十一、ヤミ人 10
「朝からたのしそうッスね……特に――」
速水は教室でもみ合いを始めていた宗次郎と氷室に一瞥をくれると、
「他人の陰口に、忙しい皆様は!」
その視線をそのまま周囲の生徒達に向けた。
宗次郎と氷室、そして雪野。その三人他の生徒達は、宗次郎と氷室がもみ合う中でもひそひそと何やら声をひそめて互いに話していた。
「……」
速水の最後の一言に教室が一瞬で静まり返る。
宗次郎達が騒ぎ出し、自分たちに意識が向かないことをいいことに再び噂話に夢中になり出していた生徒達。速水の細い目はその一人一人をつかまえるようにゆっくりと見回す。
「ふふ……」
教室の入り口で笑みを浮かべる速水。速水は自然と湧き起こる笑みを押さえ切れないようだ。
熟れ過ぎて内から弾けた果実の切れ目のように、速水は押さえ切れない笑みに押されてその細め目をすっと細める。
そしてその目の奥にある甘い蜜は、とろりとした光となって漏れ出ている。朝の爽やかな陽の光にきらめいているはずのその目の光は、細い切れ目を通して反射し怪しい光へと生まれ変わっていた。
「おはようッスね! 朝から、他人の陰での悪口! ご苦労様ッスよ!」
速水は人を小馬鹿にしたような笑みで教室の入り口から入って来た。
速水が教室に入って来た風にあおられたかのように、生徒達が次々と皆一様にうつむいていく。速水が熟れ過ぎてもまだなお幹にしぶとく実る果実なら、生徒達の視線は強風にあおられた弱いその他の果実のように一斉に落ちていく。
いやそれは風に落とされたのではなく、人為的に落とさせれたのかもしれない。
陰口に花を咲かせていた生徒達は、自身がその陰で実ってしまった果実だったようだ。陰で育った故に小さく実った果実。それは人の手により剪定で落とされる運命だ。
小さく育った実を枝から切り落として一つの実を大きくするように、しゅんとうつむく他の生徒の養分を吸い取って速水の笑みは更に満足げに実っていく。
教室の気分を一人独占する速水。それでいて実った果実は熟れて弾ける程甘過ぎるようだ。今度は口元がその内側から裂けるように開く。
「おやおや、厭味に一つも言い返さないッスか? 肯定ってことでいいッスね!」
自らの漏れ出る甘い果汁を舐めるかのように、速水は舌なめずりまでしそうな程口角を歪めて続けて口を開く。
その言葉に生徒達が更に視線を反らそうとする。一度下を向いた視線が、そのまま今度は速水と反対側に向けられた。
陰で実った果実は、今や落ち込み腐るだけのようだ。
誰もが自身に向けられた速水の視線に目を合わせようとしない。ただただばつが悪そうに肩まで落としてうつむき続けた。
「フンッ……」
速水がその様子に小さく鼻を鳴らした。
速水は自分の机ではなく雪野達の下へと近づいてゆく。
「速水さん……」
雪野が向かってくる速水をぐっと睨みつけた。
「おやおや、触れれば切れる刃物みたッスね……怖いッスよ……」
速水が言葉とは裏腹に、恐れる様子も見せずに雪野に近づいて来る。
だが雪野の視線は実際は速水の言葉通りだった。
雪野は鋭い視線を速水の向かってくる笑みに向ける。両の目から発せられるその眼光は、やはり剪定の為に開かれ光るハサミのようだ。
雪野は熟れ過ぎた果実を切り落とさんと構えるように、正面から真っ直ぐ速水に向き直った。
速水が雪野の目の前まで来て立ち止まると、
「……」
「……」
二人は無言で視線を戦わせる。二人は鼻先を突きつけ合わせるような位置で正面から向き合った。
「朝から、悪意剥き出しね? 少しらしくないわよ、速水さん」
先に口を開いたのは雪野の方だった。
「そうッスか? いつも通りのつもりッスけどね」
「言いたいことを言うのは、いつも通りだけど……そうね……何かストレートね……」
雪野が速水の真意を探らんとしてか、その細い目の奥を覗きこむ。
「ふふ……自分も人間ッスよ……苛々する日ぐらいあるッス……」
「そう……」
「ええ、千早さんも……あるッスよね? 苛々する日……人間ッスからね……」
速水はそう告げると不意に再び歩き出した。
速水は雪野の横を抜けてすれ違おうとする。
「……」
雪野は無言で視線を横に流し、その速水が通り過ぎるままにする。
「それとも……」
だが速水は雪野とすれ違う一瞬に、
「人間ヤメたら……イライラしないッスかね……」
相手にしか届かないような小さな声で呟いた。