十一、ヤミ人 15
「つまり、あなた達にも何があったかは、分からないってことね?」
定年も近そうな校長は吟味と貼つけたような顔で雪野を見つめた。
凪いだ湖面のような瞳で校長は雪野を見上げる。校長はイスに座り、大きな机越しに雪野を見ている。
細身の女性の校長だった。いつかは落ちてくる小石や落ち葉を待つのような、いつかさざ波立つはずの湖面のようにじっとその目は動かない。
待っていたのは生徒の答えとその表情。そして相手の本心だったようだ。
「ええ、私達は巻き込まれただけです、校長先生」
だが同じような目で校長の生徒は答えた。だがこちらの瞳は硬く閉ざされていた。
雪野は風が吹こうが、落ち葉が落ちてこようが、波打つはずもない鏡面のような目で校長を見ていた。
こちらから引き出せるものは何もない。そのことを告げるような硬い瞳だった。覗き込む相手の姿を写し込むことで、自身の向こう側は決して見せない鏡のような瞳の光がそこには宿っていた。
「そうなの、千早さん?」
「はい。ね、河中くん」
「あ、ああ……」
澄ました笑顔で校長に答える雪野に、宗次郎が言葉少なくこちらも答えた。
「その巻き込まれたのが、何か分からない?」
校長は年齢がそうさせる細い痩せた指を机の上で絡ませる。
校長はそのまま組んだ指を揺らす。両手で向かい合わせに絡ませた指の形も思案という名がついてそうだった。
両手の中指が細かく上下に動いて反対の手の指を叩く。缶の底にあるはずの香辛料の残りを叩いて取り出すかのように、相手から本音を引き出そうとかその指は細かく互いを叩き続ける。
「さあ、この間と同じ異常気象か。それとも誰かのいたずらか――」
雪野はそこで言葉を区切り校長から視線を外す。
「……」
外した先に居たのは爽やかな笑みを浮かべた時坂だった。
こちらもよく見れば鏡のような目をしている。人の視線をそのまま跳ね返す鏡のような瞳だ。むしろ鏡に関しては一日の長があるのか、奥の奥まで何かを隠しながら時坂は雪野を見ていた。
「巻き込まれただけの私達には分かりません」
時坂からすぐに視線を校長に戻して雪野は続ける。
「そう?」
「ええ、そうです。ねえ、河中くん」
「お、おう……」
事前にあまり話すなとでも言われているのか、宗次郎の返答は今度も短い。宗次郎は一言二言答えるだけで、目を泳がせて語尾を濁らせた。
「ふむ……」
二人の――主に雪野の返答に校長は熟考とでも言いたげに
「ふふ……」
時坂は含んだ笑みで雪野と宗次郎を横目で見つめる。
「一人居ないわね? 桐山さんは? まだ来てないの?」
「桐山さんは、妹さんの見送りです。少し遅れてくるはずです。先生には私から連絡する予定でした」
「そう。特殊な家庭の子だったわね。家族と仲があまりよろしくないと聞いていたようだけど」
「少なくとも、妹さんとは仲直りしました」
雪野の瞳が僅かに揺れた。それは思わず力が入った肩がそうさせたようだ。作り物のように硬かった雪野の瞳がこの時ばかりは自らの力で揺れた。
「そうなの? 妹さんとは、仲良くしてた? どんな感じだった? 中学から上がって来てた内容だと、あまり二人で話さないどころか、互いに避けているようだって書かれてたけど?」
校長がぐっと身を前に乗り出した。ようやく待っていたものが飛び込んで来た。そう言いたげに校長の瞳がせわしなく瞬きを始める。
だがそれは小石や木の葉ではなかった。水辺の鳥が降り立った湖面のように、生き物が揺らす水面のように、校長は目をしばたたかせる。
「はい。もう大丈夫です」
雪野の瞳がまた揺らがなくなる。だが今度は鏡のような人工物の冷たさがない。
震える雪野のまつげが、それがやはり意思や命の宿った瞳だと明瞭に物語っていた。木々も揺れる春うららの湖畔の全てが醸し出すような、揺れてはいるが静かで穏やかな光がその目に宿る。
「……」
その雪野の眼差しををこちらは未だ鏡のような目で時坂がじっと見つめる。
そして更にその時坂の冷たい視線をまるでカメラのレンズでも向けるかのように、
「……」
宗次郎が冷静な目で一瞬たりとも見逃すまいと見つめていた。