二、ささやかれし者6
男子生徒の人影が学生食堂の向こうに消えた。
「花応はここにいて……」
雪野がそれを険しい視線で追うと、すっと立ち上がる。
雪野は花応をその場に残すと、一人でその影を追わんと駆け出した。
なるべく多くの席が確保できるようにと、テーブルがずらりと並ぶ学生食堂。
イスの後ろはもう反対側のテーブルのイスという狭いスペースを、雪野は立ち上がるやそのまま苦もなく縫っていく。
「ちょ、ちょっと! どうしたのよ?」
花応が慌てて振り返るが、雪野の背中はもう人ごみの向こうに隠れて見えない。
「何なのよ……」
一人残された花応。いや残されたのは花応と食べ終わっていた食器だ。
「てか、これ食べたらどうすんのよ? 食器置いてっていいの?」
花応が狼狽の色も露に周囲を見回す。食べ終わった食器の扱いを他の生徒から真似ようと思ったのだろう。
それでいながら不意に目が合いそうになった生徒からは、花応は慌てて視線をそらした。
花応はイスを後ろに傾け人ごみの向こうを見るや、丁度食器を手にとって立ち上がった生徒の一人を見つける。
「普通のセルフ式と同じって、雪野は言ってたものね……」
その生徒の様子をよく見んとしてか、花応は更にイスを傾けていく。
「やっぱりね。どっか持ってけばいいのよ」
「おい……」
「ああ、配膳コーナーの脇ね……」
花応は食器を持った生徒を目で追う。行き着いた先は先程食事を受け取った厨房の配膳コーナーの端だった。
「ちょっと……」
そんな花応は己がイスを深く傾けたせいで、テーブルの背後の僅かなスペースを埋めてしまっていることに気がつかない。
「当たり前か。水回りの配管も近い方がいいし、回収した食器も直ぐに洗浄して使えるし。うん、科学的だわ」
「おい。ちょっと……」
そして花応は熱心に食器の回収先を観察するあまり、背後から声をかけられていることにも気がつかなかった。
イスを背後に傾けて配膳コーナーに気を取られていた花応。その後ろでは丁度通ろうとしていた男子生徒がお盆を手に立ち尽くしている。
「ふふん。雪野が帰ってきたら、一人で食器を返して驚かせてやろ。自分で科学的に推測したことにして――」
「ちょっと、邪魔なんだけどな!」
男子生徒はついに我慢の限界がきたのか、唐突に声を荒げた。
「えっ? ごめんなさい!」
花応がようやく状況に気づき慌ててイスを戻して振りかえると、
「何だ、桐山か? お前はいつもぼおっとしてるな」
邪魔をされていた男子生徒が呆れたように花応を見下ろした。
その顔は相手が花応だと知って、少し緩んだようにも見える。
「?」
「誰って顔だな?」
男子が苦笑する。
「誰?」
「声にまで、出たよ。たく、同じくクラスだろ?」
「……」
花応が相手の顔をまじまじと見つめる。名前を呼ばれたが相手のことは心底分からないようだ。
「初めて見たって顔は流石に悲しいな。ま、いっか。ほらもっとイス引いてくれ。名も知らぬクラスメートの頼みだよ」
「何よ……クラスの男子の名前なんて……知らないわよ……」
花応はぶつくさ言いながらも、イスを前に引く。丁度背後の席も生徒で埋まっており、それで何とか人一人が通れるスペースができた。
男子生徒はお盆を高く持ち上げた。
花応が空けても尚狭い食堂のテーブル間のスペース。男子生徒はつま先立ちになりながら、高く持ち上げたお盆を花応の頭上に通しながらそのまま慎重に間をすり抜けようとする。
「クラスの女子の名前も――って聞いてるけどな」
「むっ! あんたに関係な――」
男子生徒の通り際の一言に、花応は思わず立ち上がってしまう。
「こら!」
花応が立ち上がった勢いに、座っていたイスが思い切り男子生徒の足にぶつかった。
「きゃっ!」
「こなくそ!」
男子生徒は途端にバランスを崩すが、腕も足もつらんばかりに踏ん張り何とかその後の惨事を回避しようとする。
「あ……」
だが男子生徒にぶつかった花応の方がバランスを更に崩し、
「桐山! てめえ!」
「ちょっと!」
お盆の食器をまき散らしながら、二人はもつれるように食堂の床に転げていった。