十一、ヤミ人 8
「何で、こっちに電話してくるのよ?」
雪野は携帯の着信表示に見て、耳にあてるや否や唇を尖らせる。
雪野は部屋着に着替えてベッドに腰掛けていた。緩い生地のシャツと丈の短いパンツに着替えた雪野は、昼間の服装よりラフな着こなしで四肢を曝す。すらりと伸びた手が携帯を耳に持っていき、すっと伸びた足がベッドの下に投げ出される。
雪野が何気なく外を見ると陽はもう暮れており、外は街灯の光を頼りに照らされている。雪野が居る部屋も蛍光灯で照らされ、明るい色合いで飾られた部屋を浮かび上がらせる。
「大変なことがあったんだから、あの娘に電話してあげなさいよ」
「何で俺が、そんなに気を遣わないといけないんだよ?」
雪野の携帯の向こうから返って来たのは、こちらも唇を尖らせているような宗次郎の不満げな声だった。
「なんだかんだで誤摩化したけど、一応警察から家に連絡あったからね。家族誤摩化すの大変だったわ。そっちもそうでしょ?」
「俺ん家は、あれだ。親父は地球の裏側だし、お袋は仕事でほとんど家にいないし。元より放任主義だし。あっそ、怪我ない? って訊かれて終わりだった」
「ダメな家族ね。てか、地球の裏側なの? お父さん」
「多分な」
「『多分』って何よ?」
雪野がベッドから立ち上がる。雪野はそのまま奇麗に整頓された勉強机に向かった。
「あっちこっちに居るからな。居場所が分かるのは、メールが来てからだ」
「ふぅん。遣り手のビジネスマンなんだ」
雪野が勉強机に座る。
宗次郎のそれとは正反対の、よく整理された机だ。立てて並べられた教科書は背の高い順に並んでいた。掃除も行き届いており机の上にはホコリの一つもないように見える。
「だといいんだがな……実際は、貧乏なフリーランスだよ」
「そうなの? ああ、何か分かる。河中見てるとそんな感じ」
「るっさい。てか、俺のことはいいんだよ。そっちはどうだったよ?」
「だから、大変だったけど誤摩化したわよ」
「似たようなことが、立て続けにあったんだぞ。誤摩化し切れんのかよ?」
「ウチの家族、基本暢気だもの。最近は異常気象多いからね。ちゃんと気をつけなさいよ――って、最後は終わったわ」
雪野が立ち上がると机の横の窓の外を見た。二階にあった雪野の部屋。窓を覗き込むと下の窓が僅かに見える。そこから灯りが漏れており、そこに誰か居るのが伺い知れた。
雪野はそのことを確かめると机に座り直す。
「魔力を込めるまでもないくらいよ」
雪野の声のトーンが少し小さくなった。話の内容を聞かれまいとしたのか、単に男子と話していることを知られまいとしたのか。雪野は少し声の調子を落として宗次郎に話しかける。
「そうかよ」
「ははん……本当はあの娘のことが気になるんだ……」
雪野の声が更に小さくなった。内緒の話をしていると、自身の雰囲気を盛り上げるように、その声が小さくひそめられていく。
「そりゃ、気になるだろ。別に変な意味じゃなくっても」
「だったら、直接電話しなさいよ。喜ぶわよ」
「放っとけよ。いや、放っといてやれよ」
「そうね。姉妹水入らずの時間だろうしね。架けたら、私が許さないわね」
相手が乗ってこないと見たのか、雪野の声は少し元のトーンに戻る。同時に気分を変えようとしたのか、最初に座っていたベッドに雪野は戻っていった。
「どっちなんだよ」
「タイミングは大事ってことよ。まあ、メールぐらいは私はしたけど。珍しく素早く返信来たと思ったら、彼恋さんからだったわ」
「じれたんだろうな。姉の携帯音痴っぷりに」
「ええ、苛々したんでしょうね。姉の携帯の使えなさっぷりに」
「見てられなかったんだろうな。アレの携帯を前にしたうろたえぶりに」
「そうね。我慢できなかったんでしょうね。あの娘の携帯を前にした固まりっぷりに」
雪野がその様を想像したのかくすくすと笑う。
「まあ、あれだ。ひとまず巧くやってるってことか?」
「今日はとりあえず泊まって帰るってことぐらいしか、分からなかったけど。そうでしょ。巧く――か、どうかは分からないけど。何とか、やってくしかないでしょ」
「そうかよ。ああ、そんな話をしに貴重な俺の通話料を払って、電話した訳じゃないんだが」
「あら、そう? じゃあ、何の話――って、今後のことに決まってるわよね。しばらく考えたくなかったけど」
「気持ちは分かるが――」
「ああ、ゴメン。噂のあの娘から、キャッチ入った。後で架け直していい?」
雪野が一度携帯を耳から離した。そこには花応の名前が表示されている。
「分かった。てか、メールしておく。見といてくれ」
宗次郎の電話はそこで向こうから切れた。
雪野がそのまま携帯に指を走らせる。
電話が切り替わった。
「もしもし。お待たせ――」
花応と表示された電話に出た雪野の耳元で再生されたのは、
「もう! 電話ぐらい、自分で架けなさいよ! 自分で電話架けられないって! あんたいつの時代の人よ!」
衣良だしげに電話口でまくしたてる彼恋の声だった。