八、生徒の鑑 13
「もういいの?」
雪野が携帯を受け取る為に手を花応に伸ばした。その表情からは固いものが抜け落ちていた。雪野は自然ないつもの笑みを浮かべて花応に手を伸ばす。
「もういいわよ」
花応はこちらは作ったようにぶっきらぼうに応えてた。花応はもう興味ないと言わんばかりにぷいっと横まで向いて雪野に携帯を差し出す。
「ペリ!」
そんな様子にジョーが嬉しげに羽を何度か羽ばたかせる。
「私としては、どっちから切るか。未練たらたらの甘えた声で、可愛くもいじらしく。端から見てると、微笑ましくもばかばかしい、色惚けぶりを見せてもらえると思ったんだけど?」
「はぁ? あんたこんな時まで、私をあいつとくっつけたがんの? てか、切り方分かんないから、切りなさいよ」
「あらそう。聞いてた、河中? 残念ね」
雪野が受け取った携帯を耳元に寄せ、最後は花応と携帯の向こうに向かってくすくすと笑ってみせる。
うるせぇーという宗次郎の言葉を残し携帯が雪野の手元で切られた。
「さてと……」
「……」
花応がテーブルを無言で回り込み雪野の前に座った。花応はノドを湿らせる為にか手にしていた缶ジュースの残りにちびりと口をつける。
「一応謝っとくわ。妹さんを巻き込んでごめんなさい」
「……」
こちらを真っ直ぐ見つめてくる雪野に
「〝ささやか〟れたのは確実ね」
「そうね……」
雪野の言葉に花応が唇の端をぎゅっと結ぶ。
「妹さん、どんな娘?」
「どんなって……私が今の家に引き取られる前は、あまり遊んだことがない従妹だった……かなり頭がよくって、ばかばかしいとか言って高校通ってない……」
手元の缶ジュースに視線を落として話す花応。
「ペリ……」
その花応の方へ歩み寄りジョーがその長い首を生かし下から覗き込む。
花応がその顔を黙って押し戻す。だがそのことで踏ん切りがついたのか花応が正面から雪野の顔を見つめた。
「高校行ってないの? それで平日に、こんな地方まで遊び来てたの?」
「遊びに来たんじゃないと思う。多分これから海外の大学に進学するから、こっちの大学の先生に相談か何かに来たんだと思う」
「飛び級ってヤツ? 頭いいにも程があるわね」
雪野が信じられないとばかりに眉間にシワを寄せた。
「いや、その……」
雪野のその反応に花応が気まずそうに目をそらす。
「何?」
「私も最初はそうするつもりだったかなって……」
「はいはい。これからは勉強は、全部あなたに任すわ」
「教え方なんて、分かんない」
「あら、そう。で、結局電話はできたの?」
「できてない……中学に上がった辺りから、あまり話さなくなったし……やっぱり確認するのは、怖いし……」
花応が缶ジュースをテーブルに置く。
「向こうからもないのね。ダメ姉妹ね。まあ、少なくとも。向こうからは昨日電話があったけど」
「私は、かけ方もよく分からないからよ……」
花応が唇を尖らせて横を向く。だが脇から花応の顔を伺っていたジョーと目が合い、ぷいっと更に反対に向き直した。
「それってさ。ホントは電話するのが怖いから。話すのが怖いから。そういう携帯とかを、苦手だと思い込んでるんじゃないの?」
「別に。誰だって苦手なものぐらいあるわよ」
「妹さんと話すこと?」
「そ、そうよ……」
「あんなにそっくりなのに」
「そっくりだからって、仲がいいとは限らない……」
「利き腕以外は瓜二つなのにね。仲良くしたらいいのに」
「『利き腕』?」
雪野の言葉に花応がきょとんと目を開いて聞き返す。
「彼恋さんって、左利きでしょ? 河中が言ってたけど?」
「はい? 彼恋も私と同じで右利きだけど?」
「あれ? あの新聞部。碌な観察眼もないの? 生徒会長に彼恋さんが左手でものを投げつけてたって、言ってたのよ。河中のヤツが」
「右手が塞がってたか、痛かったか何かじゃないの? 彼恋は右利きよ。あの娘が左利きだったら、それこそキラリティよ。エナンチオマーよ」
「はい? 何だっけ? 聞いたことあるような、ないような」
雪野が頭の中の記憶を見んとか、上目遣いに顔を見上げる。
「対掌性とその立体異性体のことよ。言ったことあるでしょ? 鏡に映した右手が、左手に見えるように。形はまったく同じなのに、重ね合わせることができない分子構造同士のことよ」
「右手と左手って、重ならないの?」
「重ならないわ。左右の別がきっちり決まってる手袋なら、右手用の手袋は左手にははまらないでしょ。その逆も」
「うーん。そうだっけ……」
「そうよ。右手と左手は、よく似てるけど絶対に重ならないわ。でもあの娘が左利きだったら……私たちは確かにエナンチオマーね……」
「花応……」
「……」
花応が黙って己の両手に目を落とす。
両の掌を広げて花応はじっと己の手を見た。包帯の巻かれた右手に花応はじっと視線を落とす。次いで無傷の左手に目を移した。
「……」
そんな花応を雪野も黙って見つめる。
花応は開いていた両手をぐっと握りしめると、
「雪野、力を貸して。あの娘が傷つく前に」
両の目に光を戻して雪野の目を正面から見つめ返した。