十、魔法少女 30
「な……」
頭の上から透明の液体を全身にぶちまけられた彼恋が、その吊り目の目を驚きに見開く。
彼恋の掌の上から酸が消えていた。彼恋は空の掌を空に向けて突き出している。
「……」
その目の前にはバケツを逆さまにして振り上げた花応の姿。花応は盛大にぶちまけた液体で前髪から次々と雫を垂らしている。勿論その液体は花応の全身をずぶぬれにさせていた。
同じ液体に、髪から全身をずぶぬれにした花応が黙って立ち尽くす。
花応の目は彼恋とは対照的に静かにつむられていた。
花応の傍らではアゴも外れんばかりに嘴を開いてジョーが倒れている。こちらも自慢の白い羽毛が全身、花応のぶちまけた液体でずぶぬれになっていた。ノドよりも遥かに大きいバケツを取り出されたジョーが泡を吹いたように嘴を開けて倒れている。
「花応……あんた……」
「ええ、彼恋……私の答えは、この物質よ……」
花応がようやく目を開けた。まだしたたり続けるその液体は、彼恋の前髪を伝ってその特徴的な吊り目の前をポタポタと落ちる。
「物質って、あんた……」
「彼恋……あんたなら、この物質が何か分かるでしょ?」
「……」
彼恋が目を横に反らす。思わず逃げたその視線は実際は何処も見ていないようだった。
「おい、桐山……」
「しっ。黙って」
思わず声をかけようとした宗次郎を雪野が手を伸ばして止める。
そしてその手を宗次郎に伸ばしながらも、雪野の目は速水を視線で制するように鋭く向けられていた。
「……」
その速水は黙って二人の様子を何か探るように目を細めて見ているだけだった。
「さぁ、分かるでしょ……」
花応が静かに彼恋に答えを促す。
「ふん……ただのH2O――水だわ……」
彼恋がやれやれと言わんばかりに左右に首を振った。短い髪の端から陽の光を受けてきらきらと光りながら雫が飛び散る。
陽の光を受けその液体は丸まりながら地面へと飛んでいき、何の変哲もなく地面の芝生の上に落ちていく。
「ぺりぺり!」
ジョーがようやく体を起こした。ジョーは立ち上がるとすぐさま全身を細かくふるわせて、彼恋が水だといった液体を体から弾き飛ばした。水鳥めいたその体の羽毛は、水を簡単に弾いてジョーの体から水滴をほとばしらせる。
全身の羽毛から一斉にほとばしった雫は、ジョーの頭上に小さな虹を作り出した。
「そうよ。フルオロアンチモン酸は、水と急激に反応して分解するわ……最強の酸なのにね……」
「だからって、あんた……」
「そう、だから……〝水で流した〟……ダメだったか?」
「……」
「……」
彼恋が沈黙で花応に答えると、花応も沈黙で応えた。
「てか、何よ……バケツいっぱいの水って……何処で汲んだ水よ……」
「うぅん……昨日のお風呂の残り水……」
「あんたね……」
彼恋の口元が微かに緩む。
「いやぁ……お風呂に残り水を張ったままにしておいて、よかったよ」
花応が渇いた声で笑う。
「はぁ? 流しなさいよ。横着しないで」
「違うぞ、彼恋。知ってるか? 風呂の残り水を、翌日の洗濯に回すと、水道代の節約になるんだ。だから溜めておくんだ」
「はん……花応……あんた、自分の資産額知ってるの?」
「ううん、知らない……」
花応が左右に首を振った。
花応達を照らす日差しは温かく、早くもその髪を乾かし始めていた。それでも花応の短い髪から雫が飛び散る。
「何で、知らないのよ?」
「だって、株だとか、土地だとか、債券だとか……チンプンカンプンだもの……」
「そうよ、花応……あんたは、そんなことも知らないのよ……」
「そうだな。妹の本音も知らなかったからな」
「……」
「……」
二人はもう一度沈黙に落ちる。
髪から滴り落ちる雫はまだ止まらない。
二人の頬を雫が伝い、地面へと落ちていく。
「姉……失格ね……」
沈黙を破ったのは彼恋だった。
「そうだな……姉、失格だな……」
「ホント、ダメな姉ね……」
雫は未だに二人の頬から伝わって地面に落ちていく。
「そうだな……ダメなお姉ちゃんだな……水でもかぶって、反省しようか?」
「いつまで経っても、渇かないじゃない……」
彼恋の頬から次々と雫が落ちていく。
「いい天気だし、いいんじゃないかな……」
花応も頬も後から後から生まれたように雫が頬を伝って落ちていく。
「バカじゃない……ホントいつまで経っても、乾かないわ……」
「ホントだ……いつまでもこぼれてくるな……」
二人は途切れることなく頬から雫をこぼし続けた。
「……」
花応の横に静かに雪野が立った。
雪野は黙って花応の頭に右手を伸ばす。
花応の渇き出していた髪に、手櫛を入れるようにくしゃっと指を曲げて入れ、雪野はその頭をそっと肩に抱き寄せた。
「……」
花応は黙って雪野にされるがままにする。
「彼恋さん……」
雪野が左手に持っていた杖を頭上に振り上げた。
「……」
彼恋が黙ってうつむいた。
その頭上に雪野が杖を振り下ろす。
閃光が辺り一面を包み込んだ。
「後、これはサービス……」
雪野が魔法の杖を頭上で振った。
雪野達の頭上に小さいが温かい炎が現れる。
その炎が優しく花応と彼恋の髪を渇かすが、
「……」
二人の頬からは途切れることなく雫がこぼれ落ち続けた。
作中のフルオロアンチモン酸の水への反応を調べましたが、Wikipediaとその派生以外の文献が見つけられませんでした。間違っていたらごめんなさい。