十、魔法少女 29
「フルオロ――なんだって?」
宗次郎がその聞き慣れない薬品名を眉間に軽くシワを寄せて聞き返す。
「フルオロアンチモン酸よ……」
花応がそんな宗次郎に振り返らずに答えた。振り返らなかったのは何かかもっと大事なことに気をとられていたからのようだ。唇だけうごかした答えた花応は前だけを真っ直ぐ見ていた。
「おどろおどろしい名前だな……」
「きちん科学的な法則に従ってつけられた、科学的な名前よ」
花応の唇は軽く揺るみ、何かをこらえるように口の端が震えた。
「最強の酸なんだろ? 何、笑ってんだよ、桐山?」
「あら? 笑ってる、私?」
「勝算があるのね、花応……」
肩で息を整えながら雪野が軽く振り返り横目で訊くと、
「ええ……なんだ……HF-SbF5か……」
花応が確認するようにぽつりと呟きその為に軽く開いた唇をきゅっと閉じた。
「『なんだ』って何よ? 花応! 最強の酸よ! これが私の本心――」
「これがお前の〝本音〟だな! 彼恋!」
こちらに憎悪の目を向けてくる彼恋に最後まで言わせず、花応が左手を勢いよく伸ばした。
何かを吹っ切ったようなその動きで、破いたスカートの裾すら同時にばっと音を立てて揺れる。
「な、何よ、花応……」
「今いく、彼恋」
花応は伸ばした左手でジョーの首を引っ掴んでいた。
「ぺ、ペリ……」
ノドを思い切り掴まれたジョーが苦しげに声を上げた。
そして花応は彼恋との最後の距離を大股に詰めていった。
「何よ! 怖くないの? フルオロアンチモン酸なのよ!」
「そうだな……」
ノドを掴まれもがいて逃げ出そうとするジョーを強引に引っぱり、花応が真っ直ぐ彼恋の目だけ見て近づいていく。
「あんたなら、この酸のヤバさが分かるでしょ!」
「ああ……」
雪野の横も花応は構わず通り抜け、ジョーを引きづりながらその前に出た。
「ひゅぅ……」
彼恋の横に黙って立っていた速水が小さく口笛を鳴らした。わざとらしく軽く尖らせたその唇から、花応への賞賛と軽蔑を同時に表したような短く渇いた口笛が鳴らされた。
「だったらなんで――」
「……」
花応がついに目を剥く彼恋の目の前に立つ。
「そんなに堂々と私の前に立つのよ!」
「……」
花応が彼恋と鼻先を突きつけ合わせるまでにその距離を近づけた。
彼恋の手の中には宙に浮かぶ液体が風にまかれてゆらゆらと浮かんでいる。
彼恋が無意識に手を引き、その液体はかろうじて花応の体から離されていた。
「私がこの酸を少しでも前に突き出したら、あんたの胸元にぶちまけられるのよ!」
彼恋が軽く腕を突き出す真似をした。その掌の上で揺れる酸は、風に吹かれていた時以上に激しく揺れる。
「ぺ、ペリ……」
花応に首根っこを掴まえられ逃げ場のないジョーの目の前で酸が揺れた。ジョーが必死になって身を遠ざけようとするが、花応の固く握った手がそれを許さない。
「……お前はそんなことしない……」
「何を根拠に……」
「マジック酸じゃなかったからな」
花応は一歩も退かずに彼恋の前に立ち続ける。
「はぁ?」
「マジック――魔法の酸に頼ったって、私達の間のわだかまりは溶けてなくなったりはしない……」
「そうよ……」
「だけど、それは……フルオロアンチモン酸なら、話は別だ……」
「……」
彼恋が上半身を軽く仰け反らせた。その場から思わず逃れようとしたのか、彼恋が後ろに下がろうとする。
「潮時ッスね……」
その様子に速水が細い目の奥から冷たい視線を刺すように向ける。
「お前の本音は、フルオロアンチモン酸だ!」
花応がジョーの嘴に右手を予告もなく突っ込んだ。花応の右手がジョーのノドの奥まで一瞬で肩まで入り込む。
「――ッ!」
あまりのことにジョーは声にもならない悲鳴を上げる。そしてそのノドの奥から出て来たものの大きさに、今度は白目を剥いてジョーは嘴の端から泡を吹き出した。
ジョーのペリカンめいた細いノドを、内側から押し広げて何かが競り上がってくる。
花応は右手で取り出したその大きな物体を、とっさにジョーの首筋から離した左手も離して掴む。
花応の右手は湾曲した青いプラスチックの取っ手を掴んでいた。
左手はそのプラスチックの取っ手に連なる、やはり同じ素材でできた寸胴の円筒形のものを重そうに支えた。
バケツだ。
バケツの中になみなみと液体が満たされている。
「そうよ! これが私達姉妹の――」
青いプラスチックのバケツをそのまま頭上に持ち上げた花応は、
「科学的解決よ!」
そのバケツの中の液体を二人の頭上から盛大にぶちまけた。