十一、ヤミ人 25
「何でよ、雪野? 味気ないだなんて。牛乳が、分散媒も分散質も液体のコロイド状態だなんて、科学的で素敵じゃない? むしろ今まで以上に美味しくいただけるわ」
花応が憤慨と言わんばかりに口の中のものを大げさに頬張った。
「えぇ……だって、脂肪とか言われてもね……現実的な話は、食事には勘弁でしょ。普通は」
雪野がげんなりと首を横に垂れるよう傾げて、視線も床に落としながら答える。
「そうだな。作ってるところなまじ知ってると、お店で食いたくなくなるよな」
宗次郎も両肩をげんなりと垂れさせた。背もたれを前にして座る宗次郎。その背もたれに預けた両肩は、支えがなければ何処までも沈んでいきそうな程背中が沈んでいく。
「何よ? あんた、お店でつくるようなこと、知ってるみたいな言い方ね? 家は食堂か何かだっけ?」
花応が頬張り続けながら宗次郎に振り返る。
「違げぇよ……別に。よく聞くだろ? その手の話」
宗次郎が目だけ視線をそらした。
「ん……」
そらした先で雪野に目が合った宗次郎は、
「ふん……」
何かを察したようなにやけた視線から更に視線を逃した。
「ふぅん。よく分かんないけど。ついでだから言っておくと、分散質が液体で、分散質が気体も勿論あるわ。石けんの泡とかね」
「『泡』? まあ確かに、分かりやすいな。確かに液体の中に空気が入ってるな」
「でしょ、河中。そうよ、石けんの泡は、液体が気体で膨れてるでしょ。もっと細かいムース状のものも、イメージしてもいいわね。でね、液体の中に個体が入ってるのが、泥水とか墨汁ね。分散質が液体、分散質が個体。これもイメージしやすいでしょ。泥だらけで、今でも遊び回ってそうだし」
「うるせぇよ。泥にまみれて……遊んでようが、何してようが、俺の勝手だ」
宗次郎が途中で言い淀んでから、一気にまくしたてるように応えた。
「ん? 何怒ってんのよ?」
「別に、怒ってねえよ、桐山」
「そう?」
「そうだよ。てか、とっとと食い終われよ。流石に意地汚いぞ」
「うるさいわね。もう最後の一口じゃない」
花応がぶすっと応えながらお箸を口に運ぶ。それは最後まで残っていたマヨネーズのかかったレタスだった。
「うん。ごちそうさま。レタスにはやっぱり、酢と卵と油の乳濁液――エマルションよね。今度は彼恋と作ろうかしら。自家製エマルションのドレッシング。二人で科学的に作れば、とっても美味しいに違いないわね。順番を間違えると乳化がうまくいかないなんて、とても科学的だわ。でもあの娘なら、作るより買ってくる方が生産性が高いとか言うかな? ああ、でも乳化剤がどうの。界面張力がどうのと語らいながら、作りたいわ。自家製エマルションのドレッシング」
花応がようやく最後の一口を食べ終わり、空になったお弁当箱の上にお箸を置いた。
お弁当が単に味わい深いのか、それとも自身の考えた計画が楽しみなのか。花応は一口頬張っただけのレタスを、頬を膨らませて何度も咀嚼した。
「ほら……」
雪野がその顔を見てにやにやと笑みを浮かべると、宗次郎に向かってアゴを軽く上下に振って見せる。
「何だよ、千早?」
「あれは、話の先を聞いて欲しいって顔でしょ?」
「ああ、突けば、あの頬の中から、次から次へと科学だ、何だって、出てくる顔だな」
丸く膨らんだ頬を宗次郎が半目で見つめる。花応の頬はその中身が無くなった後も、ふっくらと赤く膨らんでいた。
「気体じゃなくって、期待に膨れている顔よ、アレ。あの頬は、突いてでも割っとかないと、次に話が進まないわよ」
「分かった、分かった……一応、聞いてやるよ、桐山。ニュー何だって? エマ何だって?」
「乳濁液に、エマルションよ。液体中に、液体粒子がコロイド粒子か、それよりも大きな粒子で分散しているものを乳濁液――エマルションって言うのよ」
「やっぱり単に、マヨネーズのことを言ってるんだな?」
「当たり前じゃない。ほら、マヨネーズって卵とか酢で作るじゃない。後、オリーブオイル。本来水と油って言うように、水と油は混じらないわ。でもそれじゃあ、分散媒も分散質も液体のコロイド状態にはならない。安定なエマルションを作り出すには、水と油の両方を仲立ちしてくれる両親媒性分子が必要ね。この両親媒性分子が乳化剤のこと。マヨネーズの場合は卵黄の脂質が、乳化剤の役割を果たすわね。この両親媒性分子のお陰で、水と油が分離せずに乳化するのよ」
「そうか。まあ、多分そんなところだろうと思った。そしてただエマなんとかって言いたかっただけなのも、よく分かった」
宗次郎がこれ以上は結構とばかりに、両手を挙げて掌を花応に見せる。
「エマルションよ」
「分かった、分かった。で、ペリカンの煙の話だろ?」
「むむ……それには、そうね……その話なら――」
花応が机の上に身を乗り出した。
そして机の中に手を入れると、
「分散媒が個体で、分散質が液体のコロイド状態も話したいわね……」
そこからゼリーを取り出して呟いた。