十二、反せし者 36
「ふふ……」
時坂が一人満足げに笑う。
両の口角が吊り上がったその顔は己の欲しいものを手にした者特有の笑みだった。
「ペリ……」
その笑みを横で見てジョーが怯えように身を避けた。
廊下に出るタイミングを失ったらしいジョーが、一人と一匹だけ残された教師で時坂から距離をおく。
それほど時坂の笑みは利己的でぞっとするような暗さがあった。
「うっさいッスよ! 理屈が何ッスか? 科学が何だって、言うッスか!」
速水が両手を闇雲に振って叫んだ。
まるで目の前にある霧か靄でも振りはらおうするかのように、その手は無秩序で無軌道にふるわれる。
「彼恋ッチも! 桐山さんも! 言ってるのは、ただのお話ッスよ!」
振り払いたかったのは自身の言葉を否定する二人の言葉だったようだ。
「そうね。確かに『ただのお話』だわ。そういう風に言われている。考えられている。科学的にはそうだって話なだけよ」
花応が一歩前に出た。
「でも、まあ。科学者が科学的に考えた結果よ。ただのお話ではないわね」
自身の斜め後ろまで近づいた花応の後を受けて彼恋が続ける。
「そうよ。人類がその頭脳を使って考えたのよ。科学的に正しいとされる正解を。相反するモノ同士がぶつかればどうなるのか? 反物質とは何故か? 何故今物質しか世界にはないのか? 本来は『対生成』と『対消滅』で、生まれる端から消えていくものなのに――とかもね。ちなみにそれは『CP対称性の破れ』で説明が――」
彼恋の真横に立った花応。彼恋の後を受けてその花応が尚も長々と話し出そうとすると、
「それ今、関係ある話ッスか?」
速水が苛立に目尻を痙攣させながら割って入った。
「そうよ、花応。今はCP対称性の破れまで説明する必要はないわよ」
「ええっ? でも、彼恋。お姉ちゃん、物質と反物質が宇宙誕生では同数だけ存在したはずなのに、今は物質しかないという不思議を科学的にどう考えるかは重要だと思うんだ。この鏡写しとも言うべき物質の関係のつまるところを、一から理解しないと、私達の宇宙の成り立ちも分からないし。この宇宙に物質と反物質が〝あるけどない〟ことを理解してから、光の反対が光であること――つまり、光子に反物質がないことを説明した方がいいと思うんだ」
「蛇足よ、無駄よ。非経済よ。なんで宇宙の成り立ちまで、今ここで説明するつもりなのよ。無駄なく、相手を納得させなさいよ」
「そ、そうか。そうだな、彼恋。お姉ちゃん、いつも科学のことだとしゃべり過ぎで……」
「ふん。それ、毎日聞かされながら育った身にもなって欲しいものだわ」
最後は彼恋がふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向くと、
「ああ、ゴメンよ、彼恋」
花応が慌てたようにその顔を覗き込んだ。
「何二人で勝手に話をしてるッスか!」
そしてその二人の目の前では速水が廊下を苛立たしげに踏みつけていた。
怒りと苛立のありったけを、更に力と魔力の全てを足の裏にぶつけたらしい。
速水の足の裏は廊下を踏みつけながら、電流を迸らせていた。
廊下が音を立てて蜘蛛の巣状にひび割れ、その割れ目以上に奔放に電撃が四方八方に飛び散った。
「キャーッ!」
野次馬の一角がついに雪崩を打って崩れた。
速水の起こした放電に目をくらまされ、女子生徒が顔を覆いながら悲鳴を上げる。
そして一人が他人を押しのけて駆け出すと、周りの皆がそれにつられるように逃げ出した。
「き、桐山さん!」
逃げ惑う生徒達の間から、先に廊下に避難していた氷室の声が聞こえた。
「氷室くん? 天草さんを連れて逃げて! お願い!」
声のした方に花応が振り返る。だがごった返す廊下で見えたのは氷室の顔だけだった。必死に視界を確保しようと上にと伸ばされたその顔の横には、身を守ろうと背を丸める天草の後頭部が見えた。
「分かった! む、無理しないで!」
その言葉を最後に氷室の顔が人の背中に呑まれていく。
廊下の両サイドは瞬く間に慌てふためく生徒の背中で埋まり、そして互いにもつれながら小さくなっていった。
教師すら逃げ出した廊下に残されたのは、花応達四人。そして教室の中から傍観者のように廊下を見ている時坂と、おろおろと長い首を左右に振るジョー。今は五人と一匹だけがその場に取り残された。
「邪魔は居なくなったッスね……」
速水がその様子に満足げに口元を歪める。
「まあ、元より自分は独りッス。これで、せいせいッスよ」
速水が後ろに跳んだ。
「――ッ!」
背後で構えていた雪野の横を速水は一瞬で通り過ぎる。
雪野を追い越し自分が相対する人間と距離をとろうとしたようだ。
「一対四ッスね……」
間に居た速水が居なくなったことで、花応と彼恋、宗次郎が雪野の横にすぐさま駆け寄る。
その様子を見て速水が呟いた。
「それも一興ッスね! 闇の味方をする人間なんて、一人も――」
だが一人彼恋だけは雪野の横で駆ける足を止めなかった。
「な……」
驚く速水に向かって、僅かばかりだけ歩を緩めた彼恋が近づく。
「……」
彼恋は無言で速水の目の前に立つ。
「な、何ッスか……」
「……」
「もう、文句は聞いたッスよ。叩かれてもやったッス」
「ほら、古典の授業だったみたいだし。あんた、古典的なことばっかり言ってたし。まあ、千早ぶるの力らしいし」
彼恋が足は前に向けたまま、上半身だけ後ろに振り返らせる。
「ほら、歌に詠われてるじゃない」
ちらりと花応達の姿を見つめた彼恋は全身で振り返り、
「瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に 逢わむとぞ思ふ――ってね」
そう節に合わせて口ずさむと速水の横に並んで立った。
作中小倉百人一首に関しましては、以下を参考にさせて頂きました。
サイト
http://www.shigureden.or.jp
http://www.shigureden.or.jp/about/database_03.html?id=17
書籍
『知識ゼロからの百人一首入門』監修・有吉保|(幻冬舎)