしなさい!」
「……」
大半の力を失っていながら魔法少女の使命に突き動かされる高校一年女子――千早雪野は、チラリとだけジョーに視線を落とすや花応の横を抜けてベランダに出た。そのままベランダの柵に手を着いてマンションの下を覗き込む。
もはや完全に陽の落ち夜のとばりが支配を始めた街の景色が眼下に広がる。
その自然のカーテンを突き破らんとしてか、雪野は闇夜に目を鋭く凝らした。
視線が険しいのは闇の向こうを見透かそうしたからだけではないらしい。身に沸き起こる怒りのままにか、雪野は着いた手でベランダの柵を音が鳴らして握り締める。
「おいおい……このペリカンあれか? 今日校門で騒ぎ起こしてたペリカンか? あのいけ好かない生徒会長まで野次馬しにきてたあん時の? 血塗れじゃねえか……」
新聞部のエースと自らを喧伝する花応と雪野のクラスメート男子――河中宗次郎がガラス戸に手を着いて覗き込む。その手には勿論カメラが握られている。
「そ、そうよ……てか、生徒会長さんは、べ、別に……野次馬にきてたんじゃないわよ……」
己の背中の上から覗き込む宗次郎に、花応が方々言い淀みながらに答える。その顔が少々赤くなる。上から見れば覗き込んだ宗次郎の体が花応の頭に触れていた。
「そうか? どれ、写真を一枚」
「撮んな!」
カメラをジョーに向けた宗次郎の手を、花応が振り向いて慌てて押さえ込む。
「む? 動物虐待の動かぬ証拠かもしれないんだぜ? ご近所さんに注意を促す為にも、真実を皆に伝えるべきじゃないのか?」
「これは……動物虐待――とかじゃないわよ……ちょっと! 消毒液とか持ってくるから、見ててよね!」
花応はカメラを押さえ付けていた手を起点するかのように立ち上がる。撮るなと約束される為にか、花応は宗次郎の手を最後に下に一押ししてからその手を離した。
「おう! てか、これあれか? やっぱ、桐山のペットなのか? セレブなマンションじゃ、ペリカンまで飼えるのか? すげえな」
「飼ってなんかないわよ!」
慌ててダイニングに戻った花応は、廊下へと続くドアの向こうに消える。すぐに聞こえてきたのはドアを開ける荒々しい音と、ドタドタと部屋を走り回る花応の足音だ。
「……」
雪野は無言でマンションの下に鋭い視線を送り続けていた。その眼下の向こうには百メートル程の川幅を持つ緩やかな水量を持つ河が南北に流れている。
雪野は鋭い視線のままにその河川沿いに引かれた幹線道路脇に目を凝らしていた。その目は明らかに通行人を追っている。この薄やみの中でも、雪野はまるで一人一人の表情まで分かるかのようだ。影のような存在の一人一人を凝視しては次々と通行人の姿を目で追った。
「違うのか? お金持ちの間で飼うのが流行ってる、セレブペリカンか何かじゃないのか?」
シャッターに指をかけたまま押しはせず、宗次郎は色々なアングルでカメラのフレームにジョーをとらえる。
「そんなモノ! 流行るか! 待ってなさいよ、ジョー!」
ドアの向こうから花応の声だけが聞こえてくる。そして色々と物を探り出しては放り投げているのだろう
「……」
ジョーがその花応の声に応えるように長い首を起こした。次いで血塗れの体を起こそうとしてか、やはり血に染まる羽をベランダの床に着いた。その身から流れ出て床にまでこびりついていた血が、ベランダの床から痛々しいまでにはがれる。
「おお! 桐山! ペリカンが、動いたぞ!」
「そう? ごめんだけど、無理させないようにして! ないない! 消毒液何処よ?」
「大丈夫か? おい、ペリカン! どうした? 無理すんな!」
「ジョー大人しくしてなさい! 何処やったけ? ああ、そうだ! 雪野の治療したから、出しっ放しなんだわ!」
一際大きく叫んだ花応の声に続いて、やはりドアを荒々しく開け閉めする音と足音が響き渡る。
「おい! ペリカン! お前――」
宗次郎が息を呑んでカメラを眼前に構える。
「どうしたの? ジョー!」
花応が血の気の引いた顔でベランダに駆け戻ってきた。その手には黒紫色の液体をたたえた液体を握り締めている。先に雪野の背中の傷を消毒した消毒液だ。
ベランダでは血塗れになりながらジョーが震える足で立ち上がっていた。
そのままジョーは嘴を開こうとしていた。だがうまく言葉が出ないらしい。焦点も合っていないような目も同時に震わせながら、何度も声の出ない嘴をカタカタと打ち鳴らす。
「ジョー! 座ってなさい!」
花応はベランダに戻ってくるや否や立て膝をつき、ジョーの治療をせんと消毒液のビンのフタを勢いよく開けた。
「せ……」
「無理しちゃダメ! ちょっとしみるけど、我慢なさい!」
「せせせ……」
そしてジョーはようやく喉の奥から、振り絞るように息を吐き出した。
「セレブペリカンペリ!」
ポーズをとったらしい。ジョーは震える左の翼を背中にピンと伸ばし、右の翼を人間で言えば拳にあたる部分で己のアゴにもっていく。
「おお……」
その姿に思わず宗次郎がシャッターを切る。
ジョーはどうにもにやけが隠し切れないのだろう。宗次郎がシャッターを切る度に、ジョーの嘴はだらんと開いていく。
その弛緩し切ったジョーに顔面に、
「元気じゃないの! あんたは!」
花応は『ちょっとしみる』消毒液のビンを思い切り投げつけた。