十二、反せし者 55
「ふぅ……」
全てを吐き出したようなお大きな息を吐き出して雪野が魔法の杖を胸元に引き寄せた。
雪野はそのまま杖を胸に押し付けて静かに目をつむる。未だ雪野の呼吸は大きく胸を上下させていた。多くの酸素を求めるそれは、自然と大きく口を開けさせ胸元に押し当てた杖ごと胸を膨らませてはしぼませる。
魔法の杖を胸にあてて一人息を整える雪野。雪野はわずかに目を見開き直すと少しずつ胸の上下を緩やかにしていく。
「おお、画になるな」
宗次郎が両手を目の前に挙げて近づいてきた。両手の人差し指と親指を直角に折り曲げて四角い枠を作り出し、宗次郎はその即席のフレーム越しに雪野を見る。
「勝手に撮ったら、怒るわよ」
花応が吊り目の目尻を更に釣り上げて振り返る。
「カメラは構えてねえだろ?」
「この惨状ごと雪野に写真に収めたら、殺すからね」
「はいはい」
「確かに! こりゃ、ひどいッスもんね! 千早さん、やり過ぎッスよ!」
速水が雪野の背中の向こうでケラケラと笑った。
「ひどいって……」
花応が廊下から教室へと視線を巡らせた。
教室は全てがひっくり返っていた。その前に教室と廊下を隔てる窓が派手に割られている。そして廊下の床には蜘蛛の巣状のひび割れが走っていた。
教室ではジョーが羽を広げて花応の視線に応えていた。そこから抜け出た羽が更に教室に散っていく。
「教室を撒き散らしたのは?」
「千早さんと、自分ッスね」
「この窓ガラスを破壊したのは?」
「千早さんと、自分ッスね!」
「この廊下をヒビだらけにしたのは?」
「千早さんと、自分ッスね! あはは!」
「あなたね……」
「廊下はあなた一人の仕業でしょ?」
花応の質問に軽薄に笑って答えていた速水に、息を整え終えた雪野が振り返る。
雪野は振り返ると同時につま先だけ上げて廊下を苛立たしげに二度、三度踏みつけた。
雪野の上靴の下でひび割れていた廊下の細かい破片が踊る。
「そうだったッスかね? どの道連帯責任ッスよ」
「どっちでも、いいわよ。彼恋、怪我はないか?」
花応が首を伸ばして雪野の背中の向こうを見る。
「怪我はないけど……私の経歴に傷がついた気がするわ……」
彼恋が講義と呆れを表すためか、両肩を派手に落としながら応える。
「別に彼恋の経歴に傷はつかないだろ? お姉ちゃん、上手く言っておくよ」
「あんたが、そんなに器用な訳ないでしょ? てか、あんた。まだ私がここにきた意味――」
「ペリッ!」
彼恋が全てを口にする前に、ジョーが割れた窓ガラスから廊下に飛んできた。
ジョーは興奮気味に羽を羽ばたかせ窓を飛び越え、廊下に出るとすぐにその場で止まろうとする。
急に飛び出し、その上をいく急さで止まろうとしたジョーは廊下にも派手に羽を撒き散らした。
「ペリ! 雪野様! 無事ペリか?」
ジョーは廊下に降り立った後も無意味に羽をばたつかせた。
その勢いで抜けた羽が更に廊下撒き散らされる。
「こら、ジョー! 羽がうっといわよ!」
「花応殿! ジョーも頑張ったペリよ! 少しぐらい、いいペリよ!」
花応がジョーの頭を叩き、それでもジョーは羽を撒き散らせて抗議する。
「結局、なんだったんすか?」
その様子を呆れたように見ながら宗次郎は時坂の背中に問いかけた。
「僕は光を見た……十年前にね……」
時坂は宗次郎に振り返らず答える。
「……」
「あの時抱いた感情はなんとも言えないものだった。あの光に対して抱いた感情。憧れか、畏怖か。羨望か、恐怖か。光なのか、闇なのか……圧倒的な力を前に何もできない自分を……僕はあの光に全て見せつけられた……」
「子供だったんですよね? 何をそんなに思い詰めたんですか? まさか初恋でしたってオチですか?」
「突っ込んで訊いてくるね。流石新聞部だ。だけど、答えはよく分からない」
「……」
「光はその後、僕の興味の全てになったよ。光――桐山さんに言わせれば、光子はとても不思議だ。桐山さんほどじゃないが、素人なりに色々と本で読んだよ。光は質量がなく文字通り光速で移動する。物質は速く動くと時間が遅れる。だから光速で動くと、時間は完全に止まる。つまり光は時間を感じないとか。仮に光を追い越せば、それは時間を遡ることを意味するとか。電子間の光子のやりとりでは、まるで時間を遡って光子を交換しているよう見えるとか。その重力故に光すら外に漏らさないブラックホール。そのブラックホールに落ちる物体は、外部から見れば永遠に止まって見えるとか。光だけ勉強してるつもりなのに、いつ間にか時間の話になっている。そしてその時間に対して、光なら何かすがれるものがあるんじゃないかと期待してしまう。光ならね……」
時坂はやはり宗次郎に振りからずに一人続ける。
その視線の先にはジョーの頭を撫でている雪野の姿があった。
「その光にコンプレックスを抱いたんでしょ? すがるんですか?」
「その通りだね……不思議だね、光は……」
時坂が最後まで雪野の横顔を見ながら答えると、
「皆戻ってきたね……」
廊下の向こうから複数の足音が響いてきた。
参考文献
『宇宙になぜ我々が存在するのか 最新素粒子論入門』村山斉著(講談社ブルーバックス)