九、悪い友達 5
「……」
翌朝。始業前の高校の教室。花応は教室の窓際の机で一人無言で突っ伏していた。
朝日も新鮮なら窓も真新しい。新たにはめられた窓ガラスは、くすみ一つなく昇ったばかりの陽の光を受けている。
教室に射し込む陽光はそのまま遮られることもなく花応の突っ伏したうなじを照らした。
そこに逆立つ産毛すら朝のさわやかな光を受けて輝いているかに見える。
「……」
だが当の本人は落ち込んでいるようだ。
花応は机に突っ伏したまま顔を上げようとしない。己の二本の腕を机の上で交差させ、その交差した腕を枕に頭を乗せていた。日の光を避ける為か、見たくない現実から目を背ける為か。花応はその目元をちょうど腕の枕に乗せていた。
「あの……桐山さん……」
その花応に遠慮がちに一人の男子生徒が覗き込んだ。
「何……誰よ……」
「僕だよ。氷室だよ」
呼びかけてもろくに顔を上げない相手。その相手に気弱な笑みを浮かべて氷室零士は応える。氷室は己の頬も指で掻き気まずそうに花応のうなじ辺りを見下ろす。
「何、氷室くん……今、ちょっと沈んでんだけど……」
「いや、見たら分かるよ! だからどうしたのかなって……ああ! 僕で力になれることがあったらとか思ったんだけど……め、迷惑だったかな……」
氷室はあちこちに目を泳がせながら一気にまくしたてた。時にうわずったように声を上げ、時に遠慮がちに口ごもりながら氷室は頭まで掻いてまくしたてる。
それでいてその泳ぐ目が最後に戻って来る場所は花応のうなじ辺りだった。そこはやはり本人が沈んでいると口にしようとも陽光を受けて光り輝いている。
氷室は花応が顔を上げないことをむしろ幸運と見たかのようにそのうなじにちらちらと視線を向ける。
その氷室は後ろ手に手を組んでいた。そしてその手には何やら二枚の紙片を持っている。四角く細長いそれは指の形に少々曲がっていた。汗の浮かぶ手で氷室は細長い紙片を二枚力の入ってしまう手で握りしめているようだ。
「迷惑じゃないけど……放っといて……」
花応が顔を横に向けた。同じ姿勢に疲れたのか、氷室を拒もうとしたのか。花応は腕枕をしたまま首を曲げる。
今まで伏せていた目がまともに陽光を受けた。花応はまぶしげに薄目を少し開けるとすぐに目を固く閉じた。
「そ、そう……ああ! 千早さんは今日は一緒じゃないんだね?」
拒まれてもまだ食らいつこうとしてか氷室が話題を変える。後ろ手に組んだ指の中の紙片が同時に揺れた。
「雪野は、朝練……演劇は体力だって……文科系なのに、バカじゃないの……」
「ああ、そうなの? あっ、ちょうど。下を通りかかるみたいだよ」
氷室が体を伸ばして花応の背中越しに窓の下を覗き込んだ。花応の背中に触れるか触れないかぎりぎりに体を寄せて氷室は窓に顔を寄せる。そこには体操服の一団がちょうど校門の内側をランニングで通りかかるところだった。
氷室の気配に気づいたのかランニングの中の一人が不意に顔を上げる。雪野だ。
雪野が窓から覗く氷室の顔にいぶかしげに目を向けながら駆けていった。
「睨まれたよ」
「そう。過保護なのよ、あの娘は……」
「はは……えっと、河中くんは――」
氷室がそこまで口にすると教室のドアに振り返る。ドアから順に教室を見回すがそこに宗次郎の姿はなかった。
「河中くんは、まだ来てないね……」
「あのバカは、いつも遅刻でしょ? 知らないわよ……」
「ああ、そう……こんな時にも遅刻だなんて……あれだね……」
「何よ……」
花応が目開けてじろりと見上げる。それでいくらも氷室を見える位置を見上げている訳でもなく、それでも花応は頬を膨らませてじろりに睨んだ。
「いや! 何でもないんだ! いや! ホント、今日は桐山さんが、落ち込んでるなって思って! こんな時に、側に居ないなて!」
「あ、そう……」
花応はもう一度目元ごと腕枕の中に顔を沈める。
「桐山さん……それでね……」
氷室が後ろ手に持っていた紙片をゆっくりと胸元に持って来る。
氷室の背中から出て来たそれは映画のチケットか何かのようだ。
「よよよよ、よかったら……気分転換に、えええ……」
「いい。放っといて……」
「あ、その……」
「落ち込んでるッスね」
「そうみたいなんだよ。だから、僕――って……わっ!」
不意に後ろから話しかけられ氷室が驚いて身を飛び上がらせるて振り返る。
身をすくませて振り返る氷室の肩に、
「何驚いてるッスか? クラスメートッスよ」
音もなく現れていた速水颯子が馴れ馴れしく腕を回した。
「速水さん!」
花応が飛び起きるように顔を上げた。
「桐山さん!」
急に顔を上げた花応に氷室が慌ててチケットをもう一度背中に隠した。
「ウイッス。颯子ちゃんッス。落ち込んでるッスか? だったら、遊びにいくッスよ」
速水も空いていた手を後ろに回した。自慢のスピードで回された腕は氷室の背中まで一瞬で回る。
「あっ?」
氷室の驚きの声とともに背中に戻った氷室の手元から映画のチケットが消えた。再び現れたチケットは窓の向こう二枚まとめて消えていくところだった。
「何で、あんたなんかと……」
花応はその一連の動きに気づかず速水を睨みながら見上げる。
「それは、当たり前ッス。今度の日曜日――」
窓の向こうに消えていく二枚のチケット。
「ああ……僕のチケットが……」
それを呆然と見送る氷室の肩に馴れ馴れしく手を回したまま、
「妹ちゃんが、遊びに来るからッスよ」
速水は細い目を更に細めて花応を挑発的な笑みで見下ろした。