十一、ヤミ人 28
「……」
空に雲が一つぽつんと浮かんでいた。花応が言うところの分散媒に気体、分散質に液体のコロイド状態の雲が晴れた空に一つだけ浮かんでいる。
いや、青空にあった一つだけ雲が浮かんでいた訳ではない。他の雲とはぐれて、一つだけ離れて浮かんでいる雲があった。
別の雲は固まって一つの集団となり、今は太陽の光を遮りその下で暈を作っている。
屋上のフェンスに背中を預け、だらりと両手を垂らし、首を後ろに仰け反らせた女子生徒がその空を見上げる。
細い目だ。
まぶしいから細められているのではなく、元からその女子生徒の目は細い。その証拠に雲の切れ目から太陽が覗くと更にその目がまぶしげに細められた。
女子生徒はその細い目でゆっくりと移動してい雲を見ていたようだ。
遮るもののない屋上では空を隅々まで見渡せた。女子生徒が追うのは集団から離れ孤立したように浮かんでいる雲。
細い目の女子生徒――速水がその雲をじっと見上げる。
屋上は開放されているらしい。
速水の他に別の生徒が各々集団を作って、屋上でのお昼を和気あいあいと楽しんでいた。
ある集団はお弁当を食べ終わったままにおしゃべりに興じ、他の生徒達は輪になってボールを手で打ち上げあっている。
速水はそんな中、一人集団から離れて屋上の柵に背中を預けていた。
「……」
速水は背中をフェンスに預け、両手をだらりと下げて空を上げる。その両手には別々の光が灯っていた。一つは自然の光で、もう一つは人工的な光だった。
速水は両手で何かを光らせながら、ぼんやりと霞んだ雲を見上げている。
速水の右手の手元から雲とは違う別の靄が立ち上がっていた。雲のように白く霞むそれは、速水の指先からゆっくりと立ち上がっていく。
それは煙だった。花応曰くの、分散媒が空気で、分散質が個体の煙が速水の指差からゆらゆらと立ち上っていた。
だが速水の興味はその右手の手のものにはないようだ。火を点けたまま随分と長い時間ほったらかしにしているらしい。
速水の左手から人工的な光が不意に消えた。
速水が左手を顔の前に持っていくと、その動きに揺られて指先からまとめて長い煤が床に落ちていった。
速水の左手は携帯が握られていた。その待ち受ける為の照明が、一定時間操作がなかった為に消えてしまったらしい。
速水は眼前で携帯の画面をいじると、そこに灯が再び入る。
メールの着信を告げるアラートがついてた。速水が携帯に指を走らせると、未読のメールがずらりと並ぶ。
どれも同じ人物からだった。件名も似たようなものだった。
とにかく返事をしろという件名が、ずらりと速水の携帯に並んでいた。
「ふん……」
速水が左手を再びだらりと下げた。
「ねぇ……」
「あれ……」
屋上いた別の女子の集団が声をひそめてそんな速水を盗み見た。女子は速水と同じ側の柵際に座り込み、食べ終わったお弁当を脇に置いて談笑していたようだ。その中の一人が速水の姿を見つけ、またその手元のものを見て批難の目を向けて来たようだ。
「ちょっと、ヤバくない……」
「誰か注意しなさいよ……」
女子の集団は横目でひそひそと話し続ける。
「……」
速水が垂れた首のままで細い目を更にじろりと細めて横目で見た。
「……」
速水が一睨みすると噂をしあっていた女子生徒達は慌てて首を引っ込めて黙り込む。
「ふん……」
速水が鼻を鳴らすと右手のものを投げ捨てた。睨みつけた女子生徒の集団とは反対側に投げ捨てられたそれは、まだ火が点いたまま排水溝の落ちて転がっていく。
雨水の水はけの為に設けられていた排水溝は、晴れている今は特に水が流れている訳ではない。他の床と同じく渇いた床面を見せた排水溝の上を、火の点いたままのそれが二、三度跳ねて転がった。
「ふぅ……」
速水が鼻の奥から息を抜くと、その奥に残っていた煙が一緒に出ていった。
「ちょっと、屋上で止めてもらえない」
先に噂をしていた女子とは別の女子生徒がいつの間にか速水の前に立っていた。
「ナンッスか?」
速水はろくにその女子生徒も見ずに応える。
「ここ、皆が楽しく使ってるの。分かる? 屋上のことよ。屋上が開放されていない学校だって他には結構あるのよ。ウチはフェンスがあるから、先生達も使っていいって言ってくれるの。でも、あなたみたいな使い方してたら、せっかく使っていいってことになってるのに、別の意味で立ち入り禁止になるでしょ?」
「……」
一気にまくしたてた女子生徒を速水はようやく垂れた顔を前に戻して見つめる。
細い目が向けられるや女子生徒の目を射抜いた。
「な、何よ……私何か、間違ったこと言ってる?」
「言ってるッスね……自分、何もしちゃいないッスよ……」
「なっ? 何言ってんの? 私見たんだから」
「何か証拠でも、あるッスか……」
「はぁ。たった今ポイ捨てしたところじゃない。証拠ならそこに――」
女子生徒は速水の足下を指差した。
「あ、あれ?」
だがそこは空の排水溝が渇いたコンクリート面を見せているだけで、土ぼこり以外は何もなかった。
「ふふん……ないッスね……」
速水がそちらにちらりリと視線を落とすと不敵に笑ってみせる。
「風で飛んだか、何かよ!」
「それに、ライターもマッチも、持ってないッスよ……」
速水が胸を張り、腰を両手で叩いた。胸を張ったことでピンと張られた胸ポケットには確かに何かが入っているような膨らみがない。短く折られたスカートは、元より腰の辺りのポケットは使い物にならない。
速水は両手も広げてみせて携帯しか持ってないとその掌も見せつける。
「そ、それは……」
「気のせいじゃないッスか?」
速水がそう応えると不意にその掌で携帯が鳴り出した。
電話の着信を告げるシグナルが携帯の中で瞬き出す。
「……」
速水はそのまま携帯が鳴るに任せる。固まってしまったかのうよに速水は携帯を手の中で鳴らしたまま出ようとしなかった。
「出ないの……」
話題をそらそうとしたのか女子生徒がそう呟くと、
「余計な! お世話――ッスよ!」
速水は一瞬で女子生徒の目の前に現れ刃のように細めた目で睨みつけた。