十二、反せし者 10
「それが、何ですか?」
雪野がもう一度訊いた。
「古典の授業だったんだろ? 歌の通りだと思ってね。百人一首さ。小倉百人一首。在原業平の作で、百人一首の十七番目。知ってるだろ?」
時坂がドアの向こうに消えていく最後の生徒の背中を見送る。
「知ってます。そこまで細かくは知りませんけど。それが今、何だって言うんですか?」
「おや? 君達は逃げないのかい?」
雪野の問いかけにすぐには答えず、時坂は教室内に残っていた生徒達に振り返る。
それは天草と氷室だった。
「……」
「う……」
黙ったまま怯えたように小さく震えて後ろに下がった天草。僅かに声を漏らしひるんだようにやはり身を退いてしまう氷室。
二人はそれぞれの元の席から動かずこの教室に残っていた。
「怖いだろ、君達? 出て行けばいい」
「僕は……」
氷室がちらちらと花応の様子を盗み見る。
その花応は雪野の顔を心配そうに覗き込んでいて、氷室の方は見ていなかった。
氷室がこちらを見ていない顔を覗き見て、尚足を踏ん張るように力を込めた。
「僕は――」
「私は――逃げません……」
氷室が全て口にする前に天草が先に応えた。
天草は両手を胸の前で合わせて震えていた。肩も小さくすぼめられていた。視線も皆から逃げるように斜め下に向けられている。
それでも絞り出した声は教室に残っていた全ての生徒に届いたようだ。皆の視線が一斉に天草に向けられる。
「ふぅん……」
時坂はあまり興味がないのか軽く鼻を鳴らして応えた。
「ふん……」
速水も同じなのか軽く鼻から息を抜くと、すぐに雪野にその細い目を向け直す。
「天草さん……」
花応がうつむいてしまっている天草の顔を見る。自身の髪が作り出した陰に天草の顔は隠され見えない。それでも花応は天草の顔をじっと見つめた。
「逃げてばかりいたから……私はあなたに利用されました……」
天草がようやく顔を上げて時坂を見る。
「……」
時坂は人を量るかのように目を軽く半目にしてその目を見つめ返した。
「私が最初にあなたの〝ささやき〟に乗ったから……他の人もこんなことになったんですよね……」
「うぬぼれが過ぎるかな? 別に君じゃなくってよかったし。君の弱さがなくったって、速水さんはこの強さを手に入れていただろうしね。君がいようがいまいが、別に今の事態は変わらないよ。今君がここに居ようが居まいがと同じでね」
「……」
天草は時坂に応えず目を離した。その視線先では花応がこちらを見ている。天草は見つめてくる相手の目ではなくその下を見ていた。
天草の視線が花応の右手で止まる。
花応は右手に簡易な粘着式の包帯だった。それでもその白さは目立つ。
天草が今度はその包帯から目を離すと時坂に向き直る。
「何だい?」
時坂はその天草の視線をにこやかに迎える。それは貼付けたような、筋肉がただ笑みの形に動いただけの笑みだった。その証拠に頬にも目元にも何処にも、血の気がないそれは青白い笑みだった。
「あなたのせいで……多くの人が傷ついていると思います……」
「君の傷心や後悔は、自分の責任だろ? 僕のせいじゃない。それにここに残っても、何も変えられないよ、君では」
「……」
「それとも、力があれば別かい……もう一度〝ささやい〟てあげようか……」
時坂が顔の奥から湧き出てきたのような笑みを浮かべる。顔の表面に一気に赤みが差した。笑み相応の感情が時坂の顔を一瞬で染める。
「――ッ! 氷室! 天草を頼む! 外に連れ出してやれ!」
それまで黙って会話を聞いていた宗次郎が不意に声を荒げて氷室に振り返る。
「河中くん! 僕らだって、当事者だ! 責任が――」
氷室が天草の顔をちらちらと確認しながら応えた。
「いいから! 気持ちだけ十分だ! 天草もお前も、十分踏ん張った!」
「でも……」
「氷室くん! 天草さんをお願い!」
尚も逡巡する氷室に花応が声を嗄らして呼びかける。
「桐山さん……」
「お願い! 今は、君にしか頼めないの!」
「く……分かったよ! 桐山さんのお願いだからだからね!」
氷室が天草に目がけて駆け出す。
「天草さん……」
雪野が天草に振り返る。天草には氷室が駆け寄るところだった。
「千早さん……」
天草は氷室に腕をとられながら呟くように雪野の名を呼ぶ。
「助けられるのは、これで二度目ね」
「えっ?」
「小金沢先輩の時だって、金属だって教えてくれたでしょ? 今も残って力になってくれた」
「それ程のことは、私、してない……」
天草が氷室に後ろに連れられながら応える。
「いいえ、十分よ。私は戦わないといけない――」
雪野は途中から前に向き直りながら速水に告げた。
「少なくとも、それで自分を取り戻すことができる人がいる。それを教えてくれたわ」
その雪野の目の前に居たのはこの戦いを望むクラスメート。
「やっと、やる気になったッスか……」
速水が雪野の挑むように鋭く細められた目を、こちらも鋭利な刃物のような目が迎えた。
二人の視線が交わり火花散らせる向こうで、
「さあ、神代の力を誇った千早くん……ちはやぶるの――昔の神懸りな力を、見せてくれ……あれは千年前ではなく、十年前の話だけどね……」
時坂は今までにないほど血潮で頬を赤く染めて呟いた。