十、魔法少女 25
「……」
彼恋が奥歯をぎりりと鳴らして立ち上がる。悔しさの現れか、その目の端には涙まで浮かんでいた。
「ふふ……いい感じの表情だね……」
時坂がその顔に満足げな笑みを向ける。
「るっさい! さっきから聞いてれば! 勝手に割り込んで来て! ムカつくことばっか言って!」
「彼恋!」
「あんたもよ、花応! 私はあんたのエナンチオマーじゃない! 人のことを、不自然な偽物とか呼ばせない!」
彼恋が花応の声や言葉を聞き入れないと言わんばかりに、激しく首を左右に振った。
「私は、お前に言った訳じゃ――」
「言ってるわ! あんなの存在そのものが! 私のことを、偽物と呼んでるのよ!」
彼恋は振っていた首を止め、今度は真っ向からの拒絶をその真っ直ぐ向けた目で表す。
「彼恋!」
「はは! 仲のいい、姉妹ッスね!」
必死に妹の名を呼ぶ花応を小馬鹿にしたように、速水が細い目を更に細めて笑った。
「速水さん……黙っててくれるかしら……」
雪野が魔法の杖を速水に突きつけた。
「怖い顔ッス! でも自分が黙っていても、彼恋っちはもう黙ってはいられないみたいッスよ」
「ええ、そうよ! どいつもこいつもバカにして! エナンチオマーは! 不自然なのはあんたじゃない! 生徒会長さん!」
彼恋が時坂を指差す。
「僕がかい?」
「ええ、そうよ! 鏡写しになる力! はん! 花応の言う通りよ! あんたなんて、放っておいても自滅するのを待つ身だわ! でもね! 何なら、私が手伝って上げましょうか? 何せ、私はあんたのお陰で、化学物質は自由自在だものね!」
「彼恋! 何を――」
「るっさい! あんたは黙ってなさい、花応!」
彼恋が花応を声を振りほどくように右手を内から外に振った。それは花応の意見を突き放す心の表れであり、また実際に何かをその指先から現す為の仕草だったようだ。
「ほう……」
時坂の周りで何が陽光にきらめいて舞った。それは粉末状の何かだった。
粉末は何処からともなく現れると、空中を風にまかれて舞い続ける。
「――ッ! 粉末! 何かの化学物質か? 彼恋! お前! 科学を悪用する気か!」
「何を言ってるの、花応? よく見なさいよ。ああ、いくら科学の娘でも、見ただけじゃ流石に分からないか? 私の酸の正体も、未だに分からない程だものね。難しいわよね。いい気味よ! 私に科学知識で劣るなんて! 桐山花応もここまでね! 何が科学の娘よ!」
「『酸』? 何で、今更……さっきの酸の話なんだ?」
宗次郎が言い争う姉妹の顔を交互に見た。
宗次郎のいぶかしげな視線に気づかず、二人の桐山は尚も言い合う。
「何を言ってる! 何を撒いた? お姉ちゃんに、言え!」
「お姉ちゃんなら、当てなさいよ! もっとも、私だって適当に撒いただけだけどね!」
「彼恋……」
「こいつは、存在自体がねエナンチオマーなんでしょ? だったら、そこら辺の薬局で――ううん、ドラッグストアで売ってる、ビタミン剤とか撒いときゃ十分でしょ! 普通の物質が、こいつにとっては、全てがキラリティーを持ったエナンチオマー! ビタミン! ミネラル! アミノ酸! タンパク質! 分子レベルで構造をなし人体に取り込まれる物質を、ありとありったけぶちまけただけよ! 何かが毒にでもなるんじゃない?」
「彼恋! 止めろ!」
「はぁ? あんただって! 自慢げに化学調味料出したじゃない! 何を言ってるのよ!」
「それは……」
「はは! 見てなさい! 実際効いてきてるみたいよ!」
「ぐ……確かに、これは……」
時坂が不意に胸を押さえた。その額にどっと冷や汗が浮かぶ。
時坂はその目を伏せ己の口元を押さえた。それで自然と息とともに入ってしまう物質を何とか入れまいとする。
「彼恋! いい加減にしろ!」
「私は普通の物質を撒いてるだけよ! それも本来なら、健康にいいものをね! 何か悪いことかしら!」
「彼恋!」
「私はエナンチオマーなんて、認めない! 私はエナンチオマーなんかじゃない! そうよ、違うわ! 見方が違ったのよ! 花応! あんたこそが、私のエナンチオマーよ!」
彼恋の叫びとともに時坂の周りでは粉末状の化学物質が増えていく。
「何だ……」
宗次郎が今度はその時坂にいぶかしげな視線を送る。
「ペリ……何ペリか、宗次郎殿?」
宗次郎の言葉が届いたのジョーだけだったようだ。
ジョーが嘴を傾げながら宗次郎を見上げる。
「何で、あいつは? ひっくり返らない? 鏡写しの姿だから、この攻撃は効いてるんだろ?」
「ペリ?」
ジョーが分かったのか、分からなかったのか。首を更に傾げて宗次郎を見上げた。
「だから。普通の人間には、これはどうってことのない攻撃だ。鏡写しの姿だから、ビタミン剤ごときが効いてるだろ? だったら、一回ひっくり返ればいいじゃないか? 普通の人間と、鏡写しの人間。力を使う度に入れ替わることで、瞬間移動する能力。それが時坂の力の正体だ。だったら、今、何故? 甘んじて攻撃を受けてんだ? 元にもどれば――」
宗次郎がそこまで口にして不意にジョーから視線を外した。誰かの視線にでも気づいたのか、宗次郎が目を横に向ける。
「……」
そこに待っていたのは、他ならない時坂自身だった。
「聞こえたか……だったら……」
時坂と目があった宗次郎がぽつりと呟くと、
「ふふ……」
その声も聞こえていたらしい時坂がその宗次郎に向かって不敵な笑みを浮かべてみせた。