十二、反せし者 48
「時坂!」
雪野が全てをかなぐり捨てたかのように叫ぶ。
目まで剥いて放ったの視線は、怒りに震えていた。
雪野の全てを呑み込むような視線の先では時坂の力が爆発を引き起こしていた。
あろうことかそれは花応の眼前だった。
「――ッ!」
花応が声も上げられずに後ろに弾かれたように仰け反った。
それは自身の意志でもなければ、反射的に身をそらしたのでもない。
前から強引押されたか、後ろから力づくで引かれたかのように、エビぞりに花応は仰け反る。
下半身すらそこに残してしまっているような、無理に体型で花応は後ろに弾かれた。
「花応!」
雪野が今度は花応の名を呼ぶと廊下を蹴った。蹴られた廊下から小さな破片が舞う。
それは廊下の破片だった。雪野の一蹴りは床材をその場で砕き跳ね上げていた。
それほどの怒りの一歩で駆け出した雪野は一瞬で時坂の目の前に現れる。
「その娘を離しなさい!」
雪野が花応を取り返そうと腕を突き出して時坂に襲いかかる。
奪い返すべき花応の姿は完全に身を後ろに仰け反らせていた。雪野からはその顔が見えなかっただろう。
花応は意識がないのか、無造作に掴まれていない方の左手を宙に漂わせる。
雪野は突き出された花応の包帯の巻かれた左手を掴もうと手を伸ばす。
雪野は薄ら笑いを浮かべる時坂の前に無防備に身を曝してまで、花応の左手を掴みにいった。
目を剥く雪野に、笑みを浮かべる時坂。そして反転した左手だけが宙を漂う花応。
その全てが一点が交錯する瞬間、
「おっと……」
時坂のその声とともに雪野だけ残して全てが消える。
「――ッ! 鏡の移動!」
雪野はとっさに背後を振り返る。雪野の読みの通りそこには花応の背中を支えるように時坂が立っていた。
花応は意識を失っているかのように、ぴくりとも動かない。弓ぞりに背中をそらした体を、時坂が支えることでようやく立っていた。
包帯が巻かれた右手が力なく廊下に向かって垂れて揺れる。その腕に力が入っていないのは、体が揺すられるがままに振れる腕の動きですぐに見て取れた。
「時坂!」
もはや名前を呼ぶことしかできないのか、雪野が今度も目を剥いて怒りに肩まで震わせる。
「この!」
だがその姿に先に反応したのは宗次郎だった。
雪野に負けず劣らずに怒りに目を剥いて後ろから宗次郎は時坂に掴み掛かる。
「ふふ……」
背後に目でもついているかのように時坂の姿は宗次郎に掴まる前に消える。
時坂の姿を見失った宗次郎はその場で勢い余ってつんのめる。
「クソッ!」
余程必死になっていたのか宗次郎はろくに手もつけないままに廊下に倒れた。
時坂が今度現れたのは彼恋と速水の前だった。
「ちょっと……大丈夫なの……」
彼恋は血の気の退いた様子で、真っ青な顔でその場に立ち尽くしていた。
突然目の前に現れた時坂。その時坂が背中を抱える花応は、目をつむって彼恋にその顔を逆さまに向けていた。
仰け反った姿の花応の額では、力なく廊下に向かって下がった髪がこちらも揺れる。
自慢の吊り目はつむられ、口は半開きに力なく開けられていた。
包帯の巻かれた左手はやはり意識が通っておらず、時坂の動きになすがままに揺れる。
「やり過ぎッスよ、カイチョー……」
速水が彼恋の前に立つ。時坂から彼恋を遠ざけると、一緒に花応の姿を彼恋の視界から隠してしまう。
「おっとそうだね……奇数回反転すると、左右が元と逆になっちゃうね……やり過ぎたね……」
「何を、暢気な……」
視界が塞がれた彼恋が、目の前に立った速水の背中を押しのけるように顔を突き出す。
「彼恋ッチ! 引っ込んでるッスよ!」
「アレ、一応ウチの姉よ! 引っ込んでられないわよ!」
「何ができるッスか!」
「せっかく、こっち来たのに!」
「だとすると……このままではダメか……」
言い争い始めた彼恋と速水を無視し、時坂が何やら呟いた。
「――ッ!」
その背中を無言で目を剥いた雪野が襲う。
「ふふ……」
気配でそのことを察したのか、時坂の姿はまたもや消えた。
雪野が振り下ろし杖が先まで時坂が居た空間で宙を斬る。
「預けよう……」
時坂と花応の姿は倒れたままの宗次郎の目の前に現れた。
起き上がろうとしていた宗次郎の眼前に、力なく垂れる花応の前髪が揺れる。
そしてその前髪が風に吹かれたように額に向かって戻った。
時坂が花応の背中を離していた。
慣性のままに前髪を一瞬元の場所に残した花応が、背中から倒れてくる。
「桐山!」
最後は跳ね上がるように立ち上がった宗次郎が慌ててその身を掴まえると、
「もう十分役に立ってくれたからね……」
時坂はその様子に目もくれずに前だけ見つめていた。
その視線の先では憎悪に目を剥く雪野が、
「――ッ!」
妖しいまで光を瞳に宿してその身を震わせていた。
次回は2/13以降の更新予定です。