一、科学の娘17
「イヤッ!」
もはや地面に平たく広がってしまった天草が悲痛な悲鳴を上げる。
「もういいわね」
その様子に雪野がその手を止めた。
「……」
花応は肩で息をしていた。ガラスビンを投げ入れていたのは初めだけだが、興奮するままに捲し立てたのが体にきたのだろう。
中庭一面が水浸しになっていた。その周囲にはジョーが作り出した煙。その向こうには陰としか分からないが慌てふためく教師や生徒の姿が見える。
「さて、天草杏子さん」
雪野が天草にゆっくりと近づき、魔法の杖を向けた。
「ああ、そんな名前なんだ」
花応のその背中に続いた。ジョーもこのときばかりは騒がずについてくる。
「知らなかったの? ホント他人に興味ないのね、桐山さんは」
「だって……てか、あんたひょっとして、クラス中のフルネームを知ってるの?」
「知ってるに決まってるでしょ?」
「ええ!」
「何、驚いてるよ? まあ、いいわ。で、天草さん。その力、私の力で消滅されるから。覚悟してね」
「いや……」
天草はか細い声で応える。応えるというよりは、ただただ口に出ただけのようでもあった。
「嫌って言われてもね。桐山さんのせいで、今やそんな姿――」
「私のせいって何よ」
「そんな姿のまま、人前に出れないでしょ? それに復しゅうとか迷惑だしね」
「嫌よ……まだ、誰も……」
天草はフルフルと震える。
「……」
「まだ誰にも、仕返してないのに……」
「『まだ誰も』傷つける前だった! ラッキーだったと思いなさい!」
雪野の眉が怒りにか険しく中央に寄せられた。鋭いまなざしを向けるや、天草に向かって力強く杖をふるう。
天草の体が眩しい光に包まれた。
「『誰も』って……」
花応はそんな様子よりも、改めて雪野の背中に目を奪われる。
誰も傷ついてない訳がない。雪野の背中はシャツも含めて制服がばっさりと斜めに破れている。裂け目から垣間見える肌はとても白いが、その斜めの破け目になぞるように赤く腫れ上がってしまっている。
花応をかばった痕だ。
「天草さん」
天草の体を覆い尽くした光が収まり、雪野も魔法の杖をおろした。
「ひっ……いや……」
花音達に保健室に運ばれたときの姿のままで、天草が中庭に倒れていた。
いや今やそのジャージはずぶ濡れであり、泥にもまみれている。
「いやぁぁ……うわあぁぁ……いやぁぁ……」
天草は起き上がることもできずにその場で泣きじゃくり始めた。
「何か私達がいじめたみたいね」
「ふん。桐山さんのお陰で逆転の目が見えたとき、確かに私はちょっと嗜虐的な気分になったわ。確かにいじめたかもね」
「真面目ね。あんなことされたのに、そんな風に感じる必要なんてないわよ」
「……」
雪野が視線を顔ごと花応からそらした。その反面、己の背中を花応により見せることになる。
「あんた……その背中大丈夫?」
「ああ! そうね! 色々直さなきゃね! もたもたしてると、警察呼ばれちゃうわ!」
「直せるの?」
「攻撃的な力はもうほとんどないけど、そういうのは大丈夫なのよ」
雪野が魔法の杖をふるう。今度は中庭全体が眩いばかりの光に包まれた。
「ホント、非科学ね……」
花応が驚きに目を見開きながらガラスの割れた保健室を見る。それは包まれた光が収まるや否や、何事もなかったかのように元通りになっている。
雪野の背中も光に包まれた。派手に裂けていた雪野の制服が、こちらも縫い目すら作らずに塞がっていく。
「……」
雪野の背中を見て、花応が安堵に息を漏らした。
天草は何処までも泣きじゃくっている。
「さて、物はどうにかなるとして……ジョー。煙幕終わり。スモークを……」
「ペ、ペリ……」
雪野の呼びかけに、ジョーが緊張に息を呑むように応えた。
花応達の周りの物理的な白い煙幕が急激に晴れていく。その代わりに今度はジョーは雪野の足下に煙を吐き始める。この煙は普通のようだ。
「スモーク? 何すんのよ? とっとと逃げた方がいいんじゃないの?」
「物に対しては何もありませんでしたって顔できても、人の記憶は無理でしょ? あんなに派手にやらかしておいて」
「そうだけど……何を始める気よ?」
自分達の足下に溜まっていくジョーの煙。先程までとは違って、それが物理的に何かを邪魔するようなことはない。
「君たち! 大丈夫か?」
「何があった? どうなってんだ!」
煙幕が晴れると教師が数名駆け寄ってくる。
「そうね――私こう見えても演劇部なの」
雪野が悪戯っぽく笑う。
「はい?」
「何があった?」
花応達の近くまできた教師の一人が雪野に問う。別の教師が泣きじゃくっている天草を立たせようとしていた。
「お騒がせしてすいません。演劇部の練習です。桐山さん達には、手伝ってもらってました」
「はい? あんたそんなんで、誤魔化せると……」
そこまで口にした花応が息を呑む。
花応が目にした雪野の笑み。煙を従え舞台女優然とした微笑み。まるで人を下に見ているかのような妖しい微笑。
それはぞっとするような――
「誤魔化せるわ……だって、私は魔法少女……もっと言えば、魔女だもの……」
人を惑わせる魔性の笑みだった。