十二、反せし者 42
「なっ……」
喜色も露にした時坂の顔が一瞬で凍りつく。それは明から暗への一瞬の変化だった。それ故にその顔にできたシワは深く時坂の眉間に刻み込まれる。
「……」
応えた花応の顔はこちらは元から無表情を決め込んでいたようだ。身長差からいつもの吊り目をやや上目遣いにして時坂の瞳の奥を覗き込む。
「君は今、数々の理論を……僕の力を受け入れて……万物の理論を……」
「おあいにく様ですね……今私が整理していたのは、普通にもう知られていることです……」
花応がアゴを引き挑むように上目遣いにして時坂に応える。
「何……」
「そこら辺の書店に行けば、お安く買える新書判で分かる知識ですよ……素人にも優しく書いてくれる、賢い先生達のお陰ですよ……」
「な……何を、言って……」
時坂が軽く顔を振った。ようやく自身の顔に張りついたこわばりをそれで振り払い、冷静さを取り戻そうとしたようだ。
狙い通りにいつもの人を見透かしたような笑みを取り戻した時坂は、それでも語尾をかすれさせていた。自身のその声のかすれに驚いたように、時坂は最後は言葉を呑み込む。
「非科学ですって言ったんですよ」
対して花応は僅かにほほを緩めるときっぱりと言い切った。無表情も、挑戦的な視線もそこからはぬぐい去られていた。自然と浮かぶ笑みを花応はその吊り目の目尻に浮かべる。
「花応……」
「ふふ……」
背後で目にも止まらない攻防を繰り広げていた雪野と速水が同時に動きを止めた。
「大丈夫なのか、桐山?」
宗次郎が花応の顔を覗き込む。
「何よ? 何の話よ?」
廊下の反対側で待つ彼恋も背伸びをして花応の様子を伺った。
「ぺり……」
いつの間にか窓際まで避難していたジョー。体を教室の奥に引っ込め、その長い首を胴に引っ込めていたらしい。ジョーはおそるおそるという感じで首を左右に歪めながら伸ばして、廊下の様子を伺っていた。
「ええ、河中。大丈夫よ。まあ、不意を突かれて、危なかったのは認めるわね」
花応がふっと鼻から息を抜きながら宗次郎に答える。
「何故だ、桐山くん? 僕は君に魅力的な提案を〝ささやいた〟」
「そうですね。少し心揺れました。万物理論だなんて。誰でも知りたいに決まってますから」
「いやいや、桐山。『決まって』ないって。何だよ? 〝ばんぶつりろん〟って。まずその単語から知りてぇよ!」
「むっ? 如何にもひらがなな発音してんじゃないわよ、河中。万物の理論で、万物理論よ。Theory of Everythingよ」
花応が頬を膨らませて宗次郎に振り返る。
「いや、分からん! 何の話だ? 万物理論なんて、初耳だ! 当たり前のように言うな!」
「何? 万物理論の話をしてるの? いきなり?」
彼恋が廊下の向こうから首を伸ばしていた。
「そうよ、彼恋」
「『標準模型』や、『弦理論』も、『超弦理論』もすっ飛ばして? 万物理論の話をしてるの、花応?」
「そうだ、彼恋。お姉ちゃん、今。万物理論を知る力が欲しくないか――って、〝ささやか〟れた」
「はぁ、何それ? 乗んなさいよ。ノーベル賞もらえるわよ」
「いやいや、乗らないから、彼恋。いい、河中。万物理論ってのは、それがあればこの世の全てを説明できる理論よ」
「はい? そんな都合のいい理論なんてあるのかよ?」
「あるわよ。あるはずよ。世界は色々な理論で成り立つのではなく、その根本に追いては一つの理論で成り立つはずなのよ」
「ホントか?」
「いい? かつて世界を説明するには、電気なら電気。磁気なら磁気。『弱い力』なら弱い力で説明しないといけなかったの。一個一個力ごとに説明しないといけなかったのね。でも、それって〝美しくない〟わ。世界はもっと単純な理論でできているはずなのよ。それが世界を作り出す際に、条件が変わって色々な側面を見せているだけのはずなのよ。実際、『電磁気力』として、電気と磁気は統一されたわ。これが『電磁相互作用』。マクスウェルの功績ね。そして電磁相互作用は、『弱い相互作用』の弱い力と統一されたわ。これが『ワインバーグ・サラム理論』。ああ、弱い力は『ベータ崩壊』の時に作用する力ね」
「お、おう……」
宗次郎が助けを求めるように目を左右に泳がせた。
「でね! まだ、『強い力』と『重力』が統一されていないの――」
そんな宗次郎の視線には気づかずか、花応が危機として語り始める。
「ああ、強い力は『クォーク』を結びつけているわ。クォークぐらい分かるわよね? ああちなみに、その強い力を結びつけているのは、『グルーオン』って言う粒子。力を伝える粒子よ。如何にも着ぐるみヒーローに居そうな、強そうな名前よね。ああ、脱線、脱線。でね、重力も合わせて、まだこの強い力と、重力が統一されていないの。これを説明できるような理論が求められているわ。それこそ神の数式。万物理論が求められて――」
花応は廊下で一人饒舌に語り始め、
「……」
時坂はその脇でぎりりと奥歯を鳴らしていた。