六、復讐者 18
「テルミンに驚いたわね?」
花応はテルミンの音に合わせたかのように上機嫌に軽く鼻を鳴らした。花応の背後をとりあえず強弱のついた電子音が流れている。
花応に注意されジョーは大人しく歌なしテルミンを演奏することにしたようだ。歌えない鬱憤をその動きに込めたかのように大げさに羽を振ってテルミンを奏でていた。
「お、おう」
大げさになった分音程の強弱も上がったテルミンの音。特に節などない単調なその音階に、宗次郎が戸惑い気味にアゴを上下させてうなづく。
「よろしい。では、お昼にしましょう」
「手伝うわ、花応」
花応がキッチンに身を翻すと雪野が立ち上がる。
「俺も」
「座ってなさいよ、花応と私とやるわよ」
続いて立ち上がった宗次郎に雪野が笑顔で振り返る。
「手伝わなくっていいのか?」
「一応、お客様だから。雪野は昨日から泊まってるから、もうお客様扱いは解除」
「そうよ。花応の〝手料理〟を待ってなさい」
テルミンの殊更大きくなった音量に合わせて、雪野が歌うように節をつけて『手料理』という言葉を口にする。
「何で私の手料理ってのを強調するのよ?」
「別に!」
「いや、でもお前ら二人とも手に包帯だろ? 大丈夫か?」
宗次郎は早くもキッチンに並んで立った二人の手元を見る。花応は軽く右手に、雪野はこんもりと両手に包帯を巻いている。
「大丈夫。昨日の内に、下ごしらえは終わってるの。ジョー、テルミンもういいから、手伝いなさい」
花応が冷蔵庫を開けながら答えジョーを呼ぶ。
「ぺ? ペリ!」
歌はやめても興は乗ってきていたのか一心不乱な様子で羽をふるっていたジョーがアゴを落として振り返る。
「ヒマ? ヒマね? 待ってる間ヒマよね?」
冷蔵庫からラップのかけられたサラダの皿を持って戻って来た花応が宗次郎に訊く。
「何だそのヒマ以外の答えを求めてない聞き方は?」
「動画でも見てる? 宇宙創世時における自発的対称性の破れをCGで再現した番組と、可視的量子現象の代表的現象であるボース・アインシュタイン凝縮の実証記録映像がおすすめね。マクロとミクロ。どっちの科学ドキュメンタリーがいい? まあ、マクロもミクロもウロボロスの輪のように繋がってるんだけどね」
花応は皿をテーブルに置くとテレビ台の下のラックを自慢げに指差す。
「どっちも何のことを言ってるのか、皆目検討もつかない」
「むむ! ボース・アインシュタイン凝縮は、昨日のヘリウムの超流動に繋がるお話よ。興味持ちなさいよ。それじゃ、昨日ははしょったけど、実は絶対零度を下回る温度もあり得るのよ。まだ論文レベルだけど。宇宙を膨張させるダークエネルギーに繋がるかも知れないお話よ。その論文でも見てる。原文だけど」
「原文で科学の論文なんて読めるか! 普通に映画とかないのかよ?」
「ないわ!」
「自信満々に言い放つことか! いい! やっぱり手伝う!」
分厚い外国語の科学論文が目の前に置かれることを恐れてか、宗次郎がイスから勢いよく立ち上がる。
「あら、結局手伝うの?」
逃げるようにテーブルを離れた宗次郎は、鍋に火をかけていた雪野にからかいの笑みで迎えられた。
「おう! こう見えても俺ん家も母ちゃん忙しいからな。俺もそれなりに家事すんだよ。任せとけ。これ剥くのか?」
宗次郎は雪野の隣でキッチンに並ぶとまな板の上に転がっていたリンゴを取り上げる。
「むむ! 三人並ぶと流石に狭いじゃない」
花応が雪野と宗次郎の間に割って入るようにキッチンに立つ。切り置かれていた具材の入ったステンレスのボール。その中身を花応は雪野の前の鍋にゆっくりと入れる。
その後ろではジョーがテーブルに食器を並べ始めていた。
「あは! なんだか、変な家族みたいね!」
その様子に雪野が笑う。
「ふん! こいつと家族? 冗談!」
花応が鼻を鳴らしてそっぽを向き、鍋に放り込んだ具材をお玉で乱暴に掻き混ぜた。
「あ、そうそう。家族と言えば――花応。結局折り返しの電話したの?」
「『折り返しの電話』? 何、昨日ジョーが言ってたヤツ? してないわよ」
「してないの? 名前読めなかったけど、名字は桐山だったわよ。ご家族か誰かでしょ? あっ!」
雪野はそこで何かを思い出したかのように、己の口元を慌てて押さえる。
「いいわよ、そこ気を遣わなくって……てか、家族なんて……電話くれる家族なんて、お爺様以外居ないわ……」
「いや、でもほら……実際かかってきたし……お爺ちゃんじゃなくって、なんか可愛い女の子からだったわよ! 妹さんか何かじゃないの?」
「――ッ!」
雪野が慌てて続けた言葉に鍋を混ぜていた花応の手が止まる。
「あの字何て読むのかしら――あっ! 分かった『彼』『恋』で――」
「――ッ!」
続く雪野の言葉に花応ががく然と目を見開いた振り向いた。
「〝カレン〟さんだ! そうでしょ?」
雪野が嬉しそうに花応に振り返ると、
「彼恋!」
花応は悲鳴めいてその名を叫ぶや気を失うように背中から倒れていった。