十一、ヤミ人 24
「で、そのゲロが何だって?」
うんうんとうなづく雪野にちらりと視線を送った宗次郎。それなりに通じたことに気をよくしたのか、宗次郎は同じ話題をもう一度花応に振った。
「ゲロじゃないわよ。てか、私まだ食事中何だけど?」
花応がお箸でお弁当箱の端を軽く叩いた。
何かの未練の表れのように花応のお弁当の中身は一口ずつ残されていた。
「ちまちま食ってるからだろ」
「ふふん。彼恋と作ったお弁当だからね。味わって食べないと、バチが当たるわ」
実際未練がましかったらしい。花応は一口大で残っていた卵焼きを、更に半分に割ってお箸で口に運ぶ。
花応はその卵焼きを何度も噛み締めながら、記憶と味覚をとことんまで味わうかのように頬を丸めた。
その手元にはまだマヨネーズのかけられたレタスや、ケチャップのかかったウィンナーなどが残っている。
「ああ、そうかよ。とにかく早く食えよ、シスコン」
「うるさいわね。あんたみたいな、大飯ぐらいと一緒にしないでくれる? こっちは一介の女子高校生なの」
「『一介の女子高校生』が、ペリカンなんかペットに飼うかよ」
「ああ! 言い返すのに、何でアレがでてくんのよ! もっと別のことで、私の凄いところを挙げなさいよ。てか、アレ。飼ってる訳じゃないからね。アレ、実際は雪野のだからね」
「うぅん……ウチでペリカン飼うのは無理。何て言うか、世間体的に……」
話を振られた雪野がすっと視線を顔ごと逃しながら応えた。
雪野はそのまま手にしていた牛乳パックから、ストローで中身を吸い上げる。
「世間体は、ウチだって気にしたいんだけど?」
暢気で人ごとのような雪野を、花応が自慢の吊り目できっと睨みつける。
「子供の頃に来たマスコットキャラは、可愛い猫だったんだけどね。何で今度はペリカンなんだろ? まあ、あの子も。可愛いといえば、可愛いけど」
花応に睨まれた雪野がまだ視線を逃したまま答える。体ごと捻った雪野は肩と背中で花応の視線から己を身を隠した。
「じゃあ、雪野。あんたの家で、その『可愛い』ペリカン飼いなさいよ」
「私が?」
雪野がようやく花応に視線を戻す。体はまだ捻ったままで、顔だけ花応に向けた。
「あんたがよ」
「ああ、残念――」
雪野が体を花応に向け直し牛乳パックを机に置くと、如何にも悲しいと両手で両目の下辺りをの頬を押さえる。
「ウチの母親が、実はペリカンアレルギーなの。母がペリカンアレルギーじゃなきゃ、ペリカンだって飼えたのに。昔からそうよ。捨てられていたペリカンを拾って来ては、お母さんがペリカンアレルギーだから、ウチじゃペリカンは飼えないんだよって――お父さんに諭されたわ。泣く泣く私は拾った場所に、ペリカンを戻しにいくの。せめて今だけは幸せにって、アジだかヒラメだかを置いていったわ」
「あんたの家の近所は、捨て猫並みにペリカンが捨てられてのか?」
よよと泣き始める真似事まで始めた雪野に、花応が吊り目を半目にして睨みつける。
「居るわよね、捨てペリカン。野良ペリカン化して、問題なのよ。今は地域ペリカンっていうんだっけ? ねえ、新聞部さん?」
「言わねえよ。てか、居ねえよ。野良ペリカン」
最後に話を振られた宗次郎が面倒くさそうに眉間にシワを寄せて答える。
「野良ペンギンだった、河中?」
「野良ペンギンも居ねえよ。てか、ペンギンは、流石に保護してやれよ。地域で飼える訳ないだろ」
「あら、残念。ふふん」
雪野が最後に大きく鼻を鳴らした。それをこの話の終わりの合図にしたのか、雪野はそのまま口をつむる
「たく……で、天草杏子が寒天だか、杏仁豆腐だかって話と、お前のペットの世間体が何の関係があるんだ?」
雪野の態度に宗次郎が花応に向き直る。
「ペットじゃないし。世間体も関係ないし。天草さんを杏仁豆腐だとは言ってないし。私は寒天だって言ったのよ」
「言ったも同然だろ? 何が違うんだよ?」
「まあ、身近な食材としては違わないけど。キセロゲルの身近な例としては、寒天の方がいいでしょ」
「そこで同意も求めても、返事は返ってこないっていつになったら学ぶんだ、桐山?」
「何言ってんのよ? 常識でしょ? 身近な科学じゃない?」
「いや、何処が身近だよ? ゲルとか、コロイドとか。聞かねえっての」
「はぁ? ホント何言ってんの? 聞かなくったって、身近にあるでしょ? そうね例えばこのマヨネーズは――」
花応がマヨネーズのかかったレタスにようやくお箸をつけた。
「液体を分散媒にして、こちも液体を分散質にしたコロイドの状態よ。水中に油が入ったコロイド状態が、マヨネーズの正体。分かった? 私達が美味しくご飯を頂けるのも、世界が科学的なお陰なのよ」
「いや、そんな風に説明されると、美味しくなくなるような気がするが」
「はぁ? 何言ってのよ。自然の恵みは、当然科学的よ。何でも美味しく頂けるのは、科学の力よ」
「そうよ、河中。何でも美味しく頂かないと」
雪野が一度は机の上に置いたパックの牛乳に手を伸ばす。牛乳はもう残り少ないようだ。パックの側面がへんこでいた。
雪野がそのへこみに手を添えてパックを持ち上げストローを口元に持っていく。
「ちなみに牛乳は、水中にタンパク質と脂肪のコロイド状態ね」
そのストローに口をつけた雪野に花応が振り返ると、
「うっ……何か、味気ない……」
雪野が最後の一口をずずっと吸い上げながら呟いた。