十二、反せし者 37
「はい?」
突然和歌を口ずさみ己の横に立った彼恋に、速水が虚を突かれたように振り返る。
いきり立っていた肩が微かに落ち、憎悪に剥かれていた細い目が僅かに緩む。
「ちょっと、聞き返さないでよ。和歌とか素で詠むと、照れるんだけど」
彼恋がそんな速水にむっと頬を膨らませ、吊り目の目を覗き見るように細めて横目で向ける。
その顔は何処かすねているようにも見えた。
「いや、意味分かんないッスよ?」
速水が自身の気を引き締め直そうとしたのか、その細い目の目尻に力を入れ直す。
「はぁ? 『意味分かんない』? 有名な歌でしょ? 意味も知らないの?」
彼恋が吊り目を大きく見開いた。相手の言葉が信じられないと表す為か、剥いた目でまじまじと速水を見つめる。
「いやいや! そういう意味分かんないじゃなくって、今その歌出してくる意味が分かんないッスよ」
「はぁ? 意味が分かれば、意味が分かるでしょ?」
「だからも、意味分からないッスって。何なんッスか?」
今や二人は周囲の人間を置いてけぼりにして正面から顔を突きつけ合わせていた。
「あんた、勉強してるの? ちょうど古典の授業だったんでしょ? てか、義務教育の範囲でしょ? 文字通りの古典的和歌でしょ?」
「はんっ! 余裕の遅刻ッスよ! 遅刻ついでに、暴れてあげたッスよ!」
「はん! アホね、ダメね、イタい娘ね! 古典的和歌どころか、古典的バカだわ! 遅刻自慢なんて、してんじゃないわよ!」
「遅刻どころか、学級崩壊させたッスよ!」
「物理的に崩壊させてんじゃないわよ!」
「お、おい……彼恋……」
周囲の人間を置いていがみ合いを始めた彼恋に花応が躊躇いがちに手を伸ばすが、
「科学的ッスよね? 物理的学級崩壊!」
「そういうの要らないから!」
彼恋と速水は今や鼻先を突きつけあわせて睨み合い全く取り合わなかった。
彼恋は横目にも花応達を見ずに続ける。
「いい? 千早ぶる――とか言ってたから。この歌、思い出してあげたんでしょ?」
「何で、そんな恩着せがましいッスか? 何か、意味あんッスか?」
「ふん! 別に、瀬を早み――のハヤミつながりで、思い出しただけよ。肝心なのは、この後に続く句よ。いい? 『瀬を早み』から『岩にせかるる滝川の』までで、急流で岩に分かれる川の流れを表してるわ」
彼恋がようやく速水から目を離す。
その頬が少し赤らんでいた。先までならそれはただの興奮がもたらす血潮に見えただろう。だが視線を逃すように動かしたその目に続く頬の赤は、何処か照れがもたらす赤みに見えた。
「はい?」
「いいから、聞きなさい! いい? 岩に分かれた川の流れは――」
彼恋は視線を速水から離したまま続ける。
「そ、その一度分かれた水の流れは……瀬を早むような急流で、滝のような川の流れだっとしても……それが岩にせかれて、二つに分かれたとしても……そ、そうよ……わわわ、『われても末に逢わむとぞ思ふ』訳よ!」
「何ッスか? 最後説明になってないッスよ? はしょったッスね?」
「はしょったわよ! 割愛したけど、わ、分かるでしょ?」
彼恋がようやく速水に向き直った。両の拳を握り締め、それを胸の前まで上げる。そして何かを分かってもらいたげに、握られた手を上下に激しく振る。
「ああ。彼恋は、こう言いたい訳だな――」
花応がもう一度背後から手を伸ばした。
「少し、彼恋さんに任せましょう」
その花応の手を雪野が押しとどめる。
「雪野?」
「これは、二人の話よ、花応」
雪野が花応に応えながら彼恋達に向き直る。
「いや、だから。分かんないッスよ」
「ああ、ホント! 分かんない娘ね! これじゃあ、せっかくとって来た書類が台無しよ!」
「『書類』? 何ッスか?」
「――ッ! こ、こっちの話よ! そうよ、こっちの話はどうなのよ? そこの――ペリカン!」
彼恋が速水の視線から逃れるように教室に振り返る。
「ペリ! 頼まれものは、まだペリよ!」
突然話を振られたジョーが、その長い首を引っ込めた。
「遅い! 鳥類でしょ! 飛んで来なさいよ!」
「飛んで来たペリよ、彼恋殿! そしたら、宗次郎殿に教室に呼ばれて、気がつけばこの騒ぎペリよ!」
「結局、あんたのせいか!」
彼恋が吊り目を剥いて速水に振り返る。
「どんな、用事があったか知らないッスけど! おあいにく様ッスね! 今は、光と闇の戦いッスよ! 自分は闇の魔法少女ッス! 彼恋ッチとはもう、別の世界の人間ッスよ!」
「ああ、もう分かんない娘ね! 『別の世界』? はぁ? だわ! 別れても、もう一度会いたい――それがこの歌の意味でしょ?」
彼恋が最後は荒い息とともに廊下を力の限り踏みつけた。
「へっ?」
「『へっ』――じゃないわ! いつ友達やめた? そ、そりゃ、友達ってほどじゃなかったかもだけど……と・に・か・く! 私のことを、勝手に決めんな! 光と闇? もう一度、はぁだわ! こんなときは、あんな姉で大正解ね! 光の反対は光よ! 光子の反粒子は、光子よ! 科学がそう言ってるわ! だったら、私は――」
彼恋は身を翻して廊下の向こうに振り返り、
「こっちの光につくわ!」
速水のよこに立って花応達と正面から対峙した。