九、悪い友達 6
「罠よ! 罠! 絶対に罠よ!」
雪野は勢いよく立ち上がるや否や食堂の机を思い切り平手で叩きつけた。
そのあまりの勢いに他の生徒が一斉に振り返る。お昼のにぎやかな喧噪に包まれていた食堂がその瞬間だけ沈黙に覆われた。視線と沈黙が食堂を一瞬で支配する。まるで鑞で固めたように皆がその場で固まった。
雪野の平手を叩きつけた腕がぷるぷると震える。
「雪野。恥ずかしいじゃない、落ち着きなさいよ」
花応が周囲を見回しながら手を伸ばし雪野の袖を引く。つんつんと座るように催促するように二三度引っぱり、花応は他の生徒に少々赤くなった顔を向ける。
幾人かの生徒がかかわるまいとか慌てて顔を背け、幾ばくかの生徒がそれでも何事かとこちらを向いている。
それも無理もないかもしれない。袖を何度も引かれてもなお雪野は花応以上に顔を真っ赤にして座ろうとしない。己の意思を押し通さんとしてかあまつさえぐっと花応に身を乗り出した。
二人は向かい合って食堂の席に座っていた。それぞれの目の前にお弁当箱が置かれており、食べ始めたところなのかその中身は幾らもなくなっていなかった。
宗次郎の姿はない。花応と雪野の二人でお昼にしているようだ。
「速水さんが、遊びにいこうですって?」
ぐぐぐっと眉間にシワを寄せ、雪野は更に身を寄せる。その動きに花応の袖を引いていた手が自然と外れた。
「そうよ……遊園地か、何処か……皆で遊びにいかないかって……」
「『皆』って誰と誰と誰と誰と誰と誰よ?」
雪野は周りの視線をものともせずに更に花応に顔を近づけた。
「そんな、誰々と何人もいかないわよ」
「そう?」
「てか。近いわよ、顔。いい加減座りなさいよ。恥ずかしい」
「恥ずかしさで、遊びにいくのを止めてくれるのなら、安いものよ」
雪野は片足を後ろに上げて前後のバランスを取ってまで身を乗り出し始めた。鼻先すら当たりそうなところまで雪野は顔を近づけ、足を挙げてのバランスの悪い姿勢では今にも顔から花応に突っ込んでいきそうだった。
「倒れそうになってまで、顔突っ込んで来ることなの?」
片足をあげたままバランスを取る雪野。雪野はぐらぐらと揺れながらその場に留まっていた。
「罠に自分から飛び込もうとしてるのよ? 幾らだって怒りにわなわなと震えてあげるわ」
「そういうのいいから」
「わなわなわなわな……」
「もう……これじゃ……いいさらし者よ……」
花応が包帯の巻かれた右の手の平を広げて雪野のその鼻を押さえる。花応はもう結構と言わんばかり下を向いて雪野の顔を後ろに押しのけた。
花応の右手の包帯は今や軽く巻かれたものになっていた。傷を塞ぐ為というよりは雑菌などが入らない為の予防処置として巻いているのだろう。
「むむ……まあ、座ってあげる。だから、詳しく教えなさい、花応」
「何でそんなに偉そうなのよ?」
「花応がほいほい速水さんの怪しい誘いに乗ってるからでしょ」
「分かったわよ。分かったから、とにかく座りなさいよ」
花応の言葉に雪野がようやく席に座り直した。
「で、誰と誰でいくって?」
「そりゃ、私と雪野、それに誘った速水さんに、彼恋……」
「明らかに怪しいわね。彼恋さんは知ってるの? 私たちが来るってこと?」
「さあ?」
花応が雪野から視線を横にそらした。
「さあって。電話してないの?」
雪野が座ったままでもう一度身を乗り出す。
「朝、降って湧いた話だもの。してないわよ」
花応は視線をそらしたままだ。
「じゃあ、お昼終わったら、電話ね」
「それは……」
花応はまだ視線を前に戻さない。
「『ああ、彼恋。今度遊びにくるんだって? お姉ちゃん、楽しみ』――って伝えるだけの、簡単な電話じゃない?」
「るっさい……」
「電話のかけ方は、メモに書いてあげたでしょ? 昨日はちゃんと電話できたんでしょ?」
「昨日は結局……手ひどく切られたのよ……昨日の今日で、電話なんてできない……」
横に避けたままの目を下に向けて花応は目を伏せる。
「昨日でも、今日でも。その様子じゃ、電話はできそうね」
「……」
今度は伏せた目を花応は上げようとしない。花応は目の前の幾らも減っていないお弁当に形だけ箸をつけた。
「たく……絶対に何か考えてるわね。速水さんは」
花応の様子に雪野もお弁当に箸をつける。花応とは反対に勢いよくお弁当の中身を口に運び始めた。
「そうね……」
「それでも誘いに乗るんだ?」
「だって……」
「会いたいものね、彼恋さん?」
雪野が箸を止める。それと同時に花応の様子をうかがった。
雪野が無言でじっと見守る中、花応はようやく箸を上げる。
だが何も箸でおかずを拾い上げることなく、
「……」
花応は黙って箸先だけを物欲しげに口元に持っていった。